第二章 流血の果てに
1
その年の秋、アナスタシアは季節はずれの戦場へと赴いた。が、氷姫の機嫌はあまりよくなかった。敵の軍隊が、氷竜隊の前に立ちはだかって先に進ませなかったからである。 戦闘になるのならそれもよし、しかし敵は不気味に沈黙するのみで、攻撃を一切仕掛けてこない。アナスタシアの我慢も限界であった。
両軍の睨み合いは三日にわたった。
「やれやれ」
アナスタシアは将軍陣営からその様子を見てため息混じりで言った。
「あちらが動かなければこっちも探りようがない」
「閣下……・」
イヴァンが敵の方を見据えたまま呟いた。その声に、アナスタシアも視線をたどる。
黒いかたまりであった敵の陣営が、向こうの方からさわさわと静かに二つに分かれ始めている。なにかが通っているのだ。
「? ……・」
アナスタシアもイヴァンも、五人の大佐たちもそれの正体がわからず黙って見守った。 やがて兵士の間を通って、一人の大きな男が先頭に立ち、こちらから丸見えの位置までやってきた。長い槍を携えている。男は戦場にくまなく響くような大きな通る声で叫んだ。
「ファシェッタ軍第四隊将軍・ジデイド・テサである。アルヴェンゼ帝国第三個師団氷竜隊・アナスタシア将軍に、一騎打ちを申し込む!」
「---------」
アナスタシアの藍色の瞳が細められた。遠くの獲物を狙う鷹のように眉を寄せ、口はきりりとかたく結ばれる。アナスタシアは立ち上がりずかずかと陣営を出た。
「か……閣下」
「槍を持て!」
近くにいた兵士が怯えたように、慌てたように鞘ごと槍を差し出した。アナスタシアは乱暴に槍をとってそれを払い、鞘から取り出すと、それを左手に構えてさらに前まで歩んだ。敵と同じように、前へ行こうとする将軍のために、兵士たちは黙って道を開けた。
カッ。
アナスタシアはジデイドと名乗った将軍の前に立ちはだかった。
「アナスタシア将軍である。貴殿の一騎打ち、申し受ける」
遠目で大男だったジデイド将軍の背丈は、近くで見ても尋常ではなかった。百八十五センチあるアナスタシアが少し見上げるくらいだから、ヌスパドと同じくらいだろう。
「なによりの名誉……将軍、賭けをせぬか」
「賭け?」
「貴殿が勝ったら素直に道を譲ろう。私が勝ったら……」
「私が退却だな。……よかろう」
シャッ……
二人の将軍は同時に槍を構えた。じりじりと近寄っては牽制しあって離れ、睨み合いは続いた。両軍の兵士も二将軍の一騎打ちを息を飲んで見守った。
ある呼吸を越えてジデイド将軍とアナスタシアの槍がかみあった。火花が一瞬飛び散り、激しい打ち合いを二人は繰り返した。頭上で打ちあったかと思えば膝に近い場所で打ち合う、何度も何度もそれを繰り返しては火花が散った。凄まじい戦いだった。最初は自軍の将軍が勝つだろうと囁き合っていた兵士たちも、次第にどちらが勝ってもおかしくないと互いに思い始めた。二人の戦いは長く続いた。
ガッ!
胸の前で槍がかみあい、二人の将軍は手が白くなるほど力を入れて押し合った。二人は今にも近付きそうな距離で睨み合った。
「なるほどさすがは帝国の将軍……」
ジデイド将軍は自分と対等にやりあうアナスタシアと睨み合いながら、呟くように言った。
「素晴らしい腕だ」
ガッというにぶい音がしてアナスタシアは後ろに飛ばされた。しかし自分も同じように相手を押し返したので、傍目には相手を勢いづけて押しやり、その勢いで後ろに飛びすさったように見えただろう。再び体勢を整えて槍を構えたアナスタシアは、しかし、相手が槍を引っ込めたことに気づき、その瞳から殺気が消えるのが自分でもわかった。
「……」
「アナスタシア将軍。私の負けだ。貴殿の腕に惚れた。道を渡そう」
「---------」
しかしそんなことをしては彼がどうなるかは、アナスタシアはわかっていた。一年間幽閉されたことのある女である。しかしアナスタシアが何か言う前に、ジデイド将軍は背を返し敵の兵士のなかへ消えていってしまっていた。
「……」
その後ろ姿を見送って、アナスタシアは無言だった。
久しぶりに手応えのある男と戦った、そう思った。あれだけの腕と度量があれば帝国でも将軍クラスだろうに、なぜシェファンダの属国などに?
