第四章 冬籠もりの間に 9
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レーヴァス・ダンドルは帝国第五個師団瑠青隊将軍である。穏和将軍とよばれるだけあって彼は普段おとなしい青年だ。それは戦場でも大して変わらない。激情することが少ないのだろうか、ちょっと想像しにくいのだが、おとなしい口調のままてきぱきと部下に指示を下す。独身組でも一番の穏やかな男だと評判で、そんな彼にも忘れられない女性がいる。それは単に、世間でいう恋だとか愛情だとか、そんなものではなくて、なんといっていいのか、とにかく彼女は、レーヴァスにとって絶対に忘れられない女性であることは確かだった。
彼女の名前はリュワーナ・フォナ・フォン・ラデルス。
ラデルス侯爵夫人。しかし誰も彼女をラデルス侯爵夫人とは呼ばなかった。彼女は人々にこう呼ばれていた、
あやかしの貴婦人、と。
あれは今から三年前、十二個師団が創設される少し前のことだ。当時中佐だったレーヴァはその日宮廷の警備にあたっていた。この夜王宮で宴が催されるのだ。夜、優雅な音楽を向こうの方に聞きながら、レーヴァは配置場所から月を見上げていた。吹き抜けの廊下は冷たくて気持ちのいい風が吹き、夏のひとときを楽しませる。柱によりかかりながら月をぼうっと見ていたレーヴァは、人の話し声がすぐ近くでするのに気付いて、庭の方に目をやった。
「ほほほほほほ……わたくしが捕まえられて?」
ぞっとするほど艶やかな女の声がした。なにやら人が忙しなく走る足音がする。
見ると、一組の男女だった。男は女を追い掛け、そんな男をあたかもからかうかのように、女は高笑いしながら逃げ惑っている。レーヴァは月の光の下でその女の顔を確認していよいよ驚いた。
(---------あれはラデルス夫人だ)
世情に疎い彼もその浮き名は耳にしていた。
若く美しい未亡人。白い肌、赤い唇、金の髪空色の瞳。何とも言えない妖艶な女。一晩に五人の男を相手にしたとも、また同時に複数の人間と付き合っては相手を戸惑わせ、恋に墜ちさせ、痩せ衰えていくのを見るのがたまらなく楽しみな女だと聞く。なるほどあの様子を見ていると、まんざら世間の噂も馬鹿にはできない。彼の見ている前で男の手が夫人の手首を掴んだ。
「さあつかまえましたぞリュワーナ。あなたは私のものだ」
「まあおたわむれをリッテ殿。それは私の決めること」
夫人の妖艶な視線……ここから見てもぞくぞくした。
「なにが不満なのだ。宝石も首飾りも、あなたの望むものはなんでもあげたではないか」「ふふふふふ……リッテ殿……そうですわねあれの倍くらいの宝石を下さったら、考えてもよろしいですわ」
「あれの倍……! 七千枚の金貨だっだぞ。私は破産してしまう」
「その選択はご自由に。そのおつもりがないのならわたくしはこれで……」
思わせぶりに立ち去ろうとする夫人の腕をしかし、男の震える手が掴んだ。
「……わかったリュワーナ。なんでもあなたにやる。だから今宵こそは」
一瞬冷たいほどの艶やかな笑いが夫人の瞳に宿った。
「嬉しいですわリッテ殿……」
「ではあちらへ……」
消えていく二人。
一部始終を見ていたレーヴァはふう、と夫人の容姿の凄まじさに熱い息を吐いて、つくづく女は恐いな、などと思ったりした。
が、彼の不幸はここから始まった。
数日後宮殿勤務でずっと王宮にいたレーヴァは、再びあのラデルス夫人に会った。廊下ですれ違ったので、おや、とは思いつつも、武官の礼儀として立ち止まって貴婦人に会釈した。向こうは丁寧にそれにこたえたが、すれ違いざま、
「あの晩、わたしたちのことを盗み見ていましたわね?」
と囁いた。
「---------」
思わず硬直するレーヴァを残して、夫人は優雅な足取りでさっさと廊下の向こうに消えて行ってしまった。
次の日再び出会って、名前を聞かれた。名乗ると、覚えおきますわ、そう言われた。彼はなぜあのように言われるのかわからず、そんなにまずいものを見てしまったのだろうかと何度か思ったほどだ。そしてレーヴァはある非番の日ラデルス家に呼ばれた。
「いったいなんの御用でしょう」
「まあそんなこわいお顔をなさらないで。軍人さんってみんなこうなのかしら?」
「……」
困ったことになった、彼はそう思った。彼女が男をとっかえひっかえしているのは聞いていたから、もしかして次の標的は自分なのだろうかと思って、密かにぞっとしたほどだった。女性は嫌いではないが、どうも苦手だった。しかも彼女のようにいつもからかうような笑いを口元に浮かべられては、焦る。
そんなレーヴァの心の内を読み取ったのか、夫人はしょっちゅう彼を呼び出しては、心の向くままに翻弄し続けた。助けを求められて森に呼び出され、夜まで誰も来なくなってからかわれたのだと悟ったり、なぜか権利もないのに使いに出されてとんでもなく厄介なものを運ばさせられたり、完全に遊ばれからかわれていることをレーヴァはわかっていた。 しかし強く拒絶しようとしても、もうこれで終わり、金輪際彼女との関わりはごめんだと思っても、次に何か言われると、何も言い返せないのだ。
