第一章 宮廷の女

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 その日の帝国は晴れわたっていた。風は気持ちよく草原をひらめかせる。街は明るくにぎやかで、今日もまた帝国の一日が始まろうとしていた。

 宮殿はいつも通りの荘厳さを保って帝国の最奥部にあった。新米の侍女が迷うのは一度や二度ではないという広さ、構造の複雑さは他国でも有名だ。そんな宮殿の石畳の廊下を、女はカツカツという音をさせて歩いていた。

「アナスタシア殿」

 後ろから呼び止められ、その声の主を知ってアナスタシアは微かに笑んで振り向いた。

「パド殿。お久しぶり」

 第一個師団霞暁隊将軍のヌスパドだった。霞暁隊象徴の色である赤、将軍は緋色のマントを羽織っている。

「一年ぶりですな。幽閉が解かれたのか?」

「ええ、今日付けで。パド殿」

 アナスタシアは珍しく微笑んだ。豪快で率直なヌスパドはアナスタシアが心を許せる数少ない人間のひとりだ。

「私の幽閉中、隊の者の世話はパド殿がして下さったとか……ありがとうございます」

「いやいや。他ならぬアナスタシア殿の隊。放っておくわけにもいきませんしなあ」

「いくら将軍とはいえ五千人の人間を余計に食べさせるのはさぞかしご苦労でしたでしょう。後で部下に統計をとらせ、お借りした分は必ずお返しいたします」

「いやいや、いつでも構いませぬ。こちらから進んでしたことゆえ。ところでアナスタシア殿。陛下は……」

「私の幽閉を解いた後すぐに発たれました」

「ではやはり……」

「すぐに命令が下るでしょう。瑠青隊のレーヴァ殿は先に前線に行っておられるとか」

 アナスタシアがそう言った時、後方から伝令の格好をした兵士が駆け寄ってきた。

「アナスタシア将軍!」

 アナスタシアは振り向いた。

「ただ今皇帝陛下からのご命令が下りましてございます!」

「――して?」

「はっ。イティマ会戦。場所は西、五百キロほど行ったイティマヒエルです」

「わかった。すまないが先に行って大将にこの旨伝えてくれ。パド殿、それではこれで」 

 アナスタシアは一礼すると伝令の兵士と共に廊下の向こうに消えた。それを見て将軍ヌスパドは、腕を組んでこんなことを呟いていた。

「やれやれ……一年の幽閉の後すぐに戦か。アナスタシア殿も大変だ。しかしイティマとは……レーヴァ殿はだいぶ苦戦しているらしい」

 ヌスパドは司令部の方へ歩いていった。

 自分には、別の戦場へ赴くようにとの司令が皇帝より伝えられているはずだ。



 氷竜隊の司令室に行くと既に部下と側近がアナスタシアを待っていた。

「おお閣下……!」

「将軍のお戻りだ!」

 たちまち声が歓声にかわる。アナスタシアは冷静に椅子に座った。

「イヴァン、詳しい報告を」

「はっ」

 氷竜隊大将イヴァン・シェタリンが進み出てアナスタシアに報告を始めた。

「戦闘は二か月前より始まっています。指揮は瑠青隊レーヴァス将軍閣下。さきほど皇帝陛下がお出向きになられましたが、それは近くのテスニナッサの陥落のためかと思われます」

