第四章 冬籠もりの間に 8

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 第三個師団氷竜隊将軍アナスタシアは、今でこそ将軍だが、昔は伍長から始めた貴族として兵士たちの間では有名だ。彼女は時に出世や栄達の象徴として密かに崇められ、尊敬すらされている。冷淡さを才能が補助して、実に堂々としていると誰もが言う。しかしそんなアナスタシアも、昔は宮殿の中でよく迷ったりしたものだった。あれはもう十年も前のこと、アナスタシアは伍長になったばかりで、宮殿にもめったに足を運ぶことなどなかった。しかし用があれば当然上官のもとへ行ったりしなくてはならず、一人でちょこちょこと歩き回って、

「?」

 よく迷ったりしたものだった。

 その日も、角を右に曲がれば上官の待つ部屋があったはずなのに、なぜかない。

「また迷った」

 彼女は呟くと辺りを見回して誰かを探した。わからないときには誰かに聞く、それが彼女の鉄則だ。

「確か庭の向こうから行くと近かったはず……」

 うろうろしていると、角を一人の少年が通った。十五、六だろうか。アナスタシアは彼に尋ねることにした。

「そこのお前」

「---------はい?」

「ものを尋ねる。庭にはどう行けばよいのだ」

「庭ですか……僕も行く途中だから、よろしかったらご一緒に」

「そうか。すまんな」

 少年は彼女の肩の紋章で兵士だと悟ったらしい、明らかに年下のアナスタシアに対しても丁寧な態度を崩さなかった。アナスタシアは彼の姿格好を見て、

「……お前は庭師か」

 と言った。

「はい。もう五年、ここで働かせてもらっています。ヴァームといいます」

「変わった名前だな。私はアナスタシアだ」

「きれいな名前ですね。……と、ここが中庭です」

「助かった。ではこれで」

 そこで二人は別れたのだが、三ヵ月ほどして夏になった頃、アナスタシアがまた所用あって中庭の廊下を通った時、たまたまヴァームがそれを見つけて、アナスタシアも彼に気付き、

「おやお前か」

「またお会いしましたね」

 彼は肩の紋章が伍長から軍曹になったことに気付いたようだ。

「昇格なさったんですか。おめでとうございます」

「ありがとう。お前もこの暑いのに大変だな」

「いえ、仕事ですから……アナスタシア殿、これからお帰りですか?」

「そうだが」

 訝しげな顔のアナスタシアに、それじゃあちょっとここで待っていてくださいと言うとヴァームは庭に消えた。しばらく待ったがいっこうに戻る気配がない。アナスタシアは柱に寄り掛かって気長に待った。

「……」

 こうして庭を見ていると、なるほど夏の庭も美しい。緑もまぶしいし、夏雪柳が向こうの方でまるで絵のように白く咲いている。しばらくしてヴァームが戻ってきた、両手に夏雪柳を抱えて。

「---------」

「持っていってください。きれいでしょ」

 アナスタシアは素直に受け取った。放心もしていた。自分なんぞに花を渡す人間がいるとは、思わなかったのだろう。

 宿舎に帰ったアナスタシアの様子に仰天して仲間や上官や部下たちがどうしたんだと言っていたが、説明がどうにもしにくくて、アナスタシアは結局なにも言わなかった。

 日を追うごと昇格を重ねるアナスタシア、そんなアナスタシアの噂はヴァームも耳にしているようだ。時々庭に出て出会うといつも笑顔で昇格おめでとうございますと言い、そのたびにその季節の花をくれた。

 アナスタシアが十一になる寸前、彼女は秋に遠方に調査隊として仲間や部下たちと共に派遣された。途中アデンの街を通りかかったのだが、その荒廃の凄まじさはいつまでも記憶に残っている。ひどく寂れた街に成り果てていて、五歳くらいだろうか、金髪で青い瞳の少年がぼろぼろの服を纏って、痩せた顔で、帝国に対するひどく強い疑い瞳でこちらを見ていたのが印象的だった。

 その調査でアナスタシアが負傷したときも、宿舎に花が届けられた。すぐにあいつだとアナスタシアは思った。しばらく宮殿にも行かなったが、昇格するにつれてその回数も増え、ある戦の報告に宮殿に赴き、その帰りに庭に寄ると、案の定彼はいた。何年かぶりだったので二人の会話はかなり古いところから始まった。

「アナスタシア殿。もうお怪我はよろしいので」

「あれはお前か?」

 彼は黙ってうなづいた。

「---------なぜお前はいつも花をくれる?」

 常々思っていたことだった。どうにも意味がわからない。好きな女に花を贈る男の話はよく聞くが、それとこれでは意味がまったく違う。

「なぜって……花を贈るのは幸せなことですよ」

 彼は当たり前だとでも言いたげにそうこたえた。

「---------」

「花を贈ったことがないんですか? それじゃあ誰かに贈るといいでしょう。少し差し上げます」

 そう言って何の花かはわからないが、美しい花をみやげに持たせてくれた。アナスタシア十五歳、この時中尉である。宿舎に戻るとこの年から部下として使うことを許された、当時淮尉だったイヴァンが出迎えてくれた。

「どうでした結果は?」

「ん」

 アナスタシアはいつも言葉少ない。

「どうしたんですかその花束は」

「ん……これはな」

 アナスタシアはヴァームの言葉を思い出した。

『花を贈るというのは、いいものです。誰かに贈ってみるといいでしょう。きっと贈りたい人がいるはずです』

「……」

 アナスタシアは花束を見るとイヴァンに視線を移し、「?」という顔のイヴァンに花を渡すと、

「お前にやる」

 と言った。

「はあ……下さるのなら頂きますが……中尉殿、これは求婚ですか」

「馬鹿者!」

「冗談ですよ」

「そんなことはわかっておる」

 くすくす笑いするイヴァン。アナスタシアはそんな彼をじっと見ると、何事か考え始めた。

「……・

「中尉殿? どうしました」

 アナスタシアは花束から一本花を抜いてイヴァンに渡し、花束を奪うと、

「すまん、今回は一本で我慢してくれ」

 と言い、宿舎を出ていった。

「?」

 イヴァン淮尉、謎である。


「ヴァーム」

 彼が振り向くと、先程渡した花束を持って、アナスタシアがそこに立っていた。

「アナスタシア殿……どうしたんですか? その花・・やっぱり渡す人はいなかったのですか」

「いや」

 アナスタシアは花束をぐっとヴァームに押しつけた。

「お前に渡したくなった。やる」

「……」

 彼は放心してそれを受け取ると、

「……ありがとうございます」

 とだけ答えることができた。帰りぎわアナスタシアは言った。

「なるほど花を贈るというのはいい気分だな」


 そして将軍の今、アナスタシアの部屋にはいつも花が置かれている。また氷竜隊の司令室にも花が欠けたことはない。それに気付いて、イヴァンがある日言った。

「やはり閣下は女性ですね」

「?」

「いつも花がどこかにあります。男は気付かない細やかさというやつですかね」

 聞いてアナスタシアはふふと笑った。彼女は司令室のバルコニーから庭を眺めているところだった。

「まあな」

 アナスタシアはバルコニーの下に人影をみとめてそちらへ目をやった。

「いつも届けてくれる者がいるのだ」

 視線の先には、彼女に手を振るヴァームがいつもいる。


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