第二章 流血の果てに 6

 夏が終わった。夏のある日皇帝が帰ってくるという報せが宮殿をにぎわせたが、将軍たちはいつものようにしていた。たださすがに出迎えには顔を出さなくてはならないので、アナスタシアは部屋から出るときたまたま一緒になったラシェル将軍と共に皇帝を出迎えた。雪光隊将軍のヴィウェン・シェイもいた。彼は若いときから帝国に仕え、歳も六十と将軍のなかでは最年長だ。皇帝ヴィルヘルムも彼に対しては弱い部分がある。が、ヴィウェンの進言はいつも皇帝の耳に届き、結果としてはいつもよいものを運んでいるのも事実だ。

 アナスタシアは夏の間中マリオンに冷たい紅茶でもてなされながら、戦争した遠い土地でのことを話したりしていた。ゾラのことは、二人とも妙なくらいに口の端にものぼらなかった。しかしそれは暗黙の、守られるべきルールだった。

 今までは皇后マリオンはアナスタシアの暇そうな時間を見計らってお茶に誘ってくれていたが、最近では慣れてきたのか、侍女をたたせて都合をきいてくるようになった。おかげでアナスタシアは、本当になにもすることがないとき、遠慮なくマリオンのところへ行けるようになった。自分から言いだすことは、さすがにできないことをアナスタシアは知っていた。

「お帰りなさいませ」

 その夜マリオンはいつものように寝酒を皇帝の私室に持っていった。

「うむ」

 皇帝は短くこたえた。皇帝と皇后の部屋は、中央に寝室、寝室を隔てて皇后と皇帝の部屋がある。皇帝の私室にはベッドがあって、彼はひとりになりたいときはここで眠っていたが、皇后の私室にはベッドはないので、そんなときマリオンは、五人分はあろうかという大きなベッドに一人で寝なくてはならない。

 彼女は当然、避暑先セレンティのこともゾラのことも聞かなかった。今年のセレンティはいかがでした、そう聞くことすら、ゾラとのことに対する皮肉になりかねないということを、彼女は知っていた。皇帝といるときは、アナスタシアと昼間話した、他国でのことや彼女のことを話すこともしなかった。自分がアナスタシアと仲がいいことと、皇帝とアナスタシアとの関係は別物だった。

「今年は暑うございましたね」

「留守中どうであった」

「何事もなく……」

 マリオンはあでやかに微笑んだ。

 こうして自分のことを考えてくれるのが一番嬉しかった。ご機嫌をとるのでもなく、ただ、こうして純粋に自分を考えくれるこの男を、マリオンは心の底から慕っていた。しかし秋が来るまでは、皇帝は私室で夜を過ごしていた。

 マリオンには淋しくて寒くて、どうしようもなく長い時間の連続だったが、彼女には耐えられた。愛されているのは、皇帝の折々の小さな所作、ちょっとした言葉からもよくわかった。

 秋が来て最初の戦は、普段ない冬の分の戦を総括したような大きな戦争だった。金鷲隊

の他霞暁隊、璃紫隊、氷竜隊、闇輝隊が三週間かけて戦った大きな戦だった。この戦の間皇帝はアナスタシアを一度だけ抱いたが、どちらかというとそれは、己れのためでなく、彼女に対する無言の言葉のようでもあった。痣はすっかり消えていた。

「……」

 しかし恐ろしい記憶はまだアナスタシアの身体が覚えていた。枕元に蝋燭一本の薄暗いテントのなかで、アナスタシアはそれが皇帝の腕と知りつつも、震えを止めることはできなかった。彼はそれにすぐに気づいた。なぜかもわかっていたようだ。しかし相変わらず無言で、慰めもなく大丈夫かとも聞かず、黙って彼女の唇を奪っただけだった。それは、あの恐ろしい体験のなかで、唯一アナスタシアが被らなかった不幸中の幸いであった。くちづけは、ほんの少しだけアナスタシアを皇帝の腕のなかにいるという安心を認識させた。