「敵の人数は?」

「戦闘当時は七千あったそうですが、最初の戦闘で六千、さらに三日後に五千まで減り、今は三千とちょっと。ですが将軍、少々問題が」

「なんだ」

「レーヴァ将軍がイティマをおとせないのは敵が籠城を続けているからです」

「籠城……?」

 アナスタシアは椅子の背にもたれながら低く呟いた。

「はい。半年分の食料と水、大砲などがあり、弾薬も豊富なようです」

「ふん。……やっと納得がいったわ。レーヴァ殿をそこまで手こずらせるからどんな手を使ったと思えば」

 アナスタシアはしばらく考えていた。こんな時、策士の顔にはいろいろな計算が凄まじい速さで流れ込んでいる。部下たちはそんな彼女の顔を、息を飲んで見守るのだ。

「……」

 アナスタシアはしきりに爪を噛んでいたが、やがて、

「よし」

 立ち上がって大将イヴァンに言った。

「ただちに出発だ。隊の者の支度はできておるか」

「はっ。いつでも出立できるようみな待っております」

 アナスタシアは艶然と、そして満足気に微笑んだ。その笑みを見て大佐の何人かがどきりと胸を踊らせた。

「さすが私の部下だ。そうでなくてはな」

「恐れ入ります」

「閣下……作戦の方はいかが致します」

「籠城ならば向こうの様子を見たほうが早いわ。ついてまいれ」

 アナスタシアは氷竜隊の軍控え室に向かった。ここは出発を控えた氷竜隊の者が集まる場所で、隊の色である水色と白の鎧を纏い、彼らは将軍の到着を待っていた。

 アナスタシアが姿を見せると彼らは歓声を上げて彼女を迎えた。将軍の姿を見るのは一年ぶりだ。

「皆の者……!」

 アナスタシアは演台に立つと隊の者に叫んだ。

「我々はこれからイティマへ出立する。二か月前から続いている瑠青隊の援護をするためだ。あくまで援護であることを覚えておいてもらう。尚途中で皇帝陛下との合流も考えられるため細心の注意を払って行軍してもらいたい。準備整い次第氷竜隊。出立する!」

 ワァアアア……!

 誰もが将軍の復活に手を叩き声を上げて喜んだ。彼女と共にする戦場は彼らにとってなによりの誇りでもあった。アナスタシアは最後に彼らにこう言った。

「最後に。一年の間、皆の者よく我慢してくれた。さぞかし辛い日々であったと思う。将軍アナスタシア、それだけは心から皆の者に詫びる」

 それから将軍は出立を再び告げた。

 興奮の坩堝の氷竜隊の行動は実に迅速だった。アナスタシアは自分も鎧を纏い、剣を携え、アイスブルーのマントを羽織ると、用意された馬に乗って先頭に立った。

「出立!」

 白と水色の鎧を纏った兵士が大移動する様は帝国を騒がせた。街のなかを行軍する間彼らは歓声と励ましの声で送られていった。

 いつの日も軍はそうやって支えられていた。



 三日後にイティマ付近まで辿りついた。

 アナスタシアは前線のレーヴァ将軍へ報せるため、斥候兵を送った。その間アナスタシアは部下と詳しい打ち合せに入った。

 ここで、帝国の軍の仕組みというものを少し説明しておこう。

 まずトップに立つのが将軍。その下には大将というのがあってこれは一人に限られる。 その下に大佐があってこれは五人まで。中将・少将・准将は混乱を避けるために皇帝所有の隊以外では用いられていない。将軍はたいていこの六人を中心に軍議を開く。将軍は隊の兵士の給料を自分の給料とを一緒に皇帝から下賜というかたちで受け取り、自分の定められた給料から差し引いたものを隊に支給する。つまり将軍がきちんと宮殿と戦場で機能していて初めて隊の者は食べていけるのだ。アナスタシアが幽閉されていた間、氷竜隊は一年の間無給だったということになる。軍隊に入れば、とりあえずは食うに困らないという概念のもとに兵士の質の低下を避けた、皇帝ヴィルヘルムの知恵である。帝国軍が無敵といわれる所以であった。

 しかしこのような支給の仕方は、いつもそれなりの金貨や食糧が入らねばできないので、この方法は帝国だけにしかできない独自のものといえる。そして、隊ごとに魔導師がいて、火炎、氷槍、雷撃、風裂と別れており、これは指揮する将軍の好みで数が大幅に違う。この隊は火炎の魔導師が多いとか、あちらの隊は雷撃の魔導師が多いとか、将軍の采配で決められるのだ。アナスタシアは魔導師たちの頭格も六人の部下にまじえて軍議に参加させる。

「前線の情報は?」

「わからずじまいです。しかし瑠青隊、かなり苦戦している模様」

「食糧の具合は」

「底をついているそうです」

「――では氷竜隊が補給代わりとなって持ってきた食糧その他をすぐに運んで差

し上げろ。二千やる。フルンゼ、行け」

「はっ!」

 フルンゼ大佐がすぐに命を受け立ち上がった。

「補給はこれでいいとして……斥候が戻らなくては話にならんな。氷竜隊、ここで一休みだ。それからイヴァン、フルンゼに戦闘に参加せず見守るだけにしろと伝えおけ」

「かしこまりました」

 闇がまた少し動いたようだ。アナスタシアは慌ただしさから一時解放されてため息をついた。それから彼女は将軍のテントへと戻りベッドに入って少し休んだ。

 将軍アナスタシア。

 濃い藍色の瞳と軽くウェーブした黒い髪。彼女の瞳を見た者は、一度は必ずこの女が見ているものは赤いものすら藍色に見えているのではないかと、ちらりと思う。ぬけるように白い肌は彼女の年齢を嫌でも思い出させる。

