第二章 流血の果てに 5

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 アルヴェンゼ帝国は十二個師団の軍隊を持つ。将軍も各個師団もそれぞれがみな個性的だ。

 第一個師団霞暁隊の将軍はヌスパド・センシィオス。身長は百九十センチと将軍のなかでも二番目の長身で、別名豪快将軍。誰とでもわけへだてなく話すので兵士の人望は厚い。 霞暁隊は赤を系統とする色を象徴色としており、五十歳の将軍は緋色のマントを羽織り、またユーモアにあふれていて人が知らず知らずのうちに周りにいるのはひとえに人格の賜物だろう。

 第二個師団璃紫隊の将軍はセショア・ドリニクル。紫の瞳とプラチナブロンドから醸し出される美青年ぶりは侍女・女官たちの人気第一位で、二十七歳と二十代組の一人だ。妖艶将軍の別名は本人には不本意極まりないようだが、彼が当分この別名で呼ばれるのは確かといえる。マントは瞳と同じ紫。帝国では紫のなかで一番美しいたとえをするとき、璃紫隊の紫とか、紫水晶のようなとか、セショア将軍の瞳みたいというのが通例だ。

 第三個師団氷竜隊将軍はアナスタシア。アナスタシア・ファライエ。将軍たちのなかでも最年少、二十四歳と驚異的な若さである。濃い藍色の瞳と、軽くウェーブした黒い髪、雪のように、透けてしまいそうな白い肌。氷姫の通り名はこの容姿だけではないということは、雪山を血で真っ赤にしたという逸話からでも納得できる。淡々として滅多に笑わず、感情もあまり顔に出ることはない。その作戦能力の高さは天性の策士といえよう。氷竜隊は軍唯一の白と水色の二色を象徴色とする隊で、氷姫がアイスブルーのマントを羽織って行軍する様は、恐ろしくも美しく敵を恐怖させる。

 第四個師団玉紗隊の将軍はカイルザート・クレイエ。二十六歳と若いのにその教養は将軍たちだけでなく宮殿でもかなりのものだが、それをひけらかしているようにいつも人を馬鹿にした口元のうすい笑いの第一印象は、決していいものではない。が、その緻密にして華麗なまでの作戦には皇帝も厚い信頼を寄せ、明るい水色の瞳、淡い金髪はなかなかに人目をひく。黄色を象徴色とした玉紗隊は行軍するときさながら太陽の光がグラデーションのようになってまぶしいばかりで、敵軍は凄まじいのはその色の美しさだけだはないということを、采配将軍の攻撃の凄さで再認識する。

 第五個師団は瑠青隊将軍・レーヴァス・ダンドルが治めている。淡い金髪濃い茶色の瞳は優しげで将軍の素直な性格をよく映しだしているが、なかなかどうして彼の素晴らしい戦い方は、今までの彼の功績を耳にしている敵が、迎え討つのは瑠青隊だと知ったときの士気の落ち具合にもよく現われている。海の青を背中に羽織り、青い兵士を引きつれて彼が戦場を駆ける姿は津波にも似ている。穏和将軍とは呼ばれながらも、戦いたくない相手のひとりだろう。アナスタシアより二つ年上の二十六歳。

 第六個師団緑咲隊の将軍はフリックセン・ディーヴェンド。ダークグリーンの瞳に敵が映ったが最後、逃れることはできないと密かに噂される技の正確さは皇帝も脱帽するほどで、鷹将軍の異名もうなづける。ひとなつこく笑うとひょうきんな顔だが、彼と組む隊の将軍たちは、これから迎える戦場での戦いは、絶対苦戦しないとの確信をもって戦いに挑む。マントの色の、森のすがすがしい緑はダークブラウンの髪も手伝って、四十一歳とまだまだいける彼自体を巨木にも見せるだろう。

 第七個師団光香隊の将軍はシド・ヒエンラ。柑橘将軍と彼が呼ばれる所以の一つには、光香隊は橙を象徴としていて、彼自身の纏う淡いオレンジ色からきているというのもあるのだが、やはりなんといっても将軍の無類の柑橘類好きから来ていると、宮殿では誰もがそう思っている。皇帝が彼の隊の象徴色を橙系と決めたのも、シド将軍といえば柑橘類というイメージが頭のなかで出来上がってしまっているからに違いないのだ。贈り物の季節になると五十四にもなる将軍の屋敷には、数えきれない種類の柑橘類があふれかえるという。

