第一章 宮廷の女 2

  金鷲隊と氷竜隊の大部隊は一か月に渡ってテスニナッサの陥落に全力を注いだ。なかなか敵が落ちなかったひとつには、自然の要塞を活かした砦に立て籠もられてしまったからであった。皇帝がこの地に執着するひとつの理由は、テスニナッサは世界でも有数の竜の産地で、しかもそれを育成する人間も数多くいるからだ。世界に散らばる竜師のほとんどがテスニナッサで調教の手ほどきを受けたといってもいいほどなのだ。帝国は今まで貧弱だった竜師の育成に、やっと手を伸ばそうとしているのである。

 それは第十二個師団・雪光隊将軍のヴィウェン・シェイの進言が大きかったからだといえる。彼は数少ない竜と竜師の手ほどきを自らすすんで受け、初めて空からの攻撃で勝利を得た将軍である。他ならぬヴィウェン将軍からの進言を受け、皇帝ヴィルヘルムは熟考の末テスニナッサに狙いを定めた。無論戦を始める前にきちんと帝国に対する協力を呼び掛ける。それを拒否された場合、戦争という形で決着をつけるのだ。

 テスニナッサ会戦の間皇帝がアナスタシアを抱いた数は二度。本当にただ女を抱くだけなのだ。たまたまその衝動が現われた場所が戦場で、戦場の相手がアナスタシアだというだけだ。

 テスニナッサはその後陥落。国王は帝国に服従を誓い、こちらの要求をすべて容れた。

 一つ、竜師を帝国に派遣すること。一つ、毎年生まれる竜の三分の一を帝国に献上すること。それさえ怠らなければ、領地も奪わなければ税金もとらない。その代わりのものはもう要求したと言いすて、皇帝はテスニナッサの地を去り、処置をアナスタシアに任せて帝国へ帰還した。

「本当に要求はあれだけなので……」

 国王が怯えた瞳でアナスタシアに尋ねてきた。

「それはもちろんです。陛下は要求し、あなたはそれを容れた。陛下は要求したものが納得いくよう容れられればそれでご満足なのです。万が一要求が容れられなくてもそれは民の限界の量であったり、物質的に無理であったりするだけで、陛下は拒否する理由が正当であれば、何もおっしゃいません」

「……その年の天候や作物の具合によって竜の数は左右されますが……」

「それはこのあと派遣されてくる博士たちと相談しなさるのがよろしいでしょう。数が例年と比べて少なければ、陛下は事情を汲んで献上の数を減らしてくださるかもしれない。 とにかく、隷属ではないのです、貴国と帝国の立場は。あくまで領地のひとつと考えて下さって結構。そうなった以上は帝国は貴国が危険にさらされたときは全力をもって貴国を守ります」

 国王は半ば羨望に近い眼差しで彼女を見上げた。

「あなたは……」

「第三個師団将軍・アナスタシア・ファライエです、殿下」

 アナスタシアは口元を歪めて笑った。勝ち気で、堂々として、そして見る者には勇気を、またある者には恐怖を与える笑みだった。



 博士たちと入れ替えにアナスタシアと氷竜隊は帝国に帰還した。皇帝からの褒美は金貨三千枚と通常で、それとは別に隊の給料を金貨七千枚、銀貨一万枚。将軍には金貨二千枚が給金として与えられる。褒美は、それぞれの隊によって使い方が様々だが、だいたいその戦で活躍の多かった者を選抜して与える。残った褒美はたいてい将軍の懐に入るものと思われがちだが、彼らは金を持っていても遣わないので残った褒美はさらに細かいところで活躍した者に褒賞として与えられる。

 兵士の家族構成によって彼らに与えられる金額は違ってくるが、だいたいひとり最低金貨一枚、銀貨五枚は一回の戦で入ると思えば、なかなかの収入だといえる。これだけでは一年の生活は成り立たないが、軍隊に入っていると月に決まった金額の給料がきちんと支給される。今回の給料とは、戦争に出たという出張料のようなものなのだ。その上活躍すればさらに褒賞がもらえるというのだからおいしいものだが、帝国で軍隊に入るというのはなまなかなことではできない。他国では社会的地位が割と低めの軍人は、帝国ではエリート扱いなのだ。それでも街中で軍の人間が軍人であることをかさにきて傍若無人に振る舞うという話がまったく聞かれないのは、一つは将軍の教育と、もう一つは個人個人の自覚がものをいっているからであろうか。