 しかしその剣の腕と策士ぶりは遠くシスティニアリアにまで轟いているそうだ。雪山を血で真っ赤にしたという逸話は伝説にまでなっている。

 アナスタシアは翌朝目を覚ますと顔を洗って簡単に食事を済ませた。イヴァンがやってきたのはそんな時だった。

「お前か。どうした」

「お食事中でしたか」

「いや、もう終わった。斥候が帰ってきたのか」

「は……報告によりますとレーヴァ将軍は出陣中でご不在、フルンゼは無事補給を終えたようです。ですが斥候の目から見ても、瑠青隊はかなり苦戦しているかと」

「敵はそんなに強いのか」

「詳しいことは書かれておりませんが、かなり思い切ったやり方をしているとか」

 アナスタシアは舌打ちした。

「能無しが」

「叱っておきます」

 イヴァンはいつも冷静だ。アナスタシアはイヴァンの無表情な顔を見てふふと笑った。

「そういえば幽閉中はお前に世話になった。毎日やって来ては色々と詳しい情報を持ってきてくれて、おかげで一年の流れに乗り遅れずにすんだ」

「恐れ入ります」

「イヴァン。とにかく現地まで行く。一時間以内に出立の支度をさせろ。鳩を送りフルンゼにそのまま待機するよう言え」

「かしこまりました」

 アナスタシアはいつも敏速に行動する。その表に出る感情の少なさ、時に言葉や行動に出る冷徹さは彼女を氷姫と呼ぶのに充分納得させるものがある。色がまるで透けているように白くて表情がほとんど変わらないこともあるのかもしれないが、この素早さと攻撃力の高さは、「氷の竜」、アナスタシアのことである。皇帝ヴィルヘルムは十二個の隊の名をつけるにあたって、第三個師団アナスタシアの隊はこれ以外にはないと思ったのであろうか。

 第三個師団の移動は速やかに行なわれようとしていた。



 イティマヒエル――。

 籠城を続けているイティマの兵士たちは強気だった。大砲は新しい、弾薬は豊富で、食糧はまだまだある。いかな帝国軍といえど滅多なことでは落とせまい。誰もがそんなことを考えていた。現にもう二か月、帝国はまだイティマを落とせない。砦から望遠鏡で辺りを偵察していた淮佐が、地平線の彼方から土煙をあげてやってくる何かを見て、そしてそれの正体を掴んで、顔を青くして将軍を大声で呼んだ。幸い将軍はすぐそばで帝国の瑠青隊の動きを観察していたので、その声は将軍の耳に入ることができた。

「何かみつけたか」

「て……帝国軍です」

「ほう……増援か。皇帝はよほどこの土地に執心していると見える。それでそこからはなにが見える? どの隊かわかるか」

 しかし淮佐は硬直したまま望遠鏡から目を離さなかった。彼はまだ若かったので、将軍はそれを増援の恐怖からきたものだと思い、弱く笑って問いかけた。

「鎧は何色かね」

 しかし淮佐の恐怖は若さから来るものではなかった。

「み……水色と白……氷竜隊です!」

「何……!」

 それは確かに、帝国に対する真の恐怖のようでもあった。



 瑠青隊と合流した氷竜隊は、まず自分たちのキャンプの支度と、将軍のテントを張ると速やかに食事の支度を始めた。その間将軍アナスタシアは第五個師団将軍・レーヴァス・ダンドルに面会し打ち合せを行なった。帝国の将軍は老若が入り交じっていて、上は六十の雪光隊から下は二十三の氷竜隊まで、実に幅がある。年齢ではなく実力で将軍をかっている皇帝の気質がよくわかる。瑠青隊のレーヴァス将軍は二十五歳と帝国軍のなかでも二番目に若いが、今まであげた功績はきりがなく、皇帝も彼に対する信頼は厚い。淡い金髪が印象的な好青年で、貴族の出身だが謙虚で礼儀正しい男だ。しかし彼の場合、正攻法は得意だが、じりじりと攻めてはまた待ち、敵の戦力を削っていくというやり方は合わないようだ。が、当初七千の部隊を三千にまで減らしたという事実は、やはり彼の腕が並みのものではないということを嫌というほど知らしめている。

