第一章 宮廷の女 3
それからアナスタシアは二か月の休養のあと、第十個師団・芙蓉隊ガーミリオン将軍と共に北へ戦に赴いた。ガーミリオン将軍は別名を「愛妻将軍」といわれるほどの愛妻家で、彼は愛する妻のために帝国の歴史に残るようなことをしてやりたいと常日頃思い、実際やってしまった男である。
三年前アナスタシアが氷竜隊の将軍になったことで十二個師団が完成した。師団の数だけでは言いにくいしわかりにくいし、不粋だというので、隊に名前をつけるという提案をしたのは他ならぬ皇帝ヴィルヘルムであったが、自分の隊の名前の希望は何かあるかと聞かれて、それにうなづいたのはガーミリオン一人であった。
ガーミリオン将軍はとんでもないことをした。彼は妻を心の底から愛していた。なんとか自分が彼女を愛していたという、確固たる証拠、形が欲しいと思っていた。そこで彼は考えついたのだ。当時、進みでたガーミリオン将軍は皇帝に、
「陛下。所望の名前があるのならとおっしゃいましたな」
「うむ」
「では私の隊は、芙蓉隊とお付けください」
そこまで聞いて、皇帝ヴィルヘルムはおろか、ヌスパド、レーヴァ、アナスタシアやあのラシェル将軍まで、目を丸くしてガーミリオン将軍を見たと、近衛の兵士が語り伝えている。
ガーミリオン将軍の細君リティエッテは、巷では「芙蓉の君」と呼ばれていて、帝国五大美女にも数えられているのだ。皇帝は苦笑いしてそれを承諾した。
「ガーミリオン」
「はっ」
自分よりも五つも年上のガーミリオンに、皇帝ヴィルヘルムはくすくすと笑いながら言った。
「大した愛妻家ぶりだな」
「ありがとうございます!」
玉座の間から下がった後、ヌスパドはアナスタシアに言ったものだ。
「いやガーミリオン殿は大したものだ。 よくもあそこまで愛妻家ぶりを徹底できるものよ。いやはや、恐れ入る」
アナスタシアもこの時ばかりはくすくすと声にだして笑ったほどだった。将軍の望みどおり、彼の妻のことも、また彼がどれだけ妻を愛したかも、永遠に帝国史に残ることは確かだろう。
そんな愛妻家も戦場では喰えない軍人となる。彼もまた帝国の将軍なのだ。
「アナスタシア殿」
「ガーミリオン殿。先のリスリィ会戦ではご活躍とか」
「いえいえ。それよりアナスタシア殿、これを」
ガーミリオンは地図をばっと広げた。それには氷竜隊と芙蓉隊の場所と位置、敵の居場所と環境などが事細かに書かれていた。
「……」
アナスタシアはしばらく爪を噛んでいた。が、やがて、
「イヴァン」
大将の名を呼ぶと、
「ここから帝国まで馬をとばして何日だ」
「三日です」
アナスタシアは振り向いた。五日かかって来たところを、彼は三日と言い切った。
「よし。三日で行って戻ってこい。竜師のスティニー・ファシャ殿と、あるだけ竜を連れて帰ってこい。乗ってきてもいいぞ」
「は? ---------は!」
「よし。行け」
「アナスタシア殿……竜……?」
「ポイントはこの崖です」
アナスタシアは大絶壁と呼ばれる崖を指差した。
「ここに逃げ込まれると少々厄介です。だからこうして私の隊が後ろからまわって・・」 アナスタシアは指で敵の陣地の後ろを大きく円で囲った。
「貴殿の芙蓉隊が正面から横に広がって攻める。ただしあまり長いことするとこちらの消耗も激しい。部下の足に期待するしかないでしょう」
「イヴァン大将ですね。彼の有能ぶりは我が隊でも有名です」
「ふふふ……私の下で我慢強くやっていける数少ない人間です」
アナスタシアは冗談めかして言うと、
「陛下もこちらに来られるとか?」
「そのようです。どうにも、私たちだけでは数が足りません」
「パド殿は西の陥落に、ラシェル殿はヴィウェン殿とリーデンへ、他にも遠征がほとんどで、宮殿に残っているのはカイルザート殿とクレイ殿の隊だけのみ、しかも帰還したてとか」