 アナスタシアが幽閉されている一年の間は月に支給される給料さえ出ず、兵士たちはかなりの苦労をしただろう。後になってイヴァンに聞いたところによると、たいていの兵士たちはきちんと貯金していたので大した苦労はなかったそうだ。しかしそれは折り目折り目のための貯金、必要なときの用立てができないこともあっただろう。アナスタシアはそれらの金額の正確な統計をとらせ自分の給料のなかからすべて兵士たちに返した。また、自分の幽閉中兵士たちをぎりぎりの金額とはいえ養ってくれたヌスパドにも全額を返した。 そのときにはアナスタシアの今回の戦争で得た給金はからっぽで、今までの蓄えからも出さねばならなかったが、独り者の気楽さというのか、別に金があっても遣わないので、アナスタシアはそれに固執しなかった。

 アナスタシアは宮殿の宿舎に帰ると丸五日眠った。戦争に出ると極度の緊張状態が持続する上に、運動量もなみではないのでとても疲れる。それは、彼女のように地位が上であればあるほど、采配の数も多いゆえに、仕方のないことであった。

 軍隊の人間は、少佐以上から独身の者のみ、宮殿の宿舎に住むことになっている。将軍では、アナスタシアの他に第二個師団璃紫隊セショア、第四個師団玉紗隊カイルザート、第五個師団瑠青隊レーヴァス、第九個師団藍蓮隊ラシェルの五人と、いずれも二十代組である。

 アナスタシアは昼すぎに起きた。

 窓を開けて久々に血の匂いのしない風を胸いっぱい吸い込むと、大きく伸びをして朝食兼昼食の支度をしている馴染みの侍女に尋ねた。

「どれくらい寝ていた?」

「そうですね、五日ほど」

「ふん、短い」

 侍女は朗らかに笑った。

 アナスタシアは将軍になりたての頃、第九個師団と第十二個師団という大部隊と共に協同作戦に出て、二週間起きなかったことがある。当時ちょっとした宮殿の話題になったものだった。皇帝は珍しく豪笑してアナスタシアの名将ぶりを誉め、第九個師団ラシェルと第十二個師団ヴィウェンは若さゆえの体力と笑った。

 アナスタシアは食事を済ませ、しばらく茫洋として午後を過ごすと、気晴らしに中庭に出ようと思って部屋の外へ出た。最初はよく迷ったものだが、今では目を瞑っても行きたいところへ行ける。宮殿に四十年近く仕えているヴィウェン将軍でさえも、部屋の数は正確には知らないという膨大な部屋の数と広さを誇るアルヴェンゼ宮殿である。

 アナスタシアは中庭に出た。ここもまた恐ろしく広いが、それを狙ったとしても暗殺者の侵入はまず不可能だろう。宮殿の中庭に入るのには十重二十重の塀をかいくぐり、さらに警備の網を抜けて辿り着かなければならないからだ。

 アナスタシアは樹の下で緑に目を細めていた。しばらく戦場の赤い空、赤い大地、硝煙と血の匂いしか覚えがなかっただけに、まぶしいばかりの緑、新緑の香りは今の彼女にとって最高の贅沢といってよかった。その日光浴も堪能して、さてそろそろ部屋に帰ろうとアナスタシアが渡り廊下に出た時である。

「アナスタシア将軍」

 誰か、彼女を呼び止める者がいた。声は澄んでいて、容易に声の主が女であることを悟らせた。振り向くと、そこにいたのは皇后・マリオン・アルゼオンであった。

「……皇后陛下……」

 アナスタシアはひざまづいた。女性に対する礼として、こういう時男なら手にくちづけとか、あるいはもっと相手に対する尊敬を表して服の裾にそっとくちづけするのが通例だが、あいにく同性であるがゆえにアナスタシアには馬鹿馬鹿しすぎてできなかった。もっとも、もし自分が男だったら、間違いなくそのどちらかの礼をとってしまう、皇后はそんな女性だった。

「……」

「五日前ご帰還だとか……大層なご活躍でしたそうですね」

「いえ……」

 アナスタシアは言葉少ない。元来無口な女である。

「こんなところではなんですから、少しお話しません? なかなかこういう機会はありませんものね」

 マリオンは先に立って歩いた。案内されたところは皇后の私室だった。そこでアナスタシアは紅茶と焼きたての卵菓子でもてなされた。こんなことは軍隊に入って以来なので、なぜか緊張する己れをアナスタシアは持て余していた。侍女をすべて下がらせ、皇后はにこやかな笑顔を絶やさないまま問うた。

「紅茶のお味はいかが?」

「……結構です」

 なぜ急に皇后が自分を招いたのかがよくわからず、アナスタシアは茶器を片付けている皇后の横顔を見ながら考えていた。

 皇后マリオンは夫の皇帝と六つ離れた二十七歳。輝くばかりの金の髪は「光の翼」の異名もうなづかせる。噂では闇の中でもにぶく光るそうだ。瞳は瑞々しい青をしている。アナスタシアの見る限りでは、理想的な青色をしていると、そう思っている。こんな女性を妻にして、よく自分を例え戦場ででも抱く気になったものだと、アナスタシアはちらりと思った。避暑先の女主人ゾラもそうだ。顔は知らないがかなりの美女だとか。