 アナスタシアは彼が嫌いでもなければ好きでもなかったが、歳が近いせいかレーヴァとは話しやすかった。なにより礼儀正しくて、女だからと軽んじる態度がないので不愉快ではない。アナスタシアが同僚の将軍で嫌いな人間といえば第四個師団のカイルザートくらいなものだ。

「アナスタシア殿。お久しぶりです。少し痩せられたか」

「ふふ……一年間、本ばかり読んで暮らしておりました」

「陛下にはもう……?」

「いえ、テスニナッサの陥落のため行き掛けに私を解放されました。ですからまだ陛下にはお目どおりしておりません」

「左様か」

 青年将軍はため息をつくと、今いる森のなかからはるか向こうに見えるイティマ砦の影を見て肩を落とした。

「敵はなかなか落ちてくれません。戦闘を始めて二か月、陛下のお叱りをかっても仕方がない」

「そのようなことを申されるなレーヴァ殿。あなたに失望されているならわざわざ私の幽閉を解いてまで増援などしますまい。気落ちされるな」

 アナスタシアはレーヴァの肩にぽん、と手を置くと、側にいたイヴァンと大佐二人に向かって、

「偵察に行く。ついて参れ」

 と声をかけた。アナスタシアが馬に乗って森の向こうに消えていくのを見送ると、レーヴァは疲れた果てた心身に活力が漲ってくるのが感じられた。しかし今は休息が必要なとき。少し眠ったほうがいいかもしれない。思って彼は、束の間の休息をとりにテントへと向かった。

 一方のアナスタシアは森が開けた所から馬上のままイティマ砦を見上げていた。

「なんと……」

 珍しく彼女は感嘆の声を上げた。彼女の目の前には幅六百メートルほどの広い河が行く手を阻んでいた。そして河向こうの孤島には見上げるほど大きな砦がそびえ、そこここに兵士が動いているのが見えた。アナスタシアのすぐ側には第三個師団が全員そろって渡れるような橋があったが、見るも無残に叩き壊されていて、とうてい向こう岸に行くのは不可能だった。イティマ軍の籠城の手段のひとつといえよう。

「泳いでは渡れんのか」

「夏でもマイナスの温度の河です。冬の今河に入れば凍え死にます。よしや渡れたとしても兵士としては使いものにはならないかと」

 アナスタシアはイヴァン大将の方を振り向いた。

「それだけ寒いのならなぜ河の水が凍らぬ」

「河上から吹いてくる風のせいです。暖かい風が山を越えてくるので水は凍りませんが冷たいままを保てるのです」

「ふむ……考えたな」

 アナスタシアは沈思して考えていた。細い指を顎にあててずっと黙っていたが、やがてイヴァンのほうに向き直り、

「帰るぞ」

 と不敵な笑いを浮かべて言った。彼女がこんな笑いをするとき、それはいい案が浮かんだということなのだ。

「閣下、なにか良い案が?」

 馬上から遠慮がちに問いかけてきたホーランド大佐にも、アナスタシアはふふと笑っただけでこたえなかった。

 アナスタシアはテントに戻ってもなにか画策をしているのか、無言でしきりに考えごとをしているようだった。椅子に寄り掛かり、やはり指を顎にあてている。側でじっと彼女の言葉を待つ部下のことなど気にもとめないどころか、最初からいないかのように完全に無視していた。

 やがてアナスタシアは静かに言った。数時間ぶりに開いた口だった。

「スィノを呼べ」

 スィノ・ティエは氷竜隊の氷槍魔導師筆頭である。召喚され、彼は将軍のテントに向かった。

「閣下……お呼びだそうで」

「話がある。皆の者すまぬが二人だけにしてくれ」

 アナスタシアはイヴァンがテントを出ようとすると思い出したように、

「ああイヴァン。すまないがついでにタニエもこちらへよこしてくれ。それから瑠青隊は確か風裂魔導師が一番多かったな?」

「五人おられます」

「レーヴァ殿に言って借りてきてくれ。それから氷槍魔道師もだ」

「かしこまりました」

 魔導師だけをまじえての軍議……アナスタシアは、いい方法を思いついたようだ。

 次の日アナスタシアと再び面会した将軍レーヴァは、一週間の間攻撃をやめるよう進言され眉をひそめた。

「一週間も……? 長すぎるような気がしますが」

「レーヴァ殿。敵が籠城している以上は、先手の権利はこちらにあります。向こうはこちらが攻めてくるのを待つしかないのです。七日あれば貴殿も、貴殿の隊の兵士も休めましょう。まあ策士といわれたこのアナスタシアの、籠城攻めのやり方をご覧あそばせ」