 第八個師団闇輝隊の将軍はティムラム・ハムラム。闇将軍と呼ばれその名のとおり夜での合戦を得意としている。美しい黒いマントを羽織っているが、本来濃淡もなにもないような象徴色の黒を、ああまでみごとにグラデーションにしてしまうのには、皇帝も驚いていた。透明に近いほどの黒すらあるという。十二将軍一の長身で、三十五歳の彼の瞳は黒にも関わらず、髪は珍しいことに金髪だ。

 第九個師団藍蓮隊は将軍ラシェル・ティーニリオンのもとで活動している。彼は滅多にものに動じず、いつも冷静で策士でもあるので、彼の異名は不動将軍で通っている。定評ある作戦の立て方はアナスタシアに続き軍の大切な頭脳でもある。トルコブルーの瞳と金の髪は璃紫隊のセショアと双璧といわれるほどの美男子ぶりをよく現していて、侍女・女官の人気を二人でほぼ二分している。二十九歳と二十代組では最年長で、にもかかわらず結婚する気配はいっこうにない。藍色のマントを羽織ってはいるが、その色はアナスタシアの瞳ほどではないというのが口癖である。濃淡をくっきりとわけた藍蓮隊の藍が大地を動く様は、ちょっとした見物でもあると他国でも評判だ。

 第十個師団芙蓉隊将軍はガーミリオン・シエティッテ。愛妻将軍と誰もが認めるほどの愛妻家で、隊の名の由来はいわくつきだ。彼の狙いどおり彼が帝国きっての愛妻家であるということも、また彼の妻の美しさがどれほどのものかも、きっちり帝国史に残ることだろう。誠実の代名詞に彼の名が使われるのは帝国では当たり前のことで、よく男が恋人になにか誓うときなど、

「ガーミリオン将軍に誓って本当だ」

 とか、また、

「そんなことはガーミリオン将軍が浮気でもしないことには信じられない」

 と、絶対にありえないことの言い換えにも使われており、このたとえは教科書にものる始末。また彼はユーモアにもあふれ、なかなか人の心を和ませるのがうまいが、戦場ではまったく恐ろしい敵となる。采配の正確さは誰にでも恐れられ、実力も大きくかわれている。三十八歳とまだまだこれからの男だ。美しい茶色のマントを羽織り、茶色の津波が彼の一言で動くところは、さながら大地の変動のようにみえるだろう。

 第十一個師団燭冽隊はグレイを象徴色にした隊で、将軍はクレイ・バーモンド。彼は金の瞳、銀の髪をもつという、将軍のなかでも一番に目立つ男で、五十二歳と年令が近いせいかヌスパドとシドとは仲がよい。ため息がでるほどにつややかなグレイのマントを彼が羽織ると、金の瞳と銀の髪がいっそう映えて、遠くからでも行軍している彼の姿がわかるほどだ。その戦いぶりは綿密の一言、きっちりと兵士の数を計算して戦いに挑むその正確さには誰もが脱帽する。緻密将軍の異名の所以である。

 第十二個師団雪光隊は最古参の六十歳、ヴィウェン・シェイ将軍。深い青色の瞳、もとは黒かった髪は今は白いもののほうが圧倒的に多くなっている。皇帝ヴィルヘルムが皇太子のときから、いや、それ以前から宮殿に仕え、ヴィヘルム幼き頃からの彼の教育係でもあった。そのせいか、皇帝は彼には強く言えないようなところもあって、それが皇帝の人間くささを表に出す少ない材料にもなっている。銀が象徴色にも関わらず濃淡をはっきりと出すことができたのはヴィウェン将軍の美的センスによるところが大きい。忠実将軍と呼ばれてはや何十年、まだまだ現役でやっていけるほどの戦いの凄まじさには、さすがの皇帝も苦笑いしたという。

 最後に皇帝の軍隊が、十二個師団より騎馬隊の五百人多い金鷲隊。大将は皇帝の三人の側近が務め、他隊にない中将、少将、准将の階級が存在している。兵士は金色のにぶい鎧を纏い、蒼闇色のマントを羽織る皇帝の一声で動くその姿は圧巻の一言。敵は地平線の向こうからやってくる黄金の軍隊に帝国の恐ろしさの真骨頂を垣間見ることだろう。

 誰一人とっても名将と呼ばれる者ばかり、そんな彼らを恐怖でなく人格だけで統治し、その彼らが畏れ尊敬してやまない皇帝ヴィルヘルム。

 帝国が恐れられるのは、十二人の将軍一人一人の寒気がするほどの才能と、その彼らを治める皇帝が確かに存在しているという、動かない事実によるものなのかもしれない。

 翌日氷竜隊の司令室で大将イヴァンと五人の大佐ととりとめのない話をしながら、アナスタシアはイヴァンの横顔をじっと見て、珍しく昔のことを思い出していた。彼ほど有能な部下はいなかった。大将が彼でなければ、今の氷竜隊はなかっただろう。

