第五章 天《あま》を翔ける 2

「まあそんな夜中に? それは大変でした」

 皇后マリオンは新しい紅茶を淹れながら言った。

「いえそれはいっこうに大丈夫なのですが……」

 アナスタシアは言い淀んだ。マリオンはおやと思って彼女を見る。

「彼女の態度が気になります。子が流れてしまったのなら、もっと悲しんでいいはずなのに……」

 マリオンは自分も紅茶を飲みながら、アナスタシアの言葉を頭のなかで反芻しているようだった。

「ええ確かに。同じ子を持つ者としては、不思議ですわ」

 マリオンはゼランディアをその身に宿していた時の頃を思い出していた。

 愛する男との確かな証。自分が彼を愛し彼に愛されたことは歴史にも、また形として血にも残るのだという喜び。ヴィルヘルムという歴史の生み出した天才の子孫を残すことができるという誇らしさ。母になるという、不安ないまぜの胸の高鳴り……。

 皇帝は自分が妊娠中のときそれはよく気遣ってくれた。日常皇帝を暗殺せしめんとする者は数え切れないくらいいるが、その皇帝の次代を宿した皇后マリオンにも、その危険が充分あったといっていい。彼は側近を随時マリオンの側に置き、ヴィウェン将軍のところから借りた料理人の食事しか摂らせなかった。また出来るかぎり側にいて労わった。立ち上がるときにはいつも手を貸してくれたし、また会えないときには栄養のある果物や彼女の好きな花などを届けたりもして、マリオンは不安もなく妊娠中の期間を過ごすことが出来た。忘れられないのは、階段を降りるときだ。宮殿の階段は無数にあるが、どれも比較的昇降しやすいものである。が、例外もあるわけで、段のきつい階段を彼女が降りようとして、つまづいてしまったことがある。無論手摺りにつかまっていたし、ほんの爪先が引っ掛かってしまった程度なのだが、その途端マリオンは身体が浮くのを認識した。

 ヴィルヘルムが彼女を抱き上げていたのだ。

「へ、陛下……」

 これにはマリオンも驚いた。こんなことをする男だとは思わなかった。ずんずん階段を降り、廊下を歩いていれば、当然侍女にも女官にも、将軍の誰かにも会う。

「陛下……」

 マリオンは恥ずかしくなって顔を手で覆った。

「人が……」

「身重の后の心配をしてなにが悪い」

 言下にそう言ったのみで、ヴィルヘルムは堂々としたものだった。そんな二人を、廊下で出会った者たちは、実に微笑ましい笑顔で見送ったのである。

「母になるというのはとても嬉しいことです。まるで話を聞いているとそのシリィという娘さんは、わざと流産するようなことをしたとしか……」

「でもなぜ……」

「---------」

 マリオンは黙りこくった。ただ、望まぬ子ならば、そう思うこともあるかもしれないと言ったのみだった。それを聞いたとき、アナスタシアはイヴァンに調査をさせることを決心した。



 数日後アナスタシアが氷竜隊の司令室で一息入れていると、イヴァンがやってきた。

「閣下、わかりました」

 司令室に入りぎわ言うとイヴァンは持っていた書類をアナスタシアに見せた。

「あの娘は連れ子です」

「連れ子……?」

「はい。伯爵は再婚でして、今の夫人は後妻だそうです。そのとき一緒に伯爵家に入ったのがあの娘だということで」

「いつの話だ」

「二年ほど前だそうで」

「……」

 アナスタシアは爪を噛んだ。

「読めたぞ」

 低く呟いたとき、扉がノックされた。

「訪問の多いことだ」

 アナスタシアはうんざりしたように呟く。入ってきたのは彼女の馴染みの侍女で、シリィの世話をしている者だ。あの尋問の日からそろそろ二か月が経とうとしている。折りを見て病室を訪ねているアナスタシアではあったが、シリィは相変わらず何も言わなった。 ときどきアナスタシアの言葉に耳を傾けている様子がわかるくらいで、あとは一切無言。 侍女の話によれば、アナスタシアが訪ねたときばかりがああではないのだとか。

「いっさい口をおききになりません。首を縦か横に振るだけで答えるのみですわ」

 侍女がそう言ったのもまだ記憶に新しい。

「なんだお前か。どうしたこんなところに」

「はい実は……」

 侍女は慣れない軍司令室の空気に圧倒されているのか、もじもじしながらシリィがアナスタシアに会いたいと言っている旨を伝えてきた。

「何……」

 さすがのアナスタシアも、これには腰を浮かせた。

「口をきいたのか」

「はい」

 侍女は素直にうなづく。

「将軍にお会いしたいと、ただそれだけ……」

 アナスタシアはイヴァンと顔を見合わせた。

「よし行こう」

 侍女の話によると、昼食を終えたときに呟くように言ったのだとか。なんでもここ数日ずっとその侍女がアナスタシアの人柄を説いていたらしい。アナスタシアは折りに触れて栄養のあるものや果物を届けたりしていたし、また先日の玉座の間での一件も昨日耳にしたばかりとかで、考え事をしているときが以来増えたそうだ。

(言う気になったか……)