 アナスタシアは艶然と笑った。それは味方には頼もしく、敵には鳥肌の立つくらい恐ろしい笑みであったが、その時味方のレーヴァは、また別の意味での震えが来るのを抑えることができなかった。

 七日の間アナスタシアは何度か魔導師たちを連れてあちこちを馬で歩きまわった。レーヴァにはなにをしているのかわからなかったが、疲労困憊の彼には、そんなことを考える余裕すらなかった。

 七日を過ぎて次の日、氷竜隊のアナスタシアから兵士が伝令を伝えに来た。

 明日の夜、轟く雷鳴を合図に一気に砦を攻撃していただきたい、とのこと。

「夜に……? 閣下、アナスタシア将軍はいったい何をお考えなのでしょう」

「とにかくやってみるしかあるまい。あの方の策にすがるしか、もう方法はないのだ」

 言うと将軍は瑠青隊に支度をさせるよう命じた。

 その夜は一段と寒さが厳しかった。瑠青隊は森のなかからじっと合図を待った。あまり河の側に行っては敵に気取られてしまう。特に夜は奇襲の可能性が高いから敵の警戒は厳しい。それを知っていたからレーヴァは夜に攻撃を仕掛けなかったし、第一彼には奇襲をかけるといっても、どうやっていいのかすらわからなかった。彼は正攻法の戦い方しか知らなかったのだ。

 ヒュウウウウ……。

 と、月も中点に差しかかり時真夜中という頃、一層強く厳しい風が吹き抜けた瞬間だ。 将軍の目の前で、砦めがけて雷が轟いた。

「合図だ」

 白い息を吐きながら将軍は言った。

「瑠青隊突進!」

 大将イヴェイバが叫ぶと、河を取り囲んでいた瑠青隊の兵士たちが掛け声と共に一気に砦を目指して突進していった。

 しかしあの雷……あれだけの雷はいったいどうやって? 砦を直撃する、恐ろしいほどの正確さだ。

 レーヴァは馬を走らせながら思った。

 それにあの河幅だ。いったいどうやって五千の兵士が渡る?

 しかし彼の疑問は河岸に着いたところで霧消した。

「! ……将軍……!」

「おお河の水が……」

 凍っている――!

 決して凍ることのなかった河の水が凍っている。そして今、瑠青隊の第一部隊が向こう岸に辿りついた!

「ヤーウ! そのまま右を補佐しつつ攻め込め! カヒトは援護を忘れるな! 魔導師は後ろからついてこい!」


 こうしてイティマ砦は陥落した。

 イティマヒエルの領地は帝国のものとなり、これから帝国の博士たちがこの国の色々なことを調査にすぐやってくるだろう。風土はどうか、気候はいかがか、作物はどれだけのものか。

「おめでとうございますレーヴァ殿。一安心ですね」

「アナスタシア殿……」

 レーヴァは立ち上がってアナスタシアを迎えた。

「今回のことはなんと言っていいか……」

「いいえレーヴァ殿。砦を落としたのは貴殿ではありませんか。私は河を渡るお手伝いをしただけ」

「ですがあれは見事でした。いったいどうやってあれだけのことを……?」

 アナスタシアは微かに笑顔になった。

「雷は氷竜隊と瑠青隊の魔導師が合同でやりました。雷撃魔導師が六人いるとあれだけのものになるようですね。あとは河上の風の流れを七日のうちに調べて風裂魔導師を使って冷やし、後はご存じの通り、氷槍の魔導師が河の水を凍らせました」