「将軍」

「は、はい」

 皇后に見とれていたアナスタシアは慌てて返事をした。まさかいきなり呼ばれるとは思いもよらなかっただろう。

「突然で困惑なさるでしょうが……」

 戸惑いがちに皇后は言った。

「あなたと陛下の関係は、存じています」

「---------」

 アナスタシアは何も言わなかった。言えば言い訳になると思ったし、自分は悪くないとも、自分が誘ったと嘘をつくことも、彼女にはできなかった。

「あ、違うのです。責めているわけではないのです。陛下のことはよくわかっているつもりですから……あの、でも、こうしてあなたとは側でお話できる距離にいるのですから、せめて誤解らしい誤解は解いておこうと思って……」

「---------誤解……」

「その言い方にも語弊があります。

 でもあなたのことです。陛下と関係を持つようになって、少なからず私に対しての引け目を感じているというのなら、それは誤解と呼んでもいいかもしれません」

「---------」

 確かにそうだった。皇帝に抱かれその皇帝が后と玉座を並べている間、知らぬ顔をして側に控えている。アナスタシアはそんなことを平然とやって何も感じないほど厚顔無恥ではなかった。しかもこんな同性ですら見とれる美しい女性。教養深く、国民の誰にでも愛されている女性を、一時的なものにせよ結果的にはさしおいてしまっていることになるのだから、玉座の間ではまともに后の顔を見ることができなかった。幸い将軍が后と接点を持つのはその時くらいのものだから、それ以上の気遣いはいらなかったが、それにしても皇帝に抱かれた戦場から宮殿に帰ってくる時のアナスタシアの、何とも言えない気の重さは、とうてい筆舌できるものではなかっただろう。

「将軍。私はあなたを恨んだり、怒りを感じたり、憎らしいと思ったことはありません。

 どころか、あなたであったことを---------陛下がお選びになったのがあなたであったことを---------后として誇りに思います」

「---------陛下……?」

「おかしいでしょうね。でも陛下が戦場に赴かれる時間は一年の内でもかなりを占めています。戦だけでなく政もなされているほどの方ですから、かなりのエネルギーが陛下の身体にあるということはわかります。そんな生活のなかを、私一人では、とても凌げるものではありません。私が戦場に共に行くというのなら別です。ですが、行っても足手纏いになるだけ。避暑先はあの方がすべてを忘れて心身休める場所。ついていく必要もないのです」

「---------」

「あなたが陛下を受け入れた理由はよくわかります。同じ女ですもの。一度あの腕に抱かれると、まるで女に生まれてきた意味は、あの方に抱かれるためにあったのかと思ってしまうでしょう?」

「……」

「悔しいとか……憎らしいとか……ちっともそんな気持ちがないのです。それもあの方のなせる仕業でしょうか。多分理由の一つは、あなたが戦場だけの女だということかもしれません」

「! ---------」

 このひとも気付いていた---------アナスタシアは少なからず戦慄した。皇后がそこま

でわかっているとは思わなかった。

「---------」

 しかし今こうして思うと、皇后は自分よりはるかに一日のなかで皇帝と一緒にいる時間が長いのだ。そして成婚してからそれが続いている。彼女ほどの者なら、気付かないはずはない。

「私がないがしろにされていないからそんな感情も生まれないのでしょう。どれだけ貴族の娘たちが奉公に上がったり女官たちが秋風送っても、陛下は見向きもしません。宮殿のなかでは、ガーミリオン将軍も顔負けの愛妻家でしょう」

「そう思います」

 皇后はにこりと笑って続けた。

「でも私は戦場にはお供できない。女の行ける場所ではないのかもしれません。そんな戦場で、女を越えて陛下のお供ができ、すべてが陛下の満足する水準のあなたが陛下のお相手をしているというのなら、私はなんの不満もありません」

「……皇后陛下……」

「おかしな話でしょう? 普通は嫉妬するものですもの。最初は嫉妬しない自分がおかしくなったのだと思いました。でも……結局、あれほどの方を、私ひとりで独占するなんて無理なのです」

「……」

「私ひとりでは、とうてい制御できないのですわ、あの方のすべてのエネルギー。私はあの方の宮殿でのエネルギーを抑える役。でも宮殿に籠もっていては、戦場ではその役は果たせません。避暑先も同じです。所詮、私のように普通の女があの方を独り占めなんてできるわけがないのです。なぜか? 自分でも迷いました。結局は先程言った通り、私ひとりでは抑えきれないのです。宮殿以外の場所で自分では抑えられない方を、戦場で抑えているひとに、どうして嫉妬できましょう? あなただって同じはず」