「ですから陛下がお越しになるのでしょう。疲弊した師団の休養中には決して司令を出さない。他国では考えられないことです。それもありますが、あの方は、戦が好きなんですな」
アナスタシアは吹き出した。ガーミリオンは真面目な男だがこうして冗談も言える男なので一緒にいるとえらく楽しい。珍しく自分も笑えるのだ。
三日後、言葉どおりイヴァンが竜と竜師を夜の闇にまぎれて連れて帰ってきた。その間氷竜隊と芙蓉隊はよく持ちこたえた。自分たちでも奇跡のようだと言い合ったくらいだから、相当の苦戦だったのだろう。大砲の火薬もぎりぎりだった。幸いイヴァンがそれらを予測して看護隊と武器弾薬の補給部隊を連れてきたので充分に補給することができた。
「だからお前に任せると安心できる」
「ありがとうございます」
またその二日後、皇帝ヴィルヘルムの金鷲隊が到着した。皇帝は前の日まで予算編成で忙しかったそうだ。
「よし。アナスタシアの作戦を容れる。ガーミリオン、左から行け、囮だ。上空から氷竜隊の旗が振られたら一気に南下しろ。そこで俺と合流だ」
いよいよ作戦は三日後であった。
その女がアナスタシアのテントにやってきたのは、報告を終え彼女がテントで一人もう一度地図を見ている時であった。
「?」
アナスタシアはその女の顔にまったく見覚えがなかったので、不審げな顔で女を一瞥しただけだった。しかし女の方はアナスタシアをよく知っていた。
「将軍」
アナスタシアはそこで初めて気が付いた。女が氷竜隊の紋章をつけた鎧、象徴色のひとつの白い鎧を纏っていること、それから女の顔に、微かだが自分に対する侮蔑のような、まるで、アナスタシアより自分のほうが何においても優れていると言いたげな、生意気な表情を浮かべていることを。
「---------」
「少尉のリサといいます」
「何用だ」
ふつう少尉ていどの人間は、軍隊の常識では将軍とこうして口をきくこと自体異例といっていい。最底辺階級から始めただけに、アナスタシアはさすがにこれには厳しい顔を向けた。
「将軍。宣戦布告にきたんです」
「布告……なんのことだ」
「この会戦中に、皇帝陛下に抱かれてみせます」
「---------」
「あなたなんかに、負けない。絶対」
なるほど、美しい娘だった。歳は二十歳かそこらだろう。気品漂うところを見ると貴族の出身かもしれない。
「ふ……なるほど。自信たっぷりのようだが……」
アナスタシアはキッと視線を上げた。リサと名乗った少尉はびくりとしてアナスタシアを見た。
凄い目だった。獣の、いや獣すら睨み殺す圧倒的な強い目をしていた。濃い藍色の瞳は睨むという強い行為に反応するかのように、辺りの空気すら同じ色に染めた。
「大切な作戦前に公私の混同は許さぬ。少尉ふぜいが将軍になんという口のききかたをする」
「な……!」
「なるほど貴様は年上のようだな。軍では年齢ではなく地位がすべてだということを学び直せ。二十歳そこそこで少尉か。気楽よの。私に殺されないうちにさっさと出ていけ!」
少尉は震えながら出ていった。しかし、最初アナスタシアに言った「野望」の方は健在だった。図太い女であった。普通アナスタシアに怒鳴られると、たいていの兵士は竦み上がる。
彼女が、アナスタシアは帝国有数の上級貴族、しかも公爵家の生まれで、貴族階級の者はすべて将校、つまり少尉から、アナスタシアくらいだと大尉から軍に入れるものを、本人たっての希望で伍長から始めたという事、アナスタシアが最低階級の二等兵から始めたがったということ、彼女が軍隊に入ったのが十歳になってすぐだという事、それから、わずか十年という驚異の速さで将軍までのぼりつめたということを知ったのは、この戦が終わってからのことだった。