 思えば彼との付き合いは、アナスタシアが軍隊に入ってから今まで、ずっと続いているのだった。

「ふ……短かいものよの」

 アナスタシアは瞳を閉じると誰にも聞こえないくらいの低い声で呟いた。まぶたの裏には自分が軍隊に入ったときのことが、まるで昨日のときのことのように蘇る。


 アナスタシアが軍隊に入ったのは、規律で許される最年少、十歳のときだった。

「服と靴はこれ、部屋はあっちにある発表をみて自分で探せ」

 受け付けで随分年上の兵士に言われ、軍入隊の許可を見事もらってアナスタシアは、背の高い年上の兵士たちの間をぬって、ちょこちょこと歩いていった。

 髪はひとつにしばり、およそ貴族の娘とは思えないほどの無表情。

 帝国有数の上級貴族、おまけに公爵家の出身ながら、アナスタシアは入隊前に二等兵からの出発を希望した。貴族出身者の新兵は全員将校からのスタートで、最低淮尉からという決まりになっている。アナスタシアほどの家柄だと大尉から始められるというのに、彼女は最低階級からの開始を志望した。周囲の反対にもめげなかった。ただひとり何も言わずに許してくれたのは父だけだった。

 しかしやはり公爵家の娘が二等兵から始めるというのは無理だという軍からの報せを受け、アナスタシアは一等兵を希望したが、それもだめで、結局伍長からスタートすることになった。将校以下である。

 初陣は、入隊して三か月経った頃だった。十になるのを待って入隊したから、春はすぐそこにあったのだ。

 将校以下は曹長、軍曹、伍長、一等兵、二等兵という順だが、曹長は上からの命令を受け、もっぱら軍曹たちと戦うのが主で、一、二等兵の統率は事実上伍長の仕事だった。十歳の伍長を見たとき、平民ばかりの彼らはいっせいに笑いだしたものだった。

「おやおやかわいい伍長さんだぜ」

「参ったなあ、本当に戦争するつもりかい」

「帝国も余裕が出てきたじゃねえか!」

 そして彼らはまた腹をかかえて笑った。作戦室は机が並べられ、小さいながらも伍長のための机のような場所もあったが、多くの兵士たちは幼い伍長をなめきって、前の人間の椅子や自分の机に足を置くという有様だった。一人だけアナスタシアの冷たい瞳に気づいた一等兵がいたが、その瞬間アナスタシアは、腰の剣を黙って引き抜き、それを目の前の机に叩きつけた。案の定机は真っ二つに砕け散り、嘲笑にも近い笑い声で満ちていた室内は水を打ったように静かになった。

「不満か。やる気がないのなら出ていけ。お前たちが年上であろうとなんであろうとお前たちを統率するのは伍長の私だ。やる気のない者を使う気はこちらにもない。私の下が嫌というのなら出ていけ」

 室内は尚も静まり返っていた。その藍色の瞳が、「睨む」という強い行為にでたとき、空気が藍色に染まりそうな圧迫感を彼らは覚えた。足が自然と直され、出ていく者はひとりとしていなかった。

 アナスタシアは淡々と黒板に吊り下げた地図を示しながら今回の戦いの作戦を話した。 作戦といっても、曹長が将校たちに従って動く、そのさらに下の任務であった。

「今回大切なのは、むやみに動かないこと。一人一人が自分の隊の人間と離れずまとまって行動すること。私たちが今回負った作戦は、曹長殿が上から下された作戦の最前線でこの橋の破壊に専念するということだ」

 先程ひとりだけ笑わなかった一等兵は、静かに腕を組んだ。それに気づいたのか、アナスタシアは彼を見て、

「なんだ」

 と言った。

「いえ……右の森から橋に近寄るので?」

「そうだ」

「ですがそれでは右ががらあきになりませんか。そこには敵の将校隊がいる」

 アナスタシアは、唯一そんなことまで気づいた一等兵に対して一瞬ふふと笑ってみせた。

「それはこうだ。後ろから我が隊の曹長殿と軍曹何人かが補佐してくれる。また向こうには何人か伍長が兵士を連れているから問題はない。

 左の森からの出方は二人ひと組みで……」

 アナスタシアは尚も説明を続けた。説明が終わる頃には、彼女を笑う者はひとりもいなかった。

 その戦で、帝国軍はまったく珍しいことに苦戦していた。それは階級が下の兵士になればなるほど、苦しく辛いものだった。おかげでアナスタシアの隊は、本来やるべき作戦以外にもやらねばならないことが多かった。