「なるほど合同で……私も最初は河の水を凍らせようとしましたが、氷が薄すぎてだめでした。それにあの暖かい風がすぐに氷を溶かしてしまうのでこの作戦はだめかと」

「貴殿の隊に風裂魔導師が多めにいたのが助かりました。私共のところに五人。貴殿の隊も五人。十人いたからこそ成しえた策です」

「あなたが来てくれたからこその成功です」

「いいえレーヴァ殿。私が来ても今言っただけの数が揃わなければ無理でした。つまりあなたの隊も私の作戦を助けてくれたのです。七日の間休んでいた兵士たちもよく動きました。今まで夜の奇襲がない上に一週間も沈黙していると、たいていのものは今までの疲れが出てきて、夜には来ないだろうという油断も助けて警戒が緩むものなのですよ」

「あなたという方は私より二つも年下なのに……」

「お褒めの言葉と受け取っておきましょう」

「無論そのつもりです。ああそれから、さきほどテスニナッサの陛下のところへ伝令を送ったところ、こちらも落ちそうなので氷竜隊の援護を頼むとのことです」

「……陛下が……?」

「はい。私も報告がてらご一緒致します」

「そうですか……」

 しかしその時アナスタシアの頭は真っ白だった。幽閉が解けてから一年、まだ皇帝ヴィルヘルムに面会していないアナスタシアであった。



 十二人の将軍たちは才能があるゆえにその個性も一人一人が強烈だ。アナスタシアのようにほとんど感情を表に出さない冷静な者もいれば、ヌスパドのように豪快将軍と呼ばれ隊の者の誰とでも分け隔てなく接する者もいる。インテリで気取った将軍もいれば、頑固で忠実一本の将軍もいる。これだけ個性のある将軍が十二人もいたら、互いに虫の好かない人間がいても当たり前のことで――。しかしいくら相手が嫌いといえども、時には作戦を協力して遂行しなければならないこともある。そんなときたいていの人間はこんな奴と一緒に仕事はできないと腹の中で思ったり、ひどいときは作戦の遂行自体を共に行なうことを拒む。が、十二将軍の場合、いくら相手が嫌いだとはいっても、たとえばこの任務を成功させないと陛下のお叱りがあるだとか、隊の者を食べさせるにはどうしても成功しなければならないとか、無論それらの強迫観念が働くことは否めない。

 しかし自分の損得勘定より前に、目の前の自分の嫌いなこいつですら、自分と同じように皇帝に魅せられてここまでやっているのだと思うと、一時の相手に対する感情は消え、任務は見事成功するというのが、通例のようなものになっている。

 皇帝はそれだけの魅力をもつ男だった。帝国がここまであるのはこの男のカリスマひとつといっても過言ではなかった。決して優しいわけでも心に響く言葉をくれるわけでもない。しかし側にいて姿を見ていると、言いようのない魅力を感じる。なぜだかはわからない。わかるのは自分がこの男に魅せられていること、この男についていきたいと無性に思うこと、この男に信頼されたいということくらいなもので……ヴィルヘルム皇帝いる限り帝国に謀反という言葉はないとまで言われている。

 アナスタシアはレーヴァと隊の者と共に移動しつつ最後に玉座の間で見た皇帝の、あの激怒に満ちた顔を思い出していた。自分の罰も失敗もよくわかっていた。

 あの時将軍職を解かれても仕方のないミスをした自分に、無期限の幽閉という罰を与えた皇帝。まだ信頼され、まだ必要とされているのだと思うと、アナスタシアは安心で夜も眠れなかった。自分はまだやれる、そんな風に思って毎日を過ごした。

 塔から見える景色は彼女の心を落ち着けた。

 普段血なまぐさい戦場の光景しか覚えていないほど戦いに身を投じているアナスタシアにとって、朝晩の日の光、そのすがすがしさ、その日の光に照らされて輝きを増していく草原の美しさ。鳥があんなに美しい声で鳴くなんて、今までのアナスタシアは気が付かなかった。鳴いて当然のものと思っていた。

 何の変哲もない、平凡で退屈な毎日。だが不愉快なものではなかった。長い一日、その一瞬一瞬確かに生きているという実感を改めて与えられたような気すらする。毎日宮廷の様子を報告に来るイヴァン、そのイヴァンをぼうっとした瞳で見つめ、傍観者の確かな感触すら味わった。劇や芝居を見ているようで、妙に楽しかったのはまだ記憶に新しい。