リサ少尉は実行を開始した。元々勝ち気な性格も手伝って、皇帝の寵愛を受けたいがために軍隊に入ったようなものなのだ。最初侍女奉公に出ようかとも思ったが、性格に向いていないし、それに皇帝は、侍女・女官たちには見向きもしないということを聞いていたので、こうして軍隊に入ったのである。
作戦前は忙しいし皇帝の気も立っているだろうと、敢えて行動には出なかった。無事イリイオン会戦が終結した二か月後、帝国軍は雑兵を片付けるためにしばらく残ることとなった。彼女はうまく抜け出して皇帝のテントに向かった。
「……」
さすがにどきどきするところを見ると、少しは可愛げがあるようだ。ちょうど交替の時間か、入り口の兵士も姿が見えない。
これが最大の難関だと思っていた少尉は、すっかり計画が成功した気分になってテントに入った。皇帝は椅子に座ってひとり酒を飲んでいた。
帝国中の娘たちの憧れの、ヴィルヘルム皇帝だ。いくら将軍だからといって、こんな素晴らしい方を戦場で独り占めするなんて許せない! すっかり自分が正しいという気持ちで少尉は進んだ。
「---------何者だ?」
少尉は舞い上がった。
「は、はい。あの、陛下。お召しに預かりに参りました」
さすがにこういったことは初めてらしい。皇帝は意外そうな表情で少尉を見つめ、やがて真意がわかったのか、ふふと自嘲するように喉の奥で笑った。少尉には、浅はかなことに、それが了解の意に見えたのだった。
「あいにくアナスタシア以外はいらぬ。立ち去れ」
この場にアナスタシア本人がいたなら、いったいどういう顔をしただろうか? そんなことを思いながら皇帝は少尉に言い放った。
少尉は言われた意味がわからなくて---------単に予想外の答えを脳が受け入れるのを拒んだためかもしれないが---------しばらくよくわからないといった顔をしていたが、やがて、恥ずかしさからか、屈辱からか、とにかく顔を赤らめて、
「な……なぜでこざいますか?」
と殊勝にも聞き返した。皇帝は彼女を相手にしていられるほど退屈を持て余している時間はこの時なかったのだが、気が向いたのか向き直って少尉に向かって言った。
「なぜ……か。一言で答えるのは難しいが……少なくともアナスタシアは自分からやってきたりはしない」
リサ少尉の顔が尚も赤くなった。
「わかったか。わかったのならもう行け。俺は忙しい」
言ってしまうと皇帝は机に向き直って、また酒を飲みながら何事か雑務にとりかかり始めた。こういうときの皇帝の集中力は物凄いから、案外本当に彼女の存在を忘れてしまったのかもしれない。少尉は駆けるようにしてテントを出た。
真夜中になって皇帝ヴィルヘルムはテントの外に出た。めまいのする程の星空。紺青の空には砂をまいたかのように星がちりばめられている。彼は星を見ながら先程の少尉のことを考えていた。なるほどああいう娘は、行動に出るのが意外なだけで、けっこう数はいるのかもしれない。
「……」
しかし彼には、戦場でアナスタシア以外の女を相手にするつもりはなかった。アナスタシアは戦場では他の誰よりも輝く。あのマリオンですら、宮殿ではともかく、戦場ではどうだかも怪しい。アナスタシアはそれだけの女だ。そして彼女は分別をわきまえている。 他の二人、マリオンとゾラと同じように、自分は戦場だけの女だということをわかっている。戦場以外でしゃしゃり出ようともしないし、それを掲げてずかずかと押し掛けてくることもない。頭のいい女だ。そしてそんな自分の運命を、別段呪うわけでもなく享受している。皇帝に変に恋人面するわけでもなく、夜を過ごしても気がつくともういない。自分が考え事をしたくて、一切の干渉がすべて煩わしいいということを、言われないでもわかっている。他の女では、こうはいかないだろう。
少なくとも、三人の女たちには、こう言い切れるのだ。同じくらい美しく、同じだけ賢く、同じだけ自分の領域で最高の美しさを発揮する。だから彼には、自分の三つの生活空間につき一人、それで満足だった。
