第二章 流血の果てに 3
「アナスタシア殿……!」
「あっ閣下! 閣下だぞ!」
シスレン台地には案の定光香隊も藍蓮隊も、また氷竜隊もいた。イヴァンはアナスタシアの言葉を覚えていて、また状況からして帝国に帰還することもできず、こうして光香隊と藍蓮隊と合流したのだろう。
「アナスタシア殿行方不明と聞いていましたが……!」
「自力で逃げてきました。お恥ずかしい」
皮肉っぽく笑うアナスタシアに、部下たちが駆け寄ってきた。
「閣下! ご無事で」
「イヴァン」
アナスタシアはほっとして目を伏せた。
「さすが私の部下だ。よく合流した」
「なにをおっしゃってるんです。ご無事でしたか!?」
「……」
アナスタシアは額に汗を浮かべながらイヴァンに寄り掛かるようにしてよろめいた。
「閣下……?」
「疲れた……」
「おおそれはいけない。すぐに休ませてあげなさい。もうテントはできているのだろう」
第七個師団光香隊将軍・シド・ヒエンラも気遣わしげに言った。橙色が象徴色の光香隊で、暁を思わせる淡いオレンジを羽織っている彼は、松明の明かりも手伝って闇夜に眩しい限りだった。
アナスタシアは将軍のテントで休んだ。夢は見なかったが、夜中に何度も目が覚めてはあの嘲笑を聞いた気がして起き上がり、恐ろしい思いを断ち切るように拳を強く握った。 次の日アナスタシアは氷竜隊の大佐五人、大将イヴァンを呼んだ。
「よくやってくれた。お前たちがここに来てくれているとは思わなかった」
「閣下……」
「それから……」
アナスタシアは息をついて目を伏せた。ひどく疲れていた。テントの簡易ベッドではなく、帝国の宮殿の、自分の部屋のベッドで眠りたかった。
「すまなかった。随分心配をかけてしまったようだ。隊の者にも詫びねばならん」
「ご安心ください。閣下のご無事でようやく眠れる兵士も出まして……お詫びなどとんでもない」
大佐のラッシュに言われるとアナスタシアは口元を歪めた。
本当にいい部下をもった……
それから三日、戦場の処理とアナスタシアの身体を気遣って、三部隊は大移動の末帝国に帰還した。
ラシェルとシドの両将軍は、アナスタシアの失踪と聞いてすぐさま氷竜隊を受け入れ、出発を二日伸ばしてくれたそうだ。結局アナスタシアは一晩気絶していたことになる。
「ルクリーエ……?」
訝しげなラシェルの問いかけにアナスタシアは黙ってうなづいた。
「あの野蛮な国がいったい何を・・?」
「帝国の戦線布告予定国を知りたがったとは……解せませんな」
シドも隣で眉をひそめる。
「まさかどこかと供託したのでは……」
「どうでしょうなあ」
ラシェルの言葉にシドは腕を組んだ。
「奴らと結託していいことなどないし、第一そんな頭のいいことを思い浮かぶかどうか。 どちらにしろ、他とは絶対に供託できない類の連中でしすしな」
「……」
アナスタシアはその間、ずっと黙っていた。普段無口なので誰も不審に思わなかった。
「あの砦は大昔の名残で、どこの管理下にもないそうです。勝手に使っていたのだろう」 とにかく彼らは帝国に帰還し、それぞれの休みをとることになる。
春が終わるまでアナスタシアは三度戦場に赴いた。それが終わって一息ついていると、季節はもう初夏だった。一部の部隊を除いて、軍隊はそのほとんどが休暇に入る。
その夜アナスタシアはいつものように浴場へ行った。宿舎にはアナスタシア以外に女はいないので宮殿のものを使っているが、彼女くらい地位が上だと共に使う人間も限られていて、いつも好きなときに使えて湯もきれいだ。アナスタシアはいつもは二人の侍女を湯女に使っている。髪を洗うのを手伝わせたり、背中を流すためだ。別にどうしても必要なのではないのだが、湯女をいたしますと言われて、断る理由もないので使っている。着替えを手伝おうとする侍女を止め、
「湯女はよい」
と、アナスタシアは低く言った。
「は……? ですが」
「しばらく着替えも手伝わなくていい。下がれ」
「ですが……」
「聞こえなかったか」
アナスタシアの声が少し強くなった。二人の侍女は慌てて浴場から出ていった。アナスタシアに怒鳴られるくらい恐ろしいことはないからだ。
アナスタシアは一人で服を脱いで鏡に映る自分の身体を見た。
「……」
身体のあちこちの痣。紫色になって、微かにでも触れると痛みが奔る。誰にも見られてはならない。アナスタシアは痣が消えるまでの決心をそう決めていた。簡単なことだった。 湯槽につかって、そこについている大窓から外の景色を見た。
「---------」
アナスタシアは無表情に眉を寄せた。彼女は最近、眠っていない。眠るとまたあの恐ろしい体験が襲ってくるようで、夜中に何度も何度も目が覚める。身体が忘れられない、あの腕を掴む力の強さ。嘲笑の数々。卑しい笑い……。
アナスタシアはぐっと唇を噛んだ。唇を奪われなかったのだけが唯一の救いだったような気がした。もしあんな男たちに唇まで奪われていたら、迷いなく舌を噛み切っていただろう。
アナスタシアはうつむいた。
また夜が来た。眠らなければならない。次に目を覚ましても、もうあの地下牢ではない。 ここは宮殿だ。しかし一糸も纏わぬという今の己れが自らに恐怖を与えているようで、アナスタシアは不愉快になって浴場から出た。
眠る時間になっても、案の定目が冴えて眠れなかった。アナスタシアは起き上がって窓から首都ヴァンドの灯りを見た。
「……」
恐ろしい思いをしたはずだ。恐ろしかったのに、どうして悲しくない? 自分は凌辱されたのだ。恐かった。なのに、普通伴うはずの悲しみが感じられないのはなぜだ。
「---------」
涙も出なかった。悲しくなくても、恐ろしかったのなら涙くらい出てもいいのに、アナスタシアは泣かなかった。
(---------)
なぜだ? お前は本当に氷姫になってしまったのか?
しかし泣かなかったというくらいの些細な現実は、別段彼女に何の影響も及ぼさなかった。ただ自分は泣くことも忘れてしまったのだと、淡々と思ったくらいだ。傷は構うからいつまでも治らない。放っておけ。
凌辱されたことは、彼女にとって恐ろしい体験ではあったけれども、凄まじい虚脱感や喪失感はなかった。己れがすでに男を知っていたからゆえであろうか。大したショックでもなかった。皇后も、将軍たちも、侍女・女官たちも、アナスタシアがルクリーエにさらわれたことは聞いていたし、知っていたが、彼女の言った、吊されて拷問に毛がはえたようなことしかされず、そのまま砦に火をつけて逃げだしたという言葉を、疑いもしなかった。
誰も不審に思わなかったし、彼女のわからないほどわずかな、微妙な変化には、誰一人として気づかなかった。
---------いや、気づいた者が一人いた。
皇帝ヴィルヘルムであった。
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