 それでも震えはとまらなかった。それを無視して彼女を抱くほど皇帝は不粋でもすけべでも優しくないわけでもなかったが、言葉は少なかった。彼はアナスタシアの横からその藍色の瞳を見ながら言った。

「忘れられないか」

「……」

 アナスタシアは瞳を閉じた。辛い表情を見られたくなかったのだが、かえって無理をしたせいか眉が寄せられているのに、彼女は気づかなかった。

「---------」

 皇帝は初めて彼女を抱き締めた。ひどく冷静な瞳ではあったが、決して冷たくはなかった。その目はただ淡々と、自分を見つめていた。

「……」

 アナスタシアは柄にもなくどきどきしていた。こんな風にされるのは初めてだった。しかし、ヴィルヘルムの身体は暖かかった。こんなにもひとの身体は暖かいものかと、アナスタシアは生まれてはじめてぼんやりとそんなことを考えていた。家にいるような安心感というのは、まんざら嘘でもなかった。

 それからまた唇を重ねた。結局、皇帝は次の晩に彼女を抱いた。それもやはり己れのためではなく、儀式を通して早く忘れろと、無言で励ましているようだった。その晩は昨晩ほど恐ろしくなかったアナスタシアだったが、それでも微かに、ほんの微かに震える彼女に気づいた皇帝は、

「手をかけろ」

 と静かに言った。アナスタシアは戸惑ってなんのことかわからなかったが、また弱く抱かれて、なぜか彼の首に手をかける形になっていた。手をかけろとはそういう意味かと、その時初めて気づいた。今までそんなことをしたことのないアナスタシアだった。主君と臣下というかたちをどこまでも崩さない二人であったから、そんなことをするのは皇帝に対して失礼だと彼女は思っていた。

 実際そんなことを考えたこともなかった。皇帝につかまるようなかたちになると、もっと落ち着く自分にアナスタシアは驚いていた。そして結局、どんなに隠そうとしてもこの男だけには通用せず、彼がなにもかもわかっているということを、彼女は認めざるをえなかった。

 本当はこんな季節はずれの大きな戦で自分を抱いている暇などないのに、こうすることで彼女の恐ろしい思いを少しずつ癒すことができるとわかっている皇帝は、己れのためではなく、アナスタシアのために夜の時間を彼女に与えた。これが彼の優しさというものだったのかもしれなかった。言葉も時間も、大した慰めにもならないとわかっている皇帝は、多分アナスタシアを立ち直らせることのできる人間は自分一人だということも、結局は恐ろしい体験と同じようなことを「自分が」することで、塗り替えることができると感じたに違いなかった。

 彼だからできることだった。別の男にはできないことだった。

 戦は大勝利をおさめ、部隊は帝国に凱旋すると、その年は戦はもうなかった。季節は冬になろうとしていた。


                    4


 将軍が冬籠もりする季節がやってきた。この頃になるとアナスタシアも部屋の暖炉に火を絶やさなくなる。政が忙しいのか、皇帝とはめったに顔を合わせない。冬は軍隊の訓練が一番盛んだ。寒いから身体を動かしたくなるのかもしれない。軍隊がまるきり活動しないのは夏くらいなものだろう。皇后も退屈なのか、アナスタシアをよくお茶に誘った。天気がよくて風がない日には、庭で侍女や女官を交え、ちょっとしたお茶会を開いたりもした。

 皇后は日中謁見が終わると本を読んだり編み物をしていたりすることが多かったが、退屈にかこつけてアナスタシアを無理矢理誘ったりすることはなかった。彼女は手先が器用だったので、レース編みと得意の刺繍でちょっとしたタペストリーづくりをするのが日課のようになっていた。相変わらず皇帝は私室での政務と睡眠を繰り返していた。

 淋しいと毎回思うのは、淋しさがしみこんでくるようなので思うのをやめにしていたが、だからといって彼が寝室に来ないのを当たり前のように思うのも淋しかった。アナスタシアはわかっているのか、よくお茶のときに、