一つの空間に一人、誰にでもできることではない。もしアナスタシアがいなくて、あの少尉が同じ役目だったら、きっと物足りなくて皇帝は、戦場という一つの空間に一人では無理だっただろう。
自分ほど不実な人間はいないかもしれないと皇帝は思った。
彼は、これ以外のいくつかの特権を得る代わりに、通常人では考えられないような苛烈な生活を送っている。ならば、代償としてこれくらいの特権は許されてもいいのだとも、思っている。
皇帝に生まれてきた以上、これは宿命であった。
戦争が一番激しい季節が終わろうとしていた。軍隊は一部の地域への派遣を除いて休息状態に入る。アナスタシアの氷竜隊もその一つであった。通常、戦は春が一番多いとされる。アナスタシアが幽閉を解かれて赴いたイティマヒエルは季節はずれだったといっていいが、季節が違うからまったく戦がないというのでもない。
彼女は今までの過激な戦場生活から、しばしの安息の生活へと方向を変える。といっても将軍としての日常任務は果たさなくてはならないし、軍の訓練の指揮もとらなくてはならない。自身の剣の修練もあるし、まったく時間ができるというわけではないのだ。しかし今までのように后に対する辛いほどの負い目がないぶん、アナスタシアには宮殿は家よりも居心地のよい場所となったことには間違いない。ちょくちょくマリオンにはお茶に招かれたりして、身分を越えた交流が生まれつつあった。
ある日のことだった。
「閣下」
氷竜隊司令室から戻ろうとするアナスタシアを後ろから呼び止める女がいた。聞き覚えのない声だったので、また「布告」かと、アナスタシアはちらりと思った。
「……シーラ殿」
それは帝国第七宮廷魔術師・シーラであった。美しい、というよりは、かわいらしいという形容のほうがぴったりと来る女で、亜麻色の髪、緑の瞳がひどく印象的だが、玉座の間では皇后とアナスタシアの両名の前にかすんでしまう程度だ。役職も宮廷魔術師だが第七となると身分は相当低い。が、皇帝は特に宮廷魔術師にはそういった区別はしないので信用は厚いらしい。その実力も、身分には合わないほどあるということは、アナスタシアも知っている。しかし普段めったに口をきかない宮廷魔術師、しかもシーラほどの者は将軍と口をきくなどもってのほかなので、アナスタシアは自分に用があるのか、しかし用といってもそれほどの交流はないはずと、頭のなかで考えていた。話し掛けられることを咎めはしない。宮殿のなかでは低めの身分ではあっても、将軍というかなり特別な身分の自分からの視点で、第七宮廷魔術師ならば近衛兵より身分は上なのだ。
「いかがいたしました?」
「あの……今よろしいですか」
「ええ」
アナスタシアのような凄味のある美女、軍人でしかもほとんど無表情という女は、そこにいるだけで物凄い存在感なので、シーラは完全に圧倒されてしまい、話しにくい相手なのかもしれない。アナスタシア本人にはまったくそういうつもりはないのだが、その濃い藍色の瞳で見られると、大抵の者は竦み上がってしまう。残念なことにアナスタシアの周りにはそれなりの人間、彼女の視線に耐えられるだけの、彼女と同じか、それ以上の器の者ばかりなので、彼女はそういうことには気付かない。
「なんでしょう」
「あ……あの……お庭で」
やれやれと思った。内気すぎるのも参ったものだと思ったが、シーラが内気すぎるのではなく自分が堂々としすぎているのかもしれない。アナスタシアはそう思って庭に行った。 いつ来ても宮殿の庭は美しかった。アナスタシアは涼しい風にそっと瞳を細めた。
「で、お話とは」
「は、はい」
シーラは早く言えと叱られたような気分にった。アナスタシアには、まったくそんなつもりはないのだ。ただ生来持つその迫力と、冷静さとに気押されて、相手がそういう気分になるのは否めない事実だ。
