第二章 流血の果てに 4
初夏、氷竜隊は金鷲隊と共に出陣した。たまたま氷竜隊だけが休暇明けで、他の隊は戦地から帰還したてだったのだ。一週間の戦場を過ごし、ある夜アナスタシアは皇帝の召喚を受けた。
「……」
まだ恐ろしい体験の爪痕は残っていた。しかし逆らうことはできない。アナスタシアは皇帝のテントに向かった。
「陛下。アナスタシア、参上致しました」
皇帝は作戦書に目を通していた。彼女が来ると低くうむ、とこたえ、しばらくそのまま作戦書を見ていたが、目を離してアナスタシアを見、肘をつきながらこちらへ来るよう示すと、座れとも言わずにアナスタシアを見上げた。
「---------」
そして皇帝は静かに言った。低く、ひどく抑揚のない声だった。
「凌辱されたのか」
「……」
アナスタシアは微かにうつむいた。藍色の瞳は鏡のように澄んでいて、氷を思わせるほど何も感情を映していない。何か言おうとしたが、どう言っていいのかわからなかった。 しばらくすると皇帝の方が口を開いた。
「わかった。下がれ」
「……陛下」
しかし皇帝はまた向き直り、アナスタシアなどいないように、また作戦書に目を通し始めた。アナスタシアは一礼してテントを去り、その夜は眠らなかった。
「……」
本当を言うと、今晩抱かれたらどうしようと、内心はらはらしていた。皇帝は早くから気づいていたのだろう。知られてしまったことは仕方がないが、形として見られるよりはずっといい。
誰にも、皇帝にはなおさら、見られたくなかった。これはアナスタシアの、女としての、そして軍人としてのプライドの問題だった。
その戦は何事もなく終決し、帝国はこの春十二か国を属国下に置いた。
夏が来て、草原にぽつりと存在している帝国は地獄のような暑さを迎える。皇帝は避暑に西の領地へ向かい、しばらく帝国は皇帝不在だ。アナスタシアはよかった、と思った。(陛下が今年避暑に行かれてよかった)
ゾラは他人ではなかった。
顔は知らぬとはいえ場所だけが違う、境遇の同じ同志なのだ。自分が普段皇帝の側にいるだけあって気がひけていたアナスタシアであったが、自分は自分の忙しさにかまけ、いつしかそんなことも忘れていた。あちらはあちらでうまくやってさえいれば、自分は領域を侵すような勘繰りはしないでいい。痣も消え始め、忘れたいのに忘れさせてくれない忌まわしい傷跡もそろそろアナスタシアを解放しつつあった。
目に止まるたびにどんな目に遭ったかを思い出す。忘れようとしても忘れられないのだ。 別にあのこと自体に対して、自分を哀れんではいないアナスタシアであったが、ただもういい加減人目を気にするのを疲れたことと、やはり恐ろしかったという思いも忘れたいのだろう。
夏は草原の風が醍醐味というほどに風がそよぎ、アナスタシアはだいたい部屋の窓を開けて昼寝をするか、読書をするかしている。この酷暑に訓練などと考えるだけでも嫌だった。隊の者も同じらしい。帝国では夏は必要以上に動かないというのが常識のようになっていた。
「暑いのう……」
羽根団扇で仰ぎながらアナスタシアはうんざりして言った。侍女はそんなアナスタシアをくすくすと笑いながら見て言った。
「でももう風は秋めいて参りましたわ」
「残暑だ。たまらぬ」
アナスタシアも今年で二十四になる。将軍として皇帝に仕えてはや四年。
「……」
草原に目を馳せると、地平線が空と重なってどこまでが大地だかもわからなくなる。平原に囲まれた帝国。皇帝は世界を治め、より平和で、より帝国のための利益となる世界を築こうとしている。どこまでも、そう、彼方までも駆けて駆けて、飽くことなく貪欲に、彼方まで。
ヴィルヘルム・アルゼオンⅥ世というのは歴史の生み出した天才だ。アナスタシアは誰かが言っていたのを耳にした、そんな言葉を思い出していた。風の音に耳を澄ますようにして、そっと目を閉じる。
(……)
そういえば歴代の皇帝はその権力をかさに、随分と愛人がいたそうだ。そのため妾腹の子が何人もいて、皇帝の座を狙って偽の皇太子候補まで現われるというのは、帝国史では一度や二度ではない。
それを思えば、皇帝にとっての自分たちの存在など軽いものではないだろうか。愛人でも愛妾でもないのだ。皇帝ヴィルヘルムのやっていることは、歴代の皇帝のしていたことに比べるとかわいいものである。三百年ほど前の皇帝・シニシオンなどは驚いたことに、七十人の愛人・百人近くの子供がいたという。愛人の数は数えられるだけで七十人で、他にも知られていないところでかなりいたそうだ。それに部下が遠征中なのをいいことに、その間随分と彼らの細君を奪っていたとか。
彼だけではない、めぼしい皇帝はみな似たようなことをしている。主君に妻を寝取られては、臣下の者たちもさぞかし無念だっただろう。
ヴィルヘルムはその点宮殿では理想的な愛妻家だ。いつだったか、どうしてもガーミリオン将軍が屋敷を長期間留守にしなければならず、安全のため細君を宮殿に上がらせたときも、玉座で細君に対し一通りの言葉と美しさを誉める言葉と、夫の普段の活躍を細君のおかげだと言って声をかけた他は、ほとんど構いもしなかった。
過去の皇帝の臣下たちならば、宮殿に妻を預けるなどという、飢えた狼の群れに羊を投げ込むに等しい行いは、考えるだけでも恐ろしかったに違いない。
ガーミリオン将軍もよく皇帝をわかっているとちらりと思い、アナスタシアはそのまま眠ってしまった。
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