「閣下」
安心して駆け寄る部下たちの声も聞こえないように、アナスタシアは目の前で移動を始めたファシェッタの兵の黒いかたまりを、じっと見ていた。
アルヴェンゼ帝国とシェファンダは古来より仲が悪い。世界の大国は両国に二分され、近来ではその睨み合いも極限状態になっている。天下をとるのは帝国かシェファンダか、どちらかであることは間違いなかった。
両国の他の国々は辛うじて中立を保つか、さっさと傘下に入ったりしているが、どちらも拮抗しているように見えるので、戦争で負けるくらいのことがないと属国にはならない。
「それは珍しい体験をしましたね」
后が紅茶を淹れるのを見ながらアナスタシアははい、と答えた。
「面白い男でした。出会うのが戦場でなかったら、良い戦友になっていたと思います」
「別に味方どうしの戦友でなくともよいではありませんか」
マリオンは紅茶をアナスタシアに出しながら言った。
「敵にそんな味のある方がいて、互いに戦友と認め合うのも、なかなかいいものですよ」「そうかもしれませんね」
二人はふふと笑い合った。皇后の前ではアナスタシアは、割合素直になれるらしい。
季節は冬に移り変り、戦場に行くこともなくなった。帝国国民はこれを「将軍の冬籠もり」と呼んでいる。一年の内で完璧に軍隊が表に出ない季節なのである。
しかしその日の宮殿は騒がしかった。
「おい聞いたか……」
「シェファンダが……」
「ディーエッタを……」
もっぱら宮殿はその話でもちきりだった。帝国と雌雄を決すべきシェファンダが、広大なディーエッタを我がものにしたというのは、帝国にとっては聞き捨てならない話だ。
「見ろ将軍たちが……軍議室に入っていく」
ぞくぞくと一室に吸い寄せられるように入っていく将軍たち。最後に藍蓮隊ラシェル将軍と大将ジエンラ・リーノが入室を終えると、しばらく軍議室の周辺は不気味なほどの静けさを保っていた。
「このまま放っておくのも」
まず第十一個師団燭冽隊将軍・クレイ・バーモンドが口火を切ると、各将軍とその隊ごとに所属する大将たちが囁きあい始めた。長テーブルに左右六人ずつ座り、後ろに大将が控えている。中央には皇帝とその側近がいるという、大軍議だ。
「これはシェファンダとの決戦の覚悟を決めないとけませんな」
第四個師団玉紗隊カイルザートが言った。その言葉にしばし、他の将軍たちも囁きあいを禁じずをえない。カイルザートは満足気に口元を歪めた。いつもインテリぶっていて鼻持ちならない、アナスタシアの大嫌いな男である。
「しかしその案はどうでしょう」
藍蓮隊将軍のラシェルが静かに言い放った。ラシェルは十二将軍二十代組のなかでも最年長の二十九で、トルコブルーの瞳が息を飲むほどに美しい好青年だ。侍女・女官の間でも慕う者の多い将軍である。ラシェルに引き続いてアナスタシアも口を開いた。
「今シェファンダは大きな力を蓄えつつあります。ここは帝国もひとまずシェファンダには構わずに、属国の拡大に励むべきでは」
ざわざわと将軍たちが意見を述べ始めた。皇帝は黙ってそれらの意見を聞いているのみだ。色々と意見を出しあって、結局皇帝が最終的に出した結論としては、ラシェルやアナスタシアのとった意見をとる、ということであった。
「決戦はいつか必ずやってくる。それまでに準備を万端に整えておくのが先決だ」
その時アナスタシアの耳に、聞こえよがしに呟くカイルザートの皮肉が聞こえてきた。「戦場の愛人が……」
「---------」
一瞬顔を硬直させたアナスタシアであったが、
「閣下」
「わかっておる」
イヴァンが後ろから気遣わしげに囁いたこともあって、聞こえないふりをしていた。
軍議は終わった。
帝国は冬に向けて各属国の警備の強化をしなければならなかった。将軍たちはそれだけでいいのだが、皇帝はそうはいかない。シーラも腕の見せ所だ。アナスタシアは密かに彼女の強運を祈った。
軍議室を出てアナスタシアは廊下を歩きながら壁をどすんと蹴った。
「気に入らん」
「閣下……落ち着いてください」
「あれで落ち着けと? なんだ自分の案が容れられなかったからといってあの将軍らしからぬ言葉は! 私はあの男は嫌いだ!」
そんなアナスタシアの後ろから、くすくす笑いと共に話し掛けた二人の影がいた。
「まあまあアナスタシア殿」
レーヴァとラシェルの両将軍であった。
レーヴァは第五個師団でカイルザートの隣だし、ラシェルは第九個師団で斜め向かいだったから、カイルザートの呟きが聞こえたのだろう。
「レーヴァ殿……」
二人はさらにアナスタシアの方へ歩み寄った。
「カイルザート殿は貴殿に嫉妬されているのですよ」
「嫉妬……?」
「彼は侯爵家の出身でしょう。我々は二人とも伯爵の家柄だし、あなたが一番家柄がいいのです。上級貴族、しかも公爵ときてはね」
「……」
「それにあなたが若くして将軍というのも気に入らないのですよ。なんといっても最低階級から初めて将軍になったあなたですから」
「彼も相当実力のある男です。自分でどうこうできることなら努力で勝ち取るのでしょうが……それでも上には上がいて、努力ではどうにもならないというのが悔しいのでしょう。だからあなたに対してあんな態度を取るんですよ」
「どちらにしても私の責任ではないことです。地位家柄なんて本人に責任はないのに」
「だからこそでしょう」
「……」
アナスタシアは黙りこくった。二人の言う通り自分が家柄をかさにきて大尉くらいから始めたのなら言われても仕方のないことだが、自分は将校からすら始めなかったのに、それでどうしてあんな風に言われなければならないのだ。
「とにかく相手にしないことですよ」
ラシェルはぽんぽんとアナスタシアを宥めるように肩を叩いた。
「彼だってあの案は最初から容れられるものだと思っていなかったでしょうし」
廊下の向こうに去っていく三人の将軍を見送りながら、イヴァンは知らず呟いていた。
「やれやれ……よいご同僚がいて助かった」
アナスタシアは氷姫と呼ばれているだけあって、普段はめったに表情が変わらないのだが、一度その怒りに火がつくと手がつけられないのだった。
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