ヒゥ……
風が庭を渡った。シーラは長いこと言い出せないようだったが、アナスタシアは黙って待っていた。言おうとして言えず、言うまでの決心をつける時間を急くほど、アナスタシアは不粋ではなかった。
ヒゥ……
もう一度風が渡ったとき、シーラはやっと口を開いた。
「---------陛下は、私をお相手にはしてくれません」
「---------」
アナスタシアは一瞬意外に思った。おとなしい性格のシーラがこんなことを言うとは思いもよらなかった。しかし言い出すまでの時間を考えれば、別に意外なことでもないのかもしれない。
「無論わかっています。私の身分が第七宮廷魔術師と低いからでもなく、あなたや皇后殿下ほどに美しくないわけでもなく、ただ私がいるべき場所には、もう他の方がおられるからだということは」
「!」
自分たち以外で、「領域の法則」に気がついている者がいた。アナスタシアは平静を装ったものの、内心では驚いていた。これは、当事者の自分たち以外には絶対にわからないものだろうと思っていたからだ。
「私は宮殿で生活し宮殿で役目を果たす人間です。宮殿には皇后殿下がおられます」
自分の入る余地はない、シーラはこう言っているのだった。アナスタシアにしてみれば、わかっているのならなぜわざわざ言うのだろうかと思うのだが、まだ話には先があった。「皇后殿下に勝とうとか、そんなことは思っていません。最初はお側近くにいられるだけで幸せだったのです。でも……でも、我慢なんてそう長続きはしないのです。日が募るごとにあの方に対する気持ちが抑えられなくなっていく。身分もわきまえず愛しているのです、あの方を。最近は夜も眠れません。狂おしいほどにお慕いしています。
でも……宮殿があの方との接点である限り、何も望むことはできない」
「---------」
しかし宮殿以外でも、自分は同じ立場だということを、彼女は知っているはずだった。 戦場はアナスタシア将軍、避暑先はゾラ。
「いつまで耐えられるかわからないのです。だからこうして誰かに聞いていただきたいのです」
「私は一番好都合のようですね」
アナスタシアは薄い笑みを浮かべた。自分は、自らは意識していないが、どうやらこういった相談ごとをするのに標的にされやすいようだ。自分以外にももっと話しやすくて人当たりのいい人間はいっぱいいるのに、アナスタシアは思うのだが、彼女自身、気付いていなかった、それこそが「人格」だということを。
「私は……今の立場に満足しています。でもあの方を見ていると---------……どう
しても自分の心が抑えられない……! 苦しくて苦しくて……一度だけでもあの腕に抱かれれば、この苦しさもなくなろうというものを……!」
シーラは崩れ落ちるようにしてへたりこんだ。
「---------」
「一度でいいから……!」
涙声の向こうから叫ぶようにして言ったシーラの言葉に、アナスタシアは何も言えなかった。言える立場でもなかった。ただ自分でもよくわからない、微かな優越感のようなものが鼻先をくすぐっているのには、気づいていた。
シーラには、わかっている。
どんなに嘆いても、一度だけでいいと例え皇帝に懇願しても、結局はそれが果たされないということを。皇帝は、宮殿ではマリオンと決めている以上、どんなことがあっても他の女を相手にしないということを。
それは残酷な賢さだった。気づかずに皇帝に焦がれ、夢見る間は幸せなものなのだ。むしろシーラのように、実力もあってそれなりに美貌も兼ね備えていて、皇帝のことをよく理解しているのに、同じような女性と同じ列にいられないのは、さぞかし辛いことだろう。 皇帝が要求し、選ぶのは、相手の容姿でもなく、地位身分でもなく、自分に対する理解度であった。