 塔の一年は、アナスタシアの世界観を大きく変えた。

「……ア殿」

「え? あ、はい」

「珍しいですね。考え事ですか?」

「……いえ……」

 馬上で肩を並べながら二人の将軍は語り合う。瑠青隊の象徴色の青と、白と水色を象徴色にした氷竜隊の大移動は、見る者を圧巻させるだろう。隊の将軍はその隊の色の一番美しいとされる色を纏うことになっていて、アナスタシアはアイスブルー、レーヴァは海の青をそれぞれマントにして羽織っている。兵士たちは自分の所属する小隊によって纏う鎧の色を微妙に分け区別できるようにしている。だから一個師団だけにしても、全員が移動する時はさながら生きたグラデーションのようで、それを迎え討つ敵は恐ろしさのなかに美しさを覚えて帝国という敵に対する純粋な尊敬を覚える。第一個師団霞暁隊の赤は隊の名の通りさながら暁のようだし、黒一色にしても第八個師団の闇輝隊の色は濃淡があって素晴らしい。アナスタシアの氷竜隊は十二個師団で唯一の二色を象徴としているが、ある小隊は白、ある小隊は水色と、あまり代わり映えできない色だというのにその変化は鮮やかの一言。

 不粋な戦いだけでなくその戦いの場にも見事な彩りを加えるという皇帝の美的感覚が伺える。戦場をただの戦場にしないというところがいかにも彼らしい。

「ところで、何かご用があったのでは?」

「ああそうです。前々からお聞きしたかったのですがアナスタシア殿。貴殿のその瞳から見るものは、すべて藍色に見えたりしませんか」

「――は?」

 青年は照れ臭そうに笑った。

「いえ……あまりにきれいな藍色なもので……見られたこちらは、視線を受けた部分だけ藍色に染まっているのではないかと時々思います」

「――」

「いつだったか、ラシェル将軍が言っておりました、あのアナスタシア将軍のあの瞳の藍色だけは、とても真似できないと」

「藍蓮隊の……?」

「はい」

 アナスタシアは驚きで声が出そうにもない自分自身に驚いていた。そんな風に普段見られているとは、考えもしなかった。

「いいえ……大丈夫です。赤いものは赤く、青いものは青く見えますわ」

 言うとレーヴァ将軍はまた薄く笑った。これがこの男の照れ隠しのようだった。

「そう……ですよね……当たり前のことですね……」

 アナスタシアは珍しく微笑んだ。そんなことを言われるのは初めてだったので、性にもなく嬉しかったのだ。

 レーヴァ将軍、この男の良さは、いくつになっても変わらないこの純粋さにあるのではないだろうか。一個師団五千人という隊の頂点に立つ将軍ながら、この気持ちのよい素直さはどうだろう。まるで子供のようだ。なのにきちんと戦場で出て戦えるというのだから、人間としても武人としてもアナスタシアは彼を好きになったような気がした。彼が与えてくれる自分らしくもない素直さは、慣れていないだけに扱いに戸惑う。

「ああ……見えてきました。あの灯りは陛下の迎え火でしょうか」

 レーヴァの視線の彼方には、闇の合間を微かにぬって輝く、幾千もの篝火がちらついていた。



「レーヴァ、ご苦労だったな。随分と苦戦したと聞くが」

「は……申し訳ありません。まだまだ未熟ゆえ」

「責めたのではない。砦の陥落は無事果たしたようだし、帝国に帰ってゆっくりと休むがいい。よくやった」

「は……ありがたき幸せ」

 ひざまづいたままレーヴァ将軍は呟くように言った。本当に感動しているのだ。彼だけでなく、他の十一人の将軍が同じことを言われたら、同じように感動してしばらく顔を上げられないだろう。

「アナスタシア」

「はっ……」

「幽閉を突然解いてすぐの戦い、ご苦労だった。イティマの作戦の話は聞いておる。見事な策だ」

「――ありがとうございます」

 アナスタシアは自分らしくない思いが胸をあふれるのを覚えていた。この男の、こんな軽い一言が、アナスタシアをひどく感動させ喜ばせるのだ。子供っぽいとは思うがそれでも尚この男は自分を感動させる。そして次いで思わせる、

 この男に一生仕えていたい、と。

 決して優しい男ではない、厳しい一面の方がむしろ多いし、恐ろしい方だ、そう思うことだってしばしばなのに、嫌いになれない、怯えない、憎めない。

「レーヴァは瑠青隊を引きつれ本国へ帰還せよ。次の命令が下るまで休養していてよい。アナスタシアは氷竜隊と共にこの地に残り補佐せよ」

「はっ」

 二人の将軍は同時に答えた。



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