第一章 宮廷の女 1
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氷竜隊は皇帝の軍隊と共にテスニナッサの陥落に全力を注いだ。皇帝の軍隊は金鷲隊と言われていて、他の十二個師団より騎馬隊が五百人多い五千五百人。にぶい金色の鎧を纏っているが闇夜に目立たないのはさすがといっていい。指揮は皇帝の三人の側近が行い将軍とほぼ同じ役割をつとめている。皇帝自身は普通の鎧を他の将軍と同じように纏い、マントは蒼闇色。噂では冬の真夜中から一晩中魔導師と共に暁を待ち、金の星が沈むか沈まないかという頃、太陽が顔を見せるほんの一瞬前を狙ってその色を封じこめたのだとか。「将軍、敵魔導部隊右より攻めてきました」
「騎馬隊正面より向かって来ます!」
アナスタシアは大忙しだった。
「魔導部隊の構成を」
「はっ。火炎二人、雷撃三人。護衛でしょうか、重装兵が一人」
「スィノ! 氷槍魔導師全員をつれて迎撃せよ! 風裂から一人連れていけ。正面騎馬隊の正確な数を!」
「七百! 弓兵はおりません!」
「将軍! 騎馬隊、近付いております!」
アナスタシアはギリ、と唇を噛んだ。大佐のなかで一番腕のたつホーランドは先程出陣したばかりだ。愛用の剣をひっつかんで、アナスタシアは立ち上がった。
「私が出る! イヴァン! ついて参れ!」
「はっ!」
「ファシェとファニルは全員引きつれてついてこい!」
雷撃と火炎の魔導師に叫ぶと、アナスタシアは乱暴に馬に乗った。側にいる騎馬隊は手元にいるだけでは五百。後は出陣してしまった。
そんな将軍を見て味方の兵士たちは震えあがった。しかしそれは恐怖から来るものでは決してなかった。それは武者震いだった。この女が味方で本当によかった、助かったと、そう思ってくる安堵の震えなのだ。そしてこんな言葉を思い出す。
「来い! なんとしてでもここを落とす!」
血染めの氷姫---------アナスタシアにふさわしい呼び名であった。
(……)
アナスタシアはその夜報告のため皇帝のテントへと向かった。テントの周囲から少し離れたところには警備の兵士がちらりほらりと見られたが、もしそれらの警備をかいくぐって皇帝のテントに忍びこむ者がいても、十中八九返り討ちにあうだろう。皇帝ヴィルヘルムの世界に鳴り響く勇名はその魅力の強烈さや指導力だけでなく、その剣技の素晴らしさと恐ろしさも手伝ってのことだ。
テントの入り口には兵士が二人詰めていて、アナスタシアの姿をみとめると敬礼のかたちをとったが、アナスタシアが近寄りぎわ手を払うと、一礼してどこかへ消えていった。
「陛下。報告に参りました」
「入れ」
短く答えられ、アナスタシアはテントの中に入った。皇帝のテントはさすがに豪華で、入って中央に丸テーブル、奥には簡易のものながらもベッドが置かれていた。皇帝はテーブルに座って一人酒を飲みながら地図を睨んでいた。皇帝ヴィルヘルムはアナスタシアが側に寄ると顔を上げて彼女を見、地図を指で叩いて、
「どう思う」
と聞いた。アナスタシアは彼を見てから地図に目をやった。
上流に水門のある戦場だった。確かこの水門は今は壊れて水を放流せず、敵は川が干上がった場所で戦っているはずだ。
「……」
「それからこっちだ。斥候兵の話によるとこういう形で兵士全員が集まっているとか」
言うと皇帝は持っていた鵞ペンをくるりと楕円形に描いて示した。
「これをどう思う」
「鶴翼の陣……ですか……随分と古風ですね」
「それはやろうと思えば破れる。どちらかの翼を狙って正面から全速力で走り抜ければ、おのずと形が乱れ隙が生じるはずだ」
「その通りです」
「しかしこちらは……」
皇帝は水門のある場所を叩いてため息をついた。敵は崖を背に戦っている。戦っている場所自体が河の干上がった部分がほとんどで、攻めるこちらは吊り橋一本を渡っていくしか方法がない。そうすると橋を渡る姿が丸見えですぐに迎撃されてしまう。敵は魔導師を手一杯に使ってくるので防御もままならないと聞いた。
「……水門はまだ水を?」
「そうだ。もとは水が豊富で有名な土地だからな」
「---------では私の隊の魔導師が水門を壊してはいかがでしょう」
「水門を?」
「はい。雷撃の魔導師が五人おります。水門を破壊するには充分な数だと思われます。留意点は、橋を渡って前に行きすぎて迎撃されないことでしょうか。敵の三分の一がこの小さな孤島のようなところに集中しています。魔道部隊さえいなければ大した数ではないと思います。いかがでしょう」