いかに自分を理解して接するか。側にいて時に心地よく、時に目障りでない、それでいてわきまえのある賢い女を、周囲から状況に応じて選んだにすぎない。もっとも、皇后マリオンやアナスタシア、話に聞くだけではあるが避暑先のゾラの容姿を考えると、それなりの水準以上の容姿がお好みだということは、否めないのだが。
シーラはただ、環境が味方してくれないだけだった。そして順番が悪かった。もしアナスタシアの前にシーラが皇帝と出会っていたら、アナスタシアの今の領域は彼女が占めていたかもしれない。しかしその可能性も、正妻の前ではないのだ。シーラが宮殿で仕事をしている限り、順番も何も、正妻こそが最優先される立場にあるのである。
「シーラ殿」
アナスタシアは未だ泣き崩れるシーラに言った。意外な優しい声に、シーラは泣くのをしばしやめて彼女を見上げた。
「お気持ちはよくわかります。……私のような者が……言うべきことではない言葉のようですが。ですがシーラ殿。あなたは陛下と揺るぎない信頼関係を結んでおられる。男と女が、肉体を経ずにこれだけの信頼関係を結ぶのは難しいことです。どこまで行っても、やはり性別の違いというのは根本的な違いを生じるものですから。それを身体ではなく精神ただひとつで結ぶというのは並み大抵のことですませるものではありません。
精神で結ばれるというのは、とても理想的なことだ。あなたと陛下は、身体で結ばれない代わりに高雅なまでの精神的結びつきがある。羨ましいことです」
「……」
シーラは立ち上がって涙に濡れた顔でアナスタシアを見上げた。
「……本当にそう思ってくださっているのですか……?」
「……」
沈黙をもって了解をなすという軍人のやりかたを、アナスタシアはあえてした。
シーラはしばらくアナスタシアを見ていたが、やがて彼女の言葉がやっと心に沁みてきたのか、にっこりと笑って言った。
「ありがとうアナスタシア将軍……あなたのその言葉で、……またやっていけそうな気がする」
「それはなにより」
アナスタシアも呼応するように口元を歪めた。
宮廷という、皇帝のもうひとつの形なき戦いの場で、シーラは自分の居場所をやっと見つけられたようだ。廊下の向こうに去っていきながら、自分に手を振るシーラを見て、アナスタシアは、さっきの言葉は、所詮は気休めにしかならないということを、静かに思っていた。
言ったことは真実、しかし、結局男と女の行き着くところはみな同じ、結局は身体で結ばれるのが人間という輪のなかの掟、それがない場合の意外なもろさを、アナスタシアはよく知っている。しかしあれ以外なにが言えただろうか。言ったことに間違いはなく、シーラが気づいていない真実だったのなら、言うべきことであったはず。
庭の緑をみつめながら、アナスタシアはふと、自分が彼女に感じた微かな優越感、決定的に彼女と自分を分けているという優越感、あれこそが、もしかしたら自分が皇帝を愛しているという気持ちの片鱗なのかもしれないと、ちらりと思った。
4
そろそろ秋の足音が聞こえようとする頃、アナスタシアは第一個師団霞暁隊将軍のヌスパドから晩餐に招待された。ヌスパドは多分、十一人の将軍のなかでアナスタシアが一番付き合いやすいと思っている人間だった。豪快だが緻密な計算は定評がある。気を遣わなくていいし、不快でない人なつっこさがアナスタシアには快かった。
ヌスパドは結婚しているので宮殿の寄宿舎ではなく自分の屋敷に住んでいる。
「おおこれはアナスタシア殿。ようこそいらっしゃいました」
玄関口に到着したアナスタシアをヌスパドは夫人と共に笑顔で迎えた。
「パド殿。お招きにあずかりまして」
アナスタシアも自然笑顔になる。
客人として招かれたアナスタシアは、快くもてなされた。運ばれてくる食事はどれも美味で、しかも気が利いている。酒は冷たくヌスパドの話と夫人の笑顔、どれをとっても素晴らしいものだった。食後のデザートを楽しみながら談話する二人に、将軍夫人のリントナは、終始絶えることのない笑顔を浮かべて、
