第三章 将軍の涙
1
季節はずれの戦は北への遠征だった。氷竜隊は皇帝の命で北の王国セルヴェイに赴き、戦いに見事勝利して、そのまま隣国で戦いを繰り広げている燭冽隊の援護にまわるため、雪深い山を下りるのに専念していた。しかし行軍は連日の吹雪で先へ進まなかった。また雪に足をとられたり、崖の近くを通るのに細心の注意を払ったり、氷竜隊は戦の前にもう疲れが見え始めていた。しかしかつては雪山を血で赤く染めたという伝説まで残した彼らのこと、他の隊では完全な足止めをくらっていただろう。
「やれやれ」
アナスタシアは馬上でため息をついた。帝国では夏の終わりだというのに、常冬の国などに来てしまった。
「クレイ殿待ち兼ねていように。まあ本当は援護などと余計なお世話かもしれんが、なにしろ数が違いすぎる」
「閣下の援護ならば邪魔にする方はおりますまい」
隣でイヴァンが低く言った。
「ふふ……イヴァン。お世辞か」
「いえ」
イヴァンは短くこたえた。本気で言ったって、こう言われるのはわかっていた。このひとは、自分の実力を甘く見すぎている。誰もが彼女のことを正当に評価しているのに、不幸なことにこのひとは自分の魅力にも、才能にも、それ相応の評価をしていないのだ。そうでなければ、いつも無表情で作戦に厳しいだけの女将軍に、誰がついていこう、五千人もの人間が。
空は曇り空が続いていたが、やがてちらちらと雪が降り始めた。
「そうだ、イヴァン」
「は、はい」
「私が先にルクリーエに拉致されたときのことを覚えているか」
「忘れるといっても忘れられません。心臓をどこかに置いてきたような不安でしたよ」
「ふふ……そう言うな。なぜこんなことを言うかわかるか」
「わかるわけありません」
アナスタシアはくつくつと笑った。
「あの時、正直いって氷竜隊がシスレン台地で光香隊と藍蓮隊と合流しているとは思わなんだ。お前の手際に感心したぞ」
「は……」
「そこでイヴァン。提案だ。もし私にあの時のようなことがあって、将軍不在という時は、お前に氷竜隊のすべてを任せる」
「閣下?」
「委任だ。私の許可がこうしてあるのとないのとでは、大違いだろう」
「そんな不吉なことを言われては困ります」
「そう言うな。もしものときのためだ。私が不在で、どうしても氷竜隊を動かさなければならないときは、お前を将軍公認の責任者とする。命令だ」
「ですが」
「お前なら私が下すのとまったく変わりない作戦を立てられる」
「ですが私と閣下では器量がちがいすぎます。戦場で混乱を招くのは必至です」
「だから。そういう時は、戦場にいるときはなんとか切り抜ける。宮殿で陛下のご命令を受けたのなら、休暇届けを出せ。戦地に行かずにすむ。兵士たちの給料もそれなら差し止めなしだしな。それでも行かなくてはならないのなら陛下にすべてをお任せしろ。イヴァン、いいな」
イヴァンはこたえなかった。こんな不本意な命令をされたのは初めてだと言いたげに、むっつりと黙りこくってしまった。
「まあそうむくれるな。そんなことにならないよう努力する」
「当然です」
アナスタシアはくすくす笑いがとまらない。イヴァンをからかうのは彼女の数少ない楽しみのひとつのようだ。が、委任の件に関しては、アナスタシアは大真面目だった。後から思えば、虫がしらせたのだろうか。
氷竜隊は黙々と雪の深い山道を歩き、崖の近くまで差し掛かった。まだまだ山は深く、下りるのには三日以上かかるだろう。
「とんだ土地で戦争をさせられたものだ。こちらの要求を素直にのめばよいものを」
アナスタシアがさすがにこぼし始めた時。
「帝国!」
いきなり、見慣れない鎧を着た兵士が、彼らのまえに立ちはだかった。護衛の兵士が将軍を守るように前へ出る。
「何者だ」
イヴァンが大声で問うた。もう吹雪といってもいいくらいの激しさで雪が舞い始めていた。
「お前たちに国を奪われたチッツェの者だ」
アナスタシアとイヴァンは顔を見合わせた。
「驚きましたな」
「よほどの田舎者か馬鹿かのどちらかだろう。どらちにしても始末が悪い」
二人が囁きあっているので、かわりに大佐のホーランドが大声でこたえた。
「それは考え違いだ。チッツェはシェファンダの支配下に入ってしまっている。あまりに汚いやり方でしか勝てなかったのを体裁悪く思って、帝国の仕業だと噂を流したのだ」
「な……なんだと」
「我々を恨むのは見当違いだ」
レーヴェも言い返す。どこの山奥にいればそんな大昔の大嘘をいつまでも信じられるのだろう。
ヒゥゥゥゥ……
強い風が吹き始めた。もうそろそろキャンプを張らなければならない時刻だ。まだ夕刻にもなっていなかったが、山の天気は変わりやすい。
「嘘だ! 国を奪ったのはお前たちだ! これは復讐だ!」
「馬鹿が……」
アナスタシアは馬上で舌打ちまじりに呟いた。が、帯剣もしていない兵士と、誰もが見くびっていたのがいけなかった。
「思い知れ! 帝国!」
バシュッ、というおかしな音がした。兵士がこちらに円筒状の筒を向けている。
(火炎筒か!)
まずい、アナスタシアが思った頃には、炎の塊が彼らを襲っていた。アナスタシアは辛うじてそれをよけ、馬から下りた。
「愚か者! まだわからぬと申すかこのうつけ!」
彼女はいらいらしていた。早くキャンプを張らなければ、自分やイヴァンや大佐たちは無論のこと、騎馬でない歩兵たちの体力の消耗が著しくなってしまう。こんな常識的なことを聞かされても尚、帝国が仇だという無知の人間のために氷竜隊が大きく足止めをくらうのは、彼女にとって腹立たしい以外のなにものでもなかったのだ。
さすがの迫力に気押されたのか、兵士はぐっとつまったが、叫んだのが女で、鎧の紋章とマントの色から察したのか、
「お前が将軍アナスタシアか」
「そうだ。呼び捨てにした無礼は許してやる。立ち去れ」
兵士はかっとなった。まだ若い。若いゆえの無知、若いゆえの激情、しかしアナスタシアの方がどう見ても年下だというのなら、若いゆえの愚かさという言葉も適当ではない。
「ただの馬鹿だ」
アナスタシアはぼそりと呟いた。それを聞き取ってしまったのか、兵士は再び筒を向けた。
「閣下、お下がりくだされ」
魔導部隊のスィノとファニルがアナスタシアの前に立ちはだかった。
「遅い!」
さっきのよりも二倍以上の大きさの炎の塊が彼らを襲った。今度はよけたり、魔導部隊の者が消すなどということはできないほど、大きく、そして早かった。
「!」
アナスタシアは大きく横に動いた。誰もがそうした。しかし不幸なことに---------
まったく不幸なことに---------アナスタシアがよけた先は、崖の先端だった。つまり彼女は、崖から落ちたのだ。吹き荒ぶ吹雪のせいだったのかもしれない。早く野営しなければという指導者特有の焦りだったのかもしれない。とにかく通常では考えられないことだったが、アナスタシアはとにかく、崖から転落した。
吹雪が横なぐりに吹きつけ、誰の声もかき消された。落ちたのか、アナスタシアは全身に激痛が奔るのがわかった。腕に、足に、胸に。そして彼女は気絶した---------眠ってはいけないと思いながら。
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