「……そんな私は……嫉妬だなんて……ただ……---------ただお側にいられれば……でも……」

「---------でも?」

 アナスタシアは迷った。ここまで、こんなことまで言っていいものかどうか、彼女にもわからなかった。しかし今后の言ったことはみな事実。あそこまで言ってくれたのだ。「では陛下を愛しているか、自問してみると……いつも答えは出ないのです。尊敬申し

上げているのは確かです。でも愛して……愛しているかと思うと……そもそも愛しているとはどんなものなのか、よく……わからないので……」

 そして氷姫と呼ばれた将軍は顔を上げた。その顔には珍しく照れたような、軍の人間には想像もできないようなアナスタシアの表情があった。

「でも、陛下の皇帝陛下を想う気持ちは、本当だと思います」

 言って、アナスタシアは少々慌てた。

「も、申し訳ありません……失礼なことを……」

 自分の感情すらよくわかっていない女に、こんなことを言われた后はさぞ不快だと思った。今日のアナスタシアは珍しい感情ばかりが込み上げてくる。しかしそのアナスタシアの白い手をとって、皇后マリオンは言った。

「いいえ……あなたにそう言われるのは……誰に言われるよりも嬉しい。将軍、私たちは同志です。同じ方から違う場所で愛を受ける同志です。それでいいではありませんか、所詮は、あの方の愛を独り占めなどできないのです。違う場所で、相手の領域を侵さないのなら、お互い憎み合う必要もないのです。あれほどの方の寵愛を頂ける、唯一という枠の中にいるのです、私たちは」

 言うと后はにっこりと笑った。アナスタシアでさえ息の詰まった瞬間であった。


                    3


「いちばんお可哀相なのはゾラ殿です。こんな言い方は、彼女を見下しているように聞こえてしまいますが……」

 新しい紅茶を淹れながら皇后マリオンは言った。

「……」

「なにしろ陛下の避暑というのは長い時もあれば短い時もある。短い時の方がむしろ多い方で……一年の中でひと月か、ひと月と少しだけしか一緒ではない。しかも陛下がお望みになるのは、毎晩ではないはずですから……」

 言ってから后は、会話がかなり際どいところまで来ていることに気付いて、慌ててそれを打ち消すように言った。

「あ……ら……嫌だわ。こんなことを将軍に言ってしまうなんて」

「いいえ陛下。恐れながら、同志ならばこそ」

 アナスタシアはくすりと笑いながら言う。この女が笑うとは、珍しいことだと言わねばなるまい。

 しかし皇后の言うことも確かだった。自分の領域になったとはいえ、皇帝ヴィルヘルムが毎晩抱いてくれるというわけではない。無論それだけを目当てにしてるわけではない、同じ空間、その空間にいると、どうしようもない尊敬と喜びが湧いてくるのは、同僚の将軍たちも侍女たちも同じことなのだ。

 現にアナスタシアがテスニナッサで皇帝の相手をしたのは、あの長い期間三度だけ。それを思えば、心身の休養に来ている皇帝が「はけ口」を頻繁に求めるとも思えなかった。 しかし勘繰りもそこまで、それ以上はそれぞれの神聖な領域を侵すことになる。

「陛下は、お忙しい時や思い詰めて考え事をなさる時は、ほとんど寝室でお休みになりません」

 后は寂しそうに言った。

「自室のベッドでお休みになります。そんなとき、私は広いベットのなかで一人です。抱いてほしいというのではない、ただ側に呼吸が、体温がないだけで、なんとなく不安になるのです」

 言ってから彼女はハッとした顔になった。

「ごめんなさい。こんなことは言うべきことではないですわね」

「いいえ」

 アナスタシアは珍しく正面から言い切った。

「---------」

「そのくらいの不平は口に出しておっしゃるべきです。私でよければいつでも聞いて差し上げます。皇后陛下。あなたは私やゾラ殿のようなその場限りのなぐさみ者ではありません。正妻、皇后なのです。堂々と妻としての不安や不平を口に出すくらいの権利はあって当然です。お相手がお相手ですからそれを陛下にぶつけることはではきないにしても、こぼすくらいの事はして当然です」

 言うとアナスタシアも、后の言葉に同意するように、その言葉で何を思い出したのか、口元を微かに歪めて、紅茶の湯気を顎に当てた。

「私の時もそうです。気が付くと、もう陛下の頭は明日の戦のことでいっぱいなのです」 后はまあ、と目を見開くと、それからさもおかしそうに笑いだした。朗らかで明るい笑い声だった。アナスタシアも笑った。彼女は低く声に出した程度だったが、彼女がこれだけ声に出して笑うというのも、珍しいことだと言わねばならないだろう。

 それからアナスタシアは静かに皇后の部屋を辞した。

 彼女にとってこの日は、なにより有意義な一日だっただろう。




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