「アナスタシア伍長! 後ろから敵がっ」

「静かに! 数の目星はついているのか」

「さ、さあ……」

「落ち着け。何人くらいだった。大体でいいのだ。数はどれくらいだった」

「……じゅ、十人か……もっと」

 アナスタシアは空を仰いだ。

「……」

 藍色の瞳には三日月が映っている。

「よし……三人一組でゆっくりと森に移動だ。森についたら各自気をつけて向こうの平原に出ろ」

「戦わないのですか」

「今戦うのは不利だ。途中でなんとか考えるから、今は場所を変える。ここはよくない」 他の隊の伍長隊は全滅寸前という情報を、アナスタシアは早くからとらえていた。

 敵の勢いがこれでは、満更それも嘘ではあるまい。

「伍長殿はどうします」

 アナスタシアはあの一等兵を目で探した。彼はすぐ側にいた。アナスタシアは彼を近くに呼び寄せ、

「一緒に来い」

 と言って最後に森を抜けた。この子は、本当に十歳なのだろうか。一等兵はちらりと思った。見かけは十二、三だが、この冷静さはどうだ。さっきは目の前で敵兵が斬られるのにも眉ひとつ動かさなかった。また人を殺すということを、この少女はなんとも思っていないようだった。少なくともそう見えた。俺が十歳のときは川で友達と遊んでたぞ、彼はそんなことをちらりと思った。もっとも彼自身十二歳だから、そんなことを言えた義理ではないのだが。全員が指定の場所に集まる頃、遠くの方で大砲が鳴る音が無数にしていた。

「月が沈む頃を狙ってここを襲う」

 アナスタシアは地面に石でひっかいて描いた地図の、敵の小さな陣地を指差した。そこはキャンプといっていいほど小さなもので、恐らく将校か、低い階級の人間がいることに間違いはなかった。

「ここは出払っていて人数が少ないはずだ。ここを襲ってこちらに有利になるよう、ここから……円を描いて移動する」

「ですが我々だけでは」

「この人数ではあの陣はおとせない。だからこうやってここまで走って……」

 アナスタシアは陣地からまっすぐ線を引いた。

「ここまで来る。この辺は味方の兵士がいっぱいいる。なんとか引き付ける。この陣地を我々のために落とす。ここからだとなんでもできる。高台にあるから見渡せるし、なにかあっても逃走経路がしっかりしてる」

 目の前にいる悪魔のような美しさの少女は、こうして淡々と作戦を立て続けた。

 戦が終わったとき、将校以下で生き残っているのはアナスタシアが所属している曹長の隊ひとつで、この隊は自分たちでおとした敵の陣にずっといて、戦のあいだはずっとここで作戦を立てたり遂行したりしていたそうだ。

 戦が終わる頃、アナスタシアは軍曹に昇格していた。他の将校以下の隊が全滅したり全滅寸前でほとんど兵士として使いものにならなかったというとき、この一隊だけきちんと機能していたのは、アナスタシアの功労によるものが大きかった。この隊にいた者は全員一段階の昇格を果たした。苦戦した期間が長かったので、いつもより功労の発表が大幅に遅れたこともあって、彼女が軍曹になったのは入隊して半年した頃だった。

「伍長……軍曹殿」

 後ろからの声に聞き覚えがあったのか、アナスタシアは振り返った。

「お前か」

 あの一等兵だった。彼も今回の戦で伍長に昇格していた。彼はこの時十二歳、アナスタシアより二つしか年齢が上でなかったが、体格は彼を容易に十五に見せるほどのものだった。

「昇格なされたそうですね」

「お前も伍長になったそうではないか。お互い昇格出来てなによりだったな」

 戦の折々この元一等兵とは出会った。二、三回隊が同じになったこともあった。アナスタシアは十一になってすぐ軍曹になったことになるのだが、続く二度の戦で、その年の功労賞のトップを飾り、十一歳と半年で曹長になった。十三歳のときアナスタシアは貴族階級の最低開始の淮尉になった。翌年アナスタシアは十四で少尉に。同僚からは、戦の度に昇格するなあ、などと言われたほどの功績のよさだった。