それは単に彼が意志薄弱とかそういうのではなくて、やんわりと、しかし絶対に断れないような言い方で夫人が彼に頼み、時に挑発的に、時に憐愍を誘うような瞳で言われてしまうと、レーヴァにはどうにもならないのだ。断っても結局やる羽目になってしまう。強引な女性なのだ。宮殿ではラデルス夫人とレーヴァ中佐のことでもちきりだったが、どちらかというと恋の話より、完全に中佐の方が遊ばれて、彼も気の毒に、と他人事で噂しあうものばかりだった。そんな時のことであった。
とんでもない醜聞が巻き起こった。
といってもそれはレーヴァにではなかった。あの、彼があの夜見た男、リッテ男爵が、彼女の気をひくために七千金貨で買った拳大のダイアモンドよりもさらに大きなものを求め、子爵家の夫人が所有している、それよりも二回りほど大きなエメラルドを買い取ろうとして拒まれ、無理に買い取ろうとして、それで事がどんどん大きくなったのだ。
事件の発端となったラデルス夫人は、玉座の間で証言を求められ、結果流刑となった。 今までの浮き名もさることながら、いいかげん世間も彼女をこれ以上野放しにはできなくなったようだった。その頃はレーヴァも、そのごたごたで夫人に弄ばれることもなく、ほっとして毎日を送っていた。それに彼女には、いい加減かなりの怒りを感じていて、流刑が決まった時も大して驚きもしなかった。いい気味だとまでは思わなかったが、まああそこまでやっていたのだから、流刑も納得できるくらいのことだと思っていた。もう会うつもりもなかったし、会いたいとも思わなかった。流刑が一か月後に決まり、それまで自宅監禁と決まっても、彼は夫人に会いにはいかなかった。いつも通り職務を果たし、もう邪魔をされることもないとほっとしながら日々を過ごし、休暇や非番の日にはのんびりと一日を過ごした。
しかし心のどこかではなにかをいつも気に留めていた。夫人のことを気にする自分が嫌で、レーヴァは何度も忘れようとしたが、そうするたびに却って気になった。
流刑の朝、早朝のことであったが、夫人は警護されながら馬車でリュアー区のある屋敷に向かうため、街道の起点で馬車に乗り込もうとしていた。世間の浮き名激しく、散々男たちを手玉にとった彼女の流刑の朝、夫人を見送ろうとする者はいなかった。
「リュワーナ夫人」
馬車に乗り込もうとして、夫人は驚いて振り向いた。
「……レーヴァ殿」
彼は息を切らせ、汗を流しながらそこにいた。走ってきたのだろう。近くまで寄ると、
「……お別れを言いに」
と息も切れ切れで言った。
「---------」
「リュワーナ夫人」
彼は息を整えるとやっと彼女と向き合った。警護の兵士は、相手が中佐ということで咎める様子もない。
「あなたは、本当はとても寂しい人だ。そうでしょう」
「---------」
夫人はなにも言わなかった。長いこと、二人の間に沈黙があり、そして夫人は小鳥がどこかで鳴くなか、艶然と微笑んで言った。
「レーヴァ殿。わたくしが寂しい? ホホホホ、馬鹿なことを……わたくしはそんな女ではありませんわ」
「ですが私はそう感じた」
夫人はレーヴァをしばらく凝視していた。レーヴァのその言い方は、あたかもあなたがどのように否定しようとも、私がそう感じた以上は間違いあるはずないのだと、およそ彼の普段からは考えられないような響きの物言いだった。
横から兵士か遠慮がちに時間です、と一言告げた。夫人は目を閉じ、それから顔を上げた。
「……そう……ですわね---------」
それからまた艶然と微笑んだ。
「レーヴァ殿。わたくしを初めて理解してくださったのは、あなただけですわ」
言うと、彼に一言も言う隙も与えず馬車に乗り込むと、
「ごきげんよう」
言い残して、流刑先の屋敷へと行ってしまった。
朝日の中、レーヴァはずっとその馬車を見送った。馬車とすれ違ってひとりの騎士がやってきたが、それが近付く前には彼は、宮殿に戻るため歩きだしていた。
騎士は騎馬のまま街道を過ぎようとしていた。途中男が道端に立っていたが、そんなことは構わなかった。
「あんただろ、庵で兄弟子たちを殺したってのは」
すれ違いざま男が言った。
「---------」
騎士は馬を止め、兜越しに男を振り返った。
「なぜ知っている」
「なに。情報はどこからでも舞い込んでくるもんさ」
「何の用だ」
「あんた、シェファンダに来ないかい」
「シェファンダ……?」
「あんたは帝国が好きか」
「私は帝国は嫌いだ」
彼は即答した。その瞳には憎悪、声には嫌悪が籠もっていた。
「ならシェファンダに来いや。帝国を滅ぼそうぜ、一緒にさ」
「……報酬は」
「望むまま」
「---------」
二人の間で切れるような沈黙が続いた。しばらくすると兜の奥から騎士は言った、
「……いいだろう」
と。
その頃レーヴァはまたいつものように日常の勤務につき、時々リュワーナ夫人のことを思い出しては、彼女が健康であるようにとちらりと思ったりして日を過ごしていた。
彼が将軍に任命されたのはその二週間後だった。
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