「ふむ……」
皇帝はしばらく考えていたが、やがて、
「勝算は」
「あります」
アナスタシアの答えが気に入ったのか、皇帝は珍しく口元を歪めて愉快そうに言った。「いいだろう。明日の軍議でもう一度それを提案してくれ。しかし防御能力に乏しい魔導師だけでは攻撃される恐れがあるだろう。護衛をやる」
「ありがとうございます」
丸テーブルの上の三本の蝋燭がフッと揺らめいた。皇帝とアナスタシアは少しの間黙っていたが、やがて皇帝の方から、
「一年の幽閉生活はどうであった」
と尋ねた。
「恐れながら、ゆったりと暮らさせていただきました。毎日読書に時を過ごして……あんなに一日が長いのは生まれて初めてでした」
皇帝はさもおかしそうに喉の奥でふふと笑った。それから立ち上がりテントの天辺を見上げて煙出しの穴から星をしばらく見ると、アナスタシアを見据えて低く言った。
「来い」
「……」
アナスタシアは無表情に、しかし瞳に微かに透明なものを映して皇帝の側まで歩み寄ると、ゆっくりと彼を見上げた。皇帝は彼女の肩に手をかけ、そこで服の紐をほどいて、するりとそれが下に落ちると、そのままアナスタシアの腰に乱暴に手をまわしてベッドまで連れていった。
事が終わると、氷姫と呼ばれた将軍は余韻も楽しまぬまま静かに起き上がって服を纏った。白い肌はなまめかしく微かに染まり、向こうが見えてしまいそうな錯覚を起こすほど尚白い。皇帝は横になったまま、遠い目で考え事をしている。明日の戦のことを考えているのだ。自分のことなどは、身体が離れた瞬間から忘れてしまっている。アナスタシアはすっかりそんなことにも慣れていたので、無言で、皇帝には見えないようにして眉を寄せ、服を着てそのまま自分のテントへと帰った。
星が群青の空のなか銀に瞬いていた。
アナスタシアが皇帝と今のような関係になったのは今から三年前、アナスタシアが二十歳で、将軍になって一年経とうという頃のことだった。当時皇帝ヴィルヘルムは三十歳、アナスタシアの氷竜隊とヌスパドの霞暁隊と共に戦場にいた時である。第一個師団将軍ヌスパドが一足早く報告を終え、アナスタシアは一人で皇帝のテントに向かった。報告の間中彼は黙って彼女の言葉を聞いていたが、地図を見せ今日のように作戦についての意見をアナスタシアに求めたとき、ふとしたことで二人の手が触れ合った。アナスタシアは慌てて手を引っ込めようとしたが、逆にその手を掴まれた。強くもなく強引でもなく、だから恐ろしさも感じなかった。手を掴まれた瞬間、ある程度のことは予想していながらも、アナスタシアは皇帝に手を離してくれるよう頼まなかった。皇帝は言った。
「嫌ならそう言え。俺は嫌がる女は抱かん」
「……」
アナスタシアはその瞬間思った。
自分は、軍人としての一生を終える覚悟を決めて生きてきた。女として生きる一生など、十の時に軍隊に入って捨てた。しかし、こうして皇帝に望まれ、アナスタシアは可能性を見た。この男は、唯一自分を軍人にも、女にもしてくれる。そしてどちらも選ばず、どちらも捨てずにすまさせてくれる。
老若や男女の如何を問わず人を魅了する皇帝ヴィルヘルム。
自分は皇帝に強く魅了されている。こんなに魅力のある男はもういないし、これからもいないだろう。座っているだけでどんな人間も強烈に惹かれてしまうのだ。
たとえなぐさみ者でも、こんな男に望まれるというのは、女としては嬉しいことなのかもしれない。皇帝に望まれて光栄だと思うほどアナスタシアは不粋ではなかった。皇帝なら誰でもいいというわけではなかった。
しかし純粋に思った、この男になら、抱かれてもいいと。そこでアナスタシアは小さく言った。少しは怯えていたのかもしれない。
「……いいえ……」
アナスタシアが呟くように言うと皇帝は淡々と彼女の唇を奪い、ひょいと抱き上げて褥へ連れていき彼女を抱いた。
そうして彼はアナスタシアの処女を奪った。
