第四章 冬籠もりの間に 10

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 カイルザート。

 その名は世界のあらゆる学界に鳴り響いている。あらゆる知識を網羅した男。獲得した学士課程は数十にものぼるという。軍人をしているのがもったいないくらいだとよく言われるらしいが、彼はその知識を以てして戦ってこそ、その本領が発揮されるといっていいかもしれない。采配将軍と呼ばれるのは伊達ではない。

 彼は生まれた時から学ぶことが好きだった。いつも何かに疑問を持ち、自分の納得いくまで答えを飽くことなく求め続けた。彼は学問の中で「枠」というものを作らなかった。 彼にとって生きることは学ぶこと、なにも本や教師がいなくとも、森や風や花が教えてくれることが色々とあった。一度ある研究に没頭すれば寝ることや食べることなど忘れてその世界に耽った。非常に集中力が高く、その熱心さは学者があきれるほどだ。そんな彼が軍隊に入隊したのには、無論のこと軍という未知の世界にひどく興味を抱いたのもあるのだが、十四歳当時、彼はもうそろそろ自分の学ぶべきものが少なくなっていくのに気付いていたのだ。

 恐ろしいことだが、彼はこの歳でだいたい目ぼしい学士課程を獲得してしまっているのである。そして彼の興味は人を動かす、というまったく新しいものに対して向けられた。 何の疑問もなく貴族で、しかも侯爵家だからという理由で大尉から始めて入軍した。戦うたびになにかを学んだ気がしたし、実際本だけではとても味わえないような体験がいくつも待ち構えていた。そんな時、つい最近入隊した上級貴族の娘がすごい速さで昇格しているという話を耳にした。大尉くらいから始めればそりゃあ速いだろうさと思っていたら、驚いたことに彼女は将校以下から始めたのだという。

 しまった、そう思った。

 自分はなぜそうしなかったのだろう? 何の疑問ももたずに大尉くらいから始めるのが当たり前だと思っていた。悔しかった。自分より階級が上の出の娘に、自分とは違うやり方で入隊されて、間接的にひどく皮肉られている気分だった。将校以下から将校になるのは難しい。相当な努力と才能が必要だという。自分は能無しだと言われているような気がしてたまらなかった。彼は必死になってそれを補うように戦った。必死に兵法を学んで、剣の腕も上げ、あいつは貴族だからこんなにも出世が早いのさと言われないよう頑張った。 彼は初めてなにかに「飢える」という気持ちを味わったのだ。そして同時にひどく自分に劣等感を抱かせた例の娘、まだ名前も顔も見たことすらない公爵家の息女を憎んだりもした。そうでなければやるせなくて生活していくなどできなかった。その「飢え」を凌ぐには、しゃにむに努力するほか、誰かを憎むという強烈な感情がないと支えきれなかったというのも、それはそれでまた事実であった。

 軍人の生活はそれなりに楽しかった。帝国を愛していたし、帝国の軍人ということを誇りにもしていた。これだけ学を修めた男になると、文武両方に満足することを望み始めるのだ。彼は軍人としての才能もあった。天賦の才能というやつかもしれない。

 カイルザート十六歳の頃であった。彼は西に戦争に行く途中、あの美しく豊かだったアデンの街の荒廃を目のあたりにしてひどく驚愕していた。栄枯盛衰というが、こんなにも変わってしまうものなのだろうか。

 そしてその日、彼の所属していた隊と他三隊がアデンの街に泊まることになった。全隊が大人数のためこうして何隊かに別れて宿泊するのは珍しいことではなかった。彼は自由時間に街を歩いて、本当にどれだけ変わったのか見てみようと思った。

 何もかも変わっていた。

 目つきの鋭い男たちがたむろし、女の悲鳴、泣き声、子供が殺される声。風は寂れ、建物は腐り、荒廃していく以外に何も見られないというのが、今のアデンだった。そして彼は、よく母親と子供が連れ立っているのを見た。父親がいないわけは、彼にもよくわかった。そしてその中でも一番印象的だったのは、美しかったであろうに、すっかり生活疲れして痩せ細り、一目で病気とわかる顔色の悪い女と、その息子らしい、金髪に青い瞳の十歳くらいの子供のことだった。この子供もまた、育ち盛りのはずなのに、痩せ細って見るに辛いほどだった。

「シャルク、恨むんだったら帝国を恨むのよ。私たちを助けてくれなかった帝国を憎みなさい。こんなにアデンが荒廃しても見てみぬふりをしている汚い帝国。そして憎むんだったらあの男を憎むの。あんたのお父さんになるはずだった私の愛しいひとを殺したあの男を」

 こんな考えをする人もいるんだ、彼はその時初めて思った。

 帝国がそんな風に思われているなど考えたこともなったから、そう言われること自体ひどく不本意で誤解されたままのような感じがしたが、しかし彼女の言うことにもまた、間違いはなかった。

 アデンが襲撃されたと聞いた時、彼はなぜ帝国はアデン救出のために乗り出さないのだろうと、真剣に考えたものだった。

 答えは、いつもでない。


 次の日彼らは出発した。隊列を組んで歩くなか、カイルザートはあの家の前を通った。 あの母子はどうしているだろうかとちらりと思った次の瞬間、家の中が突然騒がしくなり、人が慌てて出てきた。

「医者を! 呼ぶんだよ早く! あの子はどうしたい!? シャルクは!」

「シャルク! イリーナが……お母さんがあぶないぞ」

 あの少年だ、彼は咄嗟にそう思った。そしてあの母親は危篤状態らしい。カイルザートは昨日の彼女の顔色のひどさが、今になって相当悪かったものなのだと初めて知った。

 そして街を背にするカイルザートの耳に、あの少年の凄まじい悲鳴が聞こえてきた。

 カイルザートはその後悩んだ。自分は、何のためにあれだけのことを学んできたのだろう。弱い人々を救い出すためにではないか。そして翻って己れを見ると、軍人などになっている。軍人で人が救えるだろうか? 否。

 ではどうすればいいのだろう。無駄なことに時間を使ってしまった。自分は、せっかく学を持っていながら人を救うことすらできない。しかしその時、彼の耳に、心に、何者かの声が響いて届いた。

 ---------そのまま軍人を続けるのだ。

 彼は沈黙した。そしてしばらくしてから、空耳と疑っていなかったのか心中で嘲笑するように呟いた、そんなことをしてなんになる。

 ---------軍人を続け昇格を続けるのだ。

 声はもう一度言った。それで初めてカイルザートはそれが空耳でないことを悟った。

 ---------そして人の上に立て。お前が人の上に立ち、采配すれば弱い者は救われる。

 カイルザートは問いかける、学を修めながら自分は学を以てして人を救うことすらできないのかと。

---------それは、学を以てしてでしか人を救えぬ者の救済法。お前はそんなことをしなくても、文と武の両方で人を救うことができる。誰にでも出来ぬことで、そして一番早い平和への道。

 カイルザートは沈黙した。

 そうなのだろうか。本当にそうなのだろうか。自分はそれだけの技量を持っているのだろうか。

 彼は声の通りに軍人を続け、とんとん拍子で昇格していった。そして今思う、あの言葉は真に本当だったのだと。

 声は、あの日以来聞こえない。

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