第五章 天《あま》を翔ける 3
2
ある日、アナスタシアは宮殿で侍女からおかしな話をきいた。
「反乱軍狩り……?」
「ええ。北の山で。反乱軍の方も必死に応戦しているようですが、なんでも雪崩があってそのせいでうまく連絡がとれないせいで苦戦しているとか……」
「……」
雪に包まれた山のなかで彼らの苦戦している状態が目に見えるようだった。アナスタシアはぐっと拳を握って耐えた。
「わかった……もう下がっていい。それから大将を呼んでくれ」
「はい」
侍女が去ってから、アナスタシアは窓に歩み寄って空の彼方を見た。短いが生活を共にした彼らの顔が、浮かんでは消えた。
(……)
アナスタシアが唇をぎゅっと噛みしめたとき、イヴァンがやってきた。私室に呼び出されたので驚いているようだった。
「閣下、お呼びだそうで」
「氷竜隊に光鳩は何羽いる?」
「は? 光鳩でございますか」
「そうだ」
「六羽です」
「……では一羽持ってきてくれ。なるべく丈夫なのを」
「は」
イヴァンは何も聞かなかった。しばらくして籠に光鳩を入れて持ってくると、アナスタシアの命に応じて退室した。籠のなかでにぶく光る鳩。軍の通信用の鳩で、その光り輝いて飛翔する様と光速に近い速さから光鳩と呼ばれている。アナスタシアは机の引き出しから何かを取り出して書き込み、籠から光鳩を取り出してそれを足の環にはめこんだ。そして両手に抱え、そっとその身体に額をつける。
頭に浮かべるのは……あの雪に覆われた山の地。そしてあの男の顔。鮮明に、なるべく鮮明に、細部に渡るまで。あの地を、あの雪のにおいを、彼らのあの顔を、出来るかぎりはっきりと思い描く。
手のなかで光鳩がクゥ、と鳴いた。
「よし……」
アナスタシアは呟くと窓に歩み寄って窓を開け放ち、再び光鳩の身体に額をつけ、あの男の顔を浮かべた。
(お前の主人は今からこの男だ)
そして勢いよく光鳩を放つ。たちまち鳩は使命を帯びて光りながらあっという間に空の彼方へ飛んでいってしまった。
「……」
光鳩は光の速さで---------一路あの雪の地へと……!
「アル! 大変だレジュがいない!」
「下に行っているはずだ! なぜ帰ってこない!?」
アルは唇を噛んだ。ふもとに連絡に行っているはずの人間が帰ってこないのはこれで五度目だ。いや、帰ってこないというよりは、帰ってくるのが遅すぎるのだ。
シェファンダが故意に起こした雪崩のせいで大幅に道をまわらなければならないのは彼自身も経験したことだ。時間がかかりすぎて、麓に行くことはできるのだが、その頃自分の持っていった伝令はまるで役に立たないまでに時間がたってしまっているのだ。これほどまでに自分たちが劣勢なのも連絡がうまく行き交わないせいだ。
「くそっ……!」
「アル!」
「テュラ」
「右側はほぼいいぞ」
「だがこのままではここも落ちる」
「どうすりゃいいんだ」
他の仲間たちが口々に呟く。戦力は拮抗するまでに育っているのだ。ただあの雪崩すらなければ! シェファンダは今、帝国との戦争を終えて反乱軍に構っていられるほどの余裕はないはず。ということは、ここで持ちこたえれば、シェファンダ本国は反乱軍がここを本拠地としているということはわからないはずなのだ。
「くそ……っ」
テュラが忌ま忌ましげに雪を蹴った時だ。
「……」
アルは彼方の空から何か光るものが近付くのを放心して見ていた。それは神の使者のように神々しい光を放って彼のもとへ飛んできた。飛翔をやめるとそれは、今まで放っていた激しい輝きを失って今度は呼吸するかのようににぶく明滅し始めた。
「おいこれは……!」
「まさか」
仲間たちが騒ぎ始めた。アルは放心して腕にとまるそれを見つめていた。
「こいつぁ光鳩だ」
テュラが驚愕を隠しきれず呟いた。
「光鳩……聞いたことあるぜ」
「ああ。帝国が独自に開発して造り上げた光の速さで飛ぶ鳩で……」
「戦時の伝令用に使われてるはずだ」
「でもその光鳩がなんで……」
アルは鳩の足環になにか見つけてそれを取り出し、広げた。
それはカードだった。四隅に水色の線が舞うように描かれている白地の小さなカード。 それには短くこんなことが書かれていた。
アルへ
ピアスのお礼
「……アナスタシア……」
アルは放心して呟いた。カードの四隅の水色の線はアイスブルー。水色はあの女を思い起こさせる。
「アル……」
テュラが低く彼の名を呟いた。アルはカードをぐっと握り締めた。
「よし……ふもとに連絡を」
「おう」
にわかに山が活気づく。連絡さえ取り合えればあの程度のシェファンダの軍、撃退することができる。
「それにこの鳩雌だぜ」
「夏には卵を生むな」
「あの女やってくれるぜ」
仲間たちの声を聞きながらアルはアナスタシアを思い浮べていた。いつかシェファンダを打ち破る日が必ず来る。その時にはあの女にも会うことだろう。そしてすべてが終わった時、もう一度彼はアナスタシアを山に誘うつもりでいる。
アナスタシアは鳩を放ってから窓から一歩も動かなかった。やがて鳩が山につく頃を自分で想像し、口のなかで低く呟いた。
「アル……すまない。私にできるのはこれまでだ」
一か月後、アナスタシアの耳には再び反乱軍勝利の噂が侍女よりもたされる。
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