アナスタシアは、これほどの男はいないと思っている。これだけ強烈な魅力を持つ男はもういないと、そう思っている。強い尊敬を抱いているし、とにかく彼は素晴らしく人を魅了する。決して優しいわけではないし、厳しいところの方が多いけれど、しかし何か強く惹かれる。筆舌しがたい強いカリスマの持ち主なのだ。そんな男に将軍として仕えられるのが幸せだった。そして、こうして彼に抱かれて戦場を過ごす今、女としての幸せや喜びは、彼のためにあるのだとすら考える。皇帝に抱かれるために女に生まれてきた気がする。そうまで思わせるちからが彼にはあるのだ。そして彼自身、それに気付いていない。 その証拠に、皇帝が今の皇后と成婚した時には、帝国で多くの娘たちが自殺したものだった。皇帝は、それが自分に起因するものだということは知らない。
そしてアナスタシアが気付いたことがひとつある。
皇帝が自分を抱くのは戦場でのみということだ。帝国に帰って宮殿で生活している時は、アナスタシアはほとんど彼に顔を合わせることがない。政治のことは関与できないし、食事は無論一人、一日で皇帝と将軍が顔を合わせるのは、玉座の間での一時くらいなもので、一日中の時もあれば数時間のときもある。
共通していることは、ほとんど口をきかないことくらいだろうか。挨拶をする程度なのである。
アナスタシアは自分が戦場での束の間のなぐさみ者しかないことをよくわかっていた。 ごく自然に皇帝に欲求が生まれたとき、たまたまそこが戦場のときのみの相手というこ
とも。自分が、「はけ口」だということも。
睦み言も寝物語もない一時の夜は、アナスタシアにとっては来るべき儀式のようなものだった。皇帝を愛しているのだろうか、自問する時もたまにはあるが、答えを出せた試しはない。
だが安心したのは、自分が「戦場の女」だということだった。
つまり自分を抱くのは戦場でだけのことで、宮殿に戻れば皇帝が「宮殿の妻」皇后だけを見ているのが妙なことだが嬉しかった。世間では自分のことを現地妻と呼ぶそうだが、屈辱には思わなかった。
月を経て、皇帝には「現地妻」が三人いることがわかった。一人は自分。戦場での欲求の相手だ。もう一人は避暑先の館の女主人ゾラ。そして最後が正式なる皇帝の妻皇后マリオンであった。皇帝は、自分の欲求にも気持ちにも正直な男だった。
とにかく宮殿で彼にとっての「女」は皇后ひとりなのだ。だからといって戦場で、皇后がいるからというつまらない禁欲で自分を縛ったりしない。
彼のいいところは、宮殿で皇后以外の者を「女」として扱わないことだろうか。彼にとって「女」は、決して一所に二人いないのだ。それは三人の女たちにとっても、少なくとも皇帝と自分の領域が保て、他に侵略されないという安心感があったに違いない。自分が女となるときは、何にも遠慮せずにいられる。だからこそ領域以外での皇帝との口もきけないような境遇に耐えられるのではないだろうか。
とにかくそんな皇帝であったので、アナスタシアは別段彼を軽蔑したりはしなかった。 彼はルールを知っている。宮殿で皇后以外の女を女と扱えば皇后の誇りも立場もずたずたになる。それに皇后がなにより気の毒だ。
彼は一年の五分の二を宮殿で、五分の二を戦場で、そして残る五分の一を避暑地で過ごしている。それぞれの居場所でそれぞれの女を愛し、そうして苛烈な生活を乗り越えていっているのだ。アナスタシアは自分が愛されているとは思っていない。ベットの中でもどこでも、彼の自分に対する態度や自分を見る目は、部下の将軍に接するもの以外のなにものでもない。それでいいのだ。館の女主人ゾラや皇后に対してはどうだか知らないが、アナスタシアは自分はこれでいいと思っている。
初めて抱かれてから最初の内は、アナスタシアはよく静かに起き上がって涙を一筋流したものだった。自分では、起き上がっているから皇帝には見えないし、涙も一筋だけだったのでとうていわからないと思っていたというのに、皇帝が起き上がってきて、
「辛かったか」
とそのたびごと聞かれるのには、本当に参った。慌てて否定してテントを出る以外には、アナスタシアにはできなかった。
おかしな矛盾だった。そしてアナスタシアはそれに気付いていた。だが自分の腕を掴んだ時に言った言葉は、皇帝だからといって部下になんでも強要し嫌と言わせない権利を振り回すものではなかった。あれがなにを置いても夜伽の「命令」であったら、アナスタシアはここまで彼を尊敬し魅了されることはなかっただろう。
部下たちや同僚の将軍たちは薄々気が付いているようだが、なにも言わない。
とにかくアナスタシアは、今の立場に不満はなかった。
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