「では私はお茶の支度をして参ります」
と言って一旦退室した。夫人が出ていくのを見届けて、アナスタシアはヌスパドに言った。
「パド殿。素晴らしい奥方をお持ちですね」
ヌスパドもアナスタシアに妻を褒められては悪い気がしない。上機嫌で果物を食べながら、
「いやいや、アナスタシア殿に言って頂けるとは嬉しいですな。ガーミリオン殿の奥方には負けますが、私には過ぎた妻です」
アナスタシアは珍しく微笑ましい笑いを浮かべた。ヌスパドの夫人に対する愛情が、彼女にも感じられたからだ。身長が百九十センチあるヌスパドと、華奢な身体で百六十センチ程度の夫人ではかなりの体格の差があり、戦から無事帰ってくると霞暁隊の将軍は、愛する妻を肩に小鳥のように乗せて再会を喜ぶのだそうだ。
ほどなく紅茶の支度がされてきた。極上のお茶はひどく気分を軽くさせる、いい香りをしていた。夫妻は一緒にいてとても気持ちのいい夫婦だった。ヌスパドが部下の誰にもわけへだてなく接し、彼らをうまくこなすというのも、なぜかこの夫婦を見ているとわかる気がした。
すべてが楽しい晩餐だった。それからしばらく談話して、アナスタシアがセンシィオス邸を辞したのは九の刻を廻ってからであった。
「楽しい夜を過ごさせて頂きました。明日からまた寄宿舎の食事だと思うと、嫌気がさしますよ」
「はっはっはっ。またそのような。ですがアナスタシア殿。またいらしてくだされ」
「ええ。またお誘いください」
「夜道お気をつけて」
夫人にも挨拶をして、アナスタシアは屋敷の門を出た。玄関から少し歩かねばならないが、夫妻はアナスタシアが門で騎乗するまで見送ってくれていた。
いい夜だった。月はなく大粒の星が無数に輝く紺青の空。まだ城下のほうはにぎわいをみせていたが、さすがにこの辺りの住宅街は静かだ。アナスタシアの馬の蹄の音だけがカツカツと響き渡る。
向こうに宮殿の影が映えて見える。アナスタシアは白い息を吐きながら、その城の影を愛おしげに見つめた。今年は皇帝は、避暑先に行くことはできなかった。戦が長引いた上に政治での多少の混乱があったためだ。しかしこんなことは、避暑先では珍しくないだろうに。二か月の逗留予定が、ひと月にも三週間にもなる。縮むことはあっても決して長く伸びることはない。アナスタシアはまだ見ぬ避暑先の同志へと思いを馳せた。
皇后は皇帝を愛している。シーラは皇帝を愛している。ゾラはどうなのだろう。
愛しているのなら、それはかなり苛酷な状況を覚悟の上でだろう。二年ぶりに会うというのも皇帝とゾラの間では普通のことかもしれない。無論ゾラの仕事は、皇帝の相手だけでなく、館の管理や皇帝がいる間の身の回りの世話であって、夜に彼女が呼ばれるのはほ
んの一度か二度のことだろう。しかしそれにしても辛過ぎる。---------もし皇帝を愛しているのなら。
「……」
自分はどうなのだろう。皇帝に対する感情の自覚がない。愛しているのか、愛しているのならそれもよし、自分は近くにいることができる。愛していないのか、愛していないのならそれもよし、愛ゆえに苦しまなくてもよいのだ。そう、シーラのように。
アナスタシアはしばらく馬をとめて星に見入っていたが、やがてまた前を見ると、ゆっくりと馬を進めた。
アナスタシアの短い休暇であった。これからまた繰り返される戦場に行く前の、けだるいほどに甘くゆるやかな休みのひととき。
そしてアナスタシアは、将軍達と共に、また戦場を駆る。皇帝と共に。
「---------」
敵国シェファンダが東のディーエッタ領域全般を支配したという報告が帝国になされたのは、冬に入ろうという頃だった。
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