第三章 将軍の涙 3

 ファーエはよく遊びにきた。アナスタシアもまだ傷がかなり痛むので長い間相手はしてやれなかったが、宮殿の話や将軍たちの話などをすると、少年は目を輝かせてそれを聞き入っていた。彼の後ろにはゼファが、腕を組んで岩のようにじっとしていた。両親に会いたくないのだろうかとちらりと思ったが、別に聞くほど知りたくはなかった。傷はまだひどく痛くて、腕を上げるのにも一苦労だった。大きく息をしようとすると途端に痛いのは肺が圧迫されているからだろう。

 そんなある日、珍しくテュラが一人でやってきた。ちょうどリィナが山に薬草を採りに行った時のことで、家には誰もいなかった。

 アナスタシアはその時考え事をしていた。イヴァンに全権を委任しておいてよかった。 それに帝国では今頃秋。よほどの変更がない限り、もう春までの戦はないはずだ。

 そんなことを考えているときにテュラがやってきた。乱暴に扉を開け、アナスタシアをじろりと見る。

「あんたはいつまでいるつもりなんだ?」

「……」

 アナスタシアは黙って彼を見上げた。

「私はよほど嫌われたらしいな」

「ああ。はっきり言ってあんたは邪魔だ。冬が側にきてるってのに食い扶持が増える、おまけに働かない」

「---------」

「子供だって仕事をもってるんだ。怪我だからって通用するもんじゃない」

「なにをそんなに苛立っている? なぜそんなに余裕を失う」

「あんたのことがシェファンダにばれてみろ。俺たちは皆殺しだ。俺は反乱軍の副リーダーだ。アルをたすけてシェファンダを倒さなくてはならない」

「ならばお前の言っていることは見当違いだ」

「な……何?」

「どうして帝国の人間がいるからシェファンダに殺されなくてはならない? 私は帝国の将軍。首を差し出せば貰える金貨百枚は越える」

「貴……様……!」

「食い扶持が増えて困るか。ならば私を殺して首を持っていけ」

 アナスタシアの瞳が本気だった。別にそんなことは死んだってできまいとテュラを挑発しているのでもなく、自暴自棄になったのでもなく、そう思ったからそう言ったのであって、彼に対するあてつけなどではなかったのだが、少なくとも若いテュラにはそう聞こえた。

「そ……そんなことできないと思って馬鹿にしてるな!」

「お前は稀に見る阿呆だ。リィナもこんな奴が恋人では先が思いやられるな」

 テュラはかっとなった。顔が赤くなるのが自分でもよくわかった。自分はあきらかにこの女に心のそこから嘲られていると思ったテュラは、頭に血がのぼったままアナスタシアの首に両手をかけ、力一杯絞めた。

「……っ……」

 細い首だった。白い肌だった。彼女は抵抗しなかった。すぐ届く場所にあんな恐ろしげな大剣があるというのに、手を伸ばそうともせず、まったくの無抵抗だった。テュラは必死だった。悔しくて情けなくて、そして冬を前に困窮しつつある食料と武器、彼はアナスタシアの首でなにを得ようとしていたのだろうか。

「---------」

 アナスタシアは彼を見ていた。藍色の瞳で見ていた。その瞳に負けまい負けまいとして必死になっていたテュラは、その瞳が自分などを見ていないということに、その虚ろさ、その透明さで気がつき、ふと自分の両手の力がゆるむのにも気が付かなかった。

 私はここで死ぬのか---------。

 アナスタシアは自分というひとつの物質をとうに越えてなにかを見ていた。その瞳は鏡のように澄んでいて、その磨き上げられた鏡は、なにも映していなかった。

「---------」

 テュラははっとして手を離した。

 目の前ではアナスタシアが前のめりになって激しく咳き込んでいるのが見えた。肩が大きく上下し、ぜいぜいいっている。呼吸するのがやっとなのに、こんな荒い息は肺と折れた肋骨にどう影響するかは一目瞭然だった。激しい息の向こうから、アナスタシアは彼を見上げて言った。

「……なぜ手を止めた……? 冬を越す食料がないのだろう……」

 テュラは答えられなかった。なぜだかはわからないが、ひどい敗北感が全身を苛んでいた。アナスタシアは激しく咳き込んだ。

「……だから……甘いと言っている……」

 そんな彼女の言葉は、いつも自分がアルに言っている言葉と同じだった。彼はカッとなって叫ぶようにして言った。

「お前の首で得る食料なんか!」

 バタン! という凄い音をさせて彼は出ていった。アナスタシアはまだ荒い呼吸が止まらず、ぜいぜいいいながら前のめりの姿勢を直せずにいた。渇いて渇いて、渇き切ったあげくに肺がびりびりに破れそうな痛みだ。ひどく咳き込んで、胸が痛む。

 アナスタシアはしばらくそのままでいた。



 秋が来ていた。が、窓の外の景色は相変わらず代わり映えしなかった。テュラはあれ以来来ていないが、アナスタシアは気にもとめなかった。アルが来ては、無言のまま去っていく日々が続いた。

 ある日アナスタシアは言った。

「お前は私にどうして欲しい」

 彼は顔を上げてアナスタシアを見る。

「私に反乱軍に入れと言いたいのだろう」

「---------」

「すまないがそれだけはできない」

「なぜだ」

 アルは呻くように言った。自分を見る瞳の強さ、純粋さは子供にも負けない。

「---------私は帝国の将軍だ。皇帝陛下を裏切ることはできない」

「……」

 彼は長いこと黙っていた。

「忠実一本槍か」

「そうだ。お前たちが嫌なのではない、陛下の近くから離れるのが嫌なのだ」

「しかし……」

「なんと言われても仲間になる気はない」

 アナスタシアはすっぱりと言い切った。アルは先手を突かれて二の句が告げないようだったが、やがてため息をついて、

「いいさ。気長に待とう」

「いくら待っても無駄だ」

 しかしそんなアナスタシアの言葉にもアルは弱く微笑んだだけだった。

「---------」

 不可解な男だ。

 アナスタシアはそう思った。


   

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