 十五歳になって中尉になった。中尉になると、よほど功績のよかった者に関してのみだが、指名で専属の部下をつけることができる。周りの、十五、六で入隊してきた中尉たちとアナスタシアでは違いがありすぎた。なんの違いか、それはくぐってきた修羅場の数の違いであった。アナスタシアは明らかに他のどんな年上の将校とも格が違っていた。才能というのなら、こういうのを言うのだろう。それはあの一等兵にしてもまったく同じ事がいえた。とにかく彼女の、あのひとをひきつける強い瞳、どんな年上の兵士も、彼女の立てた作戦を彼女の言葉で動くときには、最初の不満などいっさい忘れて戦った。それは「人格」という名の才能だった。

 アナスタシアはあの時の一等兵の名前を覚えていて、彼を指名した。彼も順調に昇格を重ねていたらしく、曹長にまでなっていた。しかし、将校の部下が曹長ではなにかと不便だというので、今までの彼の功績も考慮され彼は淮尉に昇格した。アナスタシアはそのまま二年、十七まで中尉をつとめあげた。この頃になると、ファライエという名前の、聞けば誰でも知っているのにそれが何かがわからないという人間が増え始め、アナスタシアが公爵家の人間だということが周囲にわかったのは、彼女が十七の終わり、大尉になった頃だった。自分の家の家柄を考えれば大尉から始められたものを、彼女は伍長から七年かけてそれを手に入れた。その頃になると伍長からここまで凄まじい早さで昇格を遂げている彼女のことは軍でもちょっとした噂だったので、アナスタシアの戦場での信用は階級が低いにも関わらずかなりのものであった。あの一等兵は能く彼女を援け、その頃少尉になっていた。

 そして事件はアナスタシアが十八になるかならないかという時に起こった。彼女は敵の将軍の首を三つ取ってきたのだ。さすがになみいるベテランたちも、これには言葉がなかったという。彼女は異例の三段階昇格を遂げた。

 帝国開闢以来、これほどの大昇格を遂げたのは、後にも先にもアナスタシア一人だけであった。この頃は、アナスタシアが公爵家出身ということを知らない者はいなかったが、家柄にも関わらず伍長から始めたということや、その比類なき戦の才能に、誰もが嫉みを知らずに密かに彼女を目指した。十九歳まで、二年近くアナスタシアは中佐をつとめた。 あの一等兵は淮佐にまでなっていた。ひとえに、彼の有能さがあの初陣の時輝いたせいでもあったが、アナスタシアのおかげだけでなく、これは彼自身の才能と、能く彼女を助けるという補佐役の有能さがあみだした結果でもあった。アナスタシアにとって彼がいたほうがはるかに事がやりやすいということは、動かすことのできない事実だった。

 十二個師団が新設されることになり、そして彼女は将軍になった。

 わずか十年だった。この時の一等兵が今の大将イヴァン・シェタリンである。

 あれはアナスタシアが大尉の頃だったか、噂をきいたイヴァンは彼女に聞いたことがある。

「どうしてそんなに身分が高いのに軍隊に? おまけに将校以下からなんて」

 アナスタシアはこの時窓の近くで座っており、空を眺めていたが、聞かれたときもしばらくこたえず、口元に薄い笑いをたたえ、空を見続けていた。

「さあな……退屈な貴族の生活を続けるのが嫌だったというのもある。この性格だ。おとなしく結婚して子供を産んで、家の繁栄につとめてなんぞできるわけないと思った。お前もそう思うだろう」

 いえ、と口では否定したが、アナスタシアは、

「顔がそうですと言っている」

 とくすくす笑いながら指摘した。

「---------それに、自分の可能性を試したかったというのもある。最底辺から始めて、どこまでやっていけるか。今は私は大尉だが、このままずっと大尉止まりか、それともまた昇格を重ねるか、それはわからない」

 そうして将軍になったときのアナスタシアの満足気な、納得いった表情の真意を知っているのは、イヴァンだけだった。彼がアナスタシアの機嫌の悪いときの扱いに長けているのも、十年以上の付き合いの賜物なのだ。

「イヴァン」

 そして今、将軍となったアナスタシア、大将となったイヴァンは、氷竜隊の司令室で共に紅茶を飲んでいる。不思議なものだった。

「はい」

「お前いくつになる?」

「閣下より二つ年上ですから……二十六です」

「そんなになるか」

 とおよそ言葉とそぐわない若さのアナスタシアは言った。十歳で伍長の自分は異例といっていいほどの若さだったが、あの頃は一等兵は十八歳もいれば、イヴァンのように十二歳というのもいた。彼は早くから軍に入りたかったのだと、のちに語った。


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