「いがかなされました?」

 と聞いてくる。マリオンは愚痴るわけでもなく、ただぽつりぽつりと話すだけで、不満だとも、なんとかしてほしいとも言わなかったし、思わなかった。

 アナスタシアはただ黙って聞いてくれた。そんなときの氷姫は、淡いが、氷も溶けてしまいそうな優しい顔をしているが、気づいたのはマリオンのみで、氷姫とよばれた将軍は、そんなことには気づくどころか、夢にも思っていないだろう。たしかに彼女が笑うのは珍しいことだった。だがマリオンと一緒にいるときの彼女の笑顔は、将軍であるときのアナスタシアの笑顔とは違っていた。

 ある夜皇帝は不機嫌な足音をさせて帰ってきた。冬は政の季節、きっとなにかあったのだろうと思った。皇帝の決定が下されて決まる政ではあったが、決して独裁政治にしないのは彼の性格といえた。マリオンはしばらく私室で本を読んでいたが、何か気になって紅茶を持っていった。

 扉をノックして入ると皇帝は顔を上げて彼女を迎えた。それは集中するとなにも見えなくなる皇帝には、ちょっと意外なことだった。マリオンが紅茶を淹れている間中彼はそれを見ていたが、やがて肘をつきながら紅茶に口をつけ、

「お前は本当に用途のはっきりした女だ」

 と面白そうに言った。

「は?」

「私的な用事のときは寝室を通って、公的な場合は廊下から俺の私室に入ってくる」

 言われて初めて気が付いたのか、マリオンはちょっと恥ずかしそうにうつむいた。

 それから彼はその時問題にしていた政についての彼女の意見を求め、紅茶の休息の礼を言ってからまた考え事に没頭し始めた。今夜も彼は私室から出てきそうになかった。

 それは寒い日のことだった。朝から冷え込みの激しい日で、一日中寒く、夜も変わらず寒かった。暖房が行き届いているので不自由はなかったが、マリオンは部屋の外に出るのも嫌なくらいの寒さを味わっていた。

 アナスタシアはこの日演習だそうで、朝早くから第一個師団から第六個師団までの遠征に出掛けていた。表ではないと出来ないくらいの大規模な演習らしかった。演習は一日がかりだったらしく、夜おそくになって宿舎に灯りが次々と灯ってはすぐに消えるのを、マリオンは知っていた。軍人というのは本当に大変だ。

 明日からはしばらく休暇らしく、さすがに将軍たちもこの寒い日の演習はこたえたのかもしれない。

 マリオンは髪を鏡の前で編んで、それから寝室に入った。暗くすると皇帝の私室の扉から微かな灯りがもれてきた。愛する男にそっと心のなかで応援の言葉をつぶやくと、マリオンは目を瞑って眠りに入ろうとした。が、なかなか眠れなかった。昼間お茶をのみすぎたのが原因かもしれない。それともちょっと長い昼寝のせいだろうか?

 ベッドが暖まる頃になってやっとうつらうつらとしてきた頃、背を向けた後ろから、そっとひとの気配がした。皇帝だった。

「……陛下……?」

 少し眠い声のマリオンをそっと引き寄せ、すっぽりと腕のなかにおさめてから、皇帝は眠りについた。仕事が一段落ついたのか、人恋しくなったのか、彼女のことを思い出したゆえのことか、それはとうとうわからなかったが、寒いからというだけでそんなことをする男でもなかった。しかし、こういうときの彼にとって、宮殿のマリオンがなによりの心の癒し手であることには、間違いなかった。マリオンはそのまま眠った。愛されている実感も、愛している自信もあった。

 ただ彼女には、こうして体温と呼吸とを共に実感できるのが喜ばしかった。皇帝が寝室に来ない時、戦でいないのとは違い、彼はすぐ隣の部屋にいながら遠いひとだった。

 マリオンも共に眠りについた。皇帝と結婚して八年、互いに馴れ親しみ、なによりも心のよりどころとしている相手の呼吸を確かめながら、彼女は深く眠った。

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