 藍色の瞳を細めながら、アナスタシアは病室を目指していた。

 シリィは起き上がってアナスタシアを待っていた。アナスタシアが入ってくると顔を向けて眩しそうに見上げた。

「イヴァン」

「は」

「しばらく二人にしてくれ」

「は? ですが……」

「一度しか言わんぞ」

「……はい」

 イヴァンは素直に引き下がった。アナスタシアは側にあった椅子に座ると、シリィを見てまず聞いた。

「具合はどうだ」

 と。いきなりいたわりの言葉が来るとは思わなかったのか、シリィは少し戸惑って、それから迷いながらも小さくうなづいた。

 アナスタシアは改めて彼女を見た。

 うすく淹れた紅茶色の髪。日に透けてなんともいえない美しさを放っている。スィッテ地方特有の白い肌はその髪とあいまってなまめかしく輝き、伏し目がちの青い瞳も魅力的だ。

「私に話があるそうだな」

 アナスタシアはやんわりと言った。自分が問い詰めるように言うと、相手が圧倒されるような言いようのない緊張に包まれることは、充分理解している。この藍色の瞳が威圧してしまうということも。相手にもよるが、アナスタシアは誰かの話を聞くとき、威圧しないよう目を閉じて相手が話せるようにすることもある。

「……」

 シリィは黙って窓の外を見た。しばらくそうしていたので、アナスタシアも窓の外を見た。まぶしかった。初夏の光が新緑を照らし、その緑が風に揺れてきらきらと輝く。鳥の声もする。あれは何の鳥だろう。

「……きれいだな」

 アナスタシアは無心にそう言った。シリィが彼女を見ても、まだ視線は窓の外。

「塔に幽閉されていたときのころを思い出す。毎朝朝焼けがとても美しかった。季節によって時間や色の濃淡が違うのだ」

「塔に……」

 一般人にとって完全無欠の印象濃い将軍の意外な一面を見せ付けられて、少し驚いたのか、シリィは、アナスタシアの顔をじっと見つめていた。

「伯爵は、屋敷の地下通路から行った町外れの教会の地下講堂に隠れているはずです」

 アナスタシアは視線をシリィに移した。

「……」

「よいのか」

「---------」

「お前の父親であろう」

「---------」

 アナスタシアはシリィを見つめた。

「……お前は連れ子だそうだな」

「---------」

「---------お前の父親であり、同時に生まれるはずだった子供の父親か」

「! ---------」

 シリィは驚いてアナスタシアを見た。まっすぐにこちらを見ている。それは責めるようでも、非難するようでもなかったし、ましてや軽蔑の視線でもなかった。いたわる、優しい瞳をしていた。その慈愛の藍色に触れて、シリィはたまらなくなったのか、泣きだした。

「いつからだ」

 アナスタシアはすすり泣きの声を聞きながらそっと聞いた。

「……は、母が再婚してすぐ……」

「十六の頃か……」

 アナスタシアはため息まじりで言った。呆れもあったし、驚きもあった。やりきれないように髪をかきあげ、また窓の外に視線を向ける。

「……」

 窓の外の幻想のように美しい風景。普通なら、この娘もこんな光景が似合わなければならない年頃なのに。今の彼女にはまとわりつく影ばかりがあるのみ。アナスタシアはそっと目を伏せた。そして眉をわずかに寄せ、もう一度そっとため息をつく。

「本国に戻りたいか」

 アナスタシアはそっと聞いた。シリィはすぐに激しく首を振った。

「そうか。ならば無理は言わない。ゼンディ地区に父の別荘がある。そこを貸してやるからゆっくり休むがいい」

「……」

 シリィフェンは涙に濡れた瞳でアナスタシアを見た。

「お前はまだ充分若い。いくらでもやり直しがきく。そこでゆっくりと休養して、その内私がなんとかしてやるから」

 そう言って立ち上がると、アナスタシアはイヴァンを呼びながら部屋を出ていった。シリィはまだ夢でも見ているかのように、アナスタシアが出ていった扉を見つめていた。

「すぐに手配しろ。教会の地下講堂だ」

「はっ」

「逃げ道を完全に塞げ。絶対に逃がすな」

 アナスタシアは先程聞いた話を、イヴァンにすら言わず自分の胸にしまっておこうと思っている。ただ後日、よくよく熟考の上マリオンにだけは話した。彼女はひどく驚いていたようだったが、シリィの身元をアナスタシアが保証することについて、

「それでは、わたくしから陛下にお話しておきます」

 と言ってくれた。いくらアナスタシアが管轄した地区で起こったこととはいえ、本来彼女がそこまですることはないのだ。マリオンは自分が皇帝に言いにくいことを、自分が代わりに言ってくれると、そう言ったのだ。

「そうして頂けますか。ありがとうございます」

 アナスタシアは頭を下げた。

 これは夏が終わる頃のことだが、判決の結果伯爵と夫人は敗戦したときの貴族に似つかわしくない行為を働いたということで、極刑に処せられた。

 外には緑がまぶしく輝き、初夏真っ盛り、その季節も駆け足で通りすぎれば梅雨、夏はもうすぐそこだ。

 ゾラの季節が来ようとしている。


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