第19話 残業と、夕飯

「おい長田ながた、お前今日残れるか?」

「え」


 午後5時過ぎ。

 定時を迎えて今日も1日ご苦労様でした、と仕事を終わらせようとしたその矢先、上司が俺のデスクにやってきて聞き捨てならないことを言いやがった。


「……残業ですか?」

「ああ。ちょっと急にクライアントからの修正指示が入ってな、工数が多めでお前くらいしか対応出来なさそうでなあ」

「…………」

「独身なんだし、早く帰る必要もないだろ? 出来るよな?」


 もはやそれは有無を言わさぬ「やれ」の意味を含んだ問いかけだった。

 断ろうもんなら今後の査定に響くかもしれない。

 仕方なしに「……うぃっす」と頷いてみれば、上司は「頼んだぞ」とどこか上機嫌に離れていった。


 はあ……最悪だ。

 定時できっかり上がれる方が珍しいとはいえ、多分今回は1時間程度じゃ済まない。

 2時間……いや3時間は覚悟した方がいいな。

 そもそも独身だから早く帰る必要ないだろ、ってなんだよ。独身だからこそ定時後のフリーダムな時間を全力で楽しみたいんだよクソ上司め。


「……那月に連絡すっか」


 今までなら残業なんざ誰にも気を遣わずにやれていたが、今の俺には那月が居る。

 その上、夕飯を作っているのは基本的に俺であるからして、遅くなる際は連絡を入れておかないと那月が腹を空かせてしまう。


『遅くなるから夕飯は好きなもんでも食っとけ』


 そんなLINEを送ってみると、すぐに返事があった。


『遅くなる、って残業?』


『そうだ』

 

『帰りは何時くらいになりそうなの?』

 

『8時前後』


『なら料理作って待ってる!!』


 料理作って待ってる?

 待て待て……俺が知る那月は料理なんてからっきしだぞ……。もう何年も前のことだが、カップ麺に水を入れてチンしようとしたヤツだぞ。そんな料理音痴に一体何が作れるって言うんだ……。


『舌を唸らせてビビッとさせてあげるから、楽しみに帰ってきてね♡』


 ……物理的に唸って痺れるモノだけは作らないでくれよな、と祈らずにはいられなかった。 

 

    ※


 そんなこんなで午後8時過ぎ。

 マンションの駐車場に車を停めて、俺は無事に仕事から帰ってきた。

 ……残業代が出るとはいえ、平日のプライベートタイムが減るのは本当に地獄だ。


 でも那月が夕飯を作ってくれているのが本当だとすれば、夕飯の支度をしなくていいのは助かる。まぁ問題は……その夕飯が食える代物であるのかどうか、って部分だけどな。


「ただいま……」

「あっ――なーくんおかえり~♪」


 玄関を開けると、毎度のように那月が出迎えてくれた。今夜は部屋着の上にエプロンを身に付けた状態で、それなりに可愛らしい。


「約束通り夕飯出来てるよっ♡」

「……お前ってメシ作りの腕、壊滅的だったよな?」

「ふふ~んw いつまでも昔のあたしだと思ったら大間違いなんだよ?w」


 なんとも自信ありげな表情だった。

 ならば、と俺も色々と覚悟を決めて……戦々恐々と、リビングに顔を出してみた。

 すると――


「おお……」


 図らずも――俺は唸ることになっていた。


 食卓の上には白米、味噌汁、野菜炒め物、ハンバーグ、シーザーサラダ、デザートのバナナ入りヨーグルトまで用意されており、その見栄えたるやパーフェクト。

 カップ麺をレンチンしていたかつての那月とは、明らかに違うようだ。


「どうよっ。あたし結構成長してるでしょ!」

「見た目はそうだな……でもお前と同じように中身がマズいかもしれない」

「中身がマズいって何さ~! もうっ! とにかく食べてみてよ! 後悔はぜーったいにさせないから!」


 そこまで言い切るからには、よっぽど自信があるらしい。

 

 俺は手を洗ってから早速、ハンバーグから食べてみることにした。不格好な形をしているそれは、確実に挽き肉からの手作り。めんつゆをアレンジしたっぽい和風ソースの香りも良い。箸で食べ頃サイズに分けたのち、そのひとかけらをあむっと頬張った。


「――っ。う、旨いな……」


 そして思わず唸らされていた。


「――ドヤっ!! いつなーくんの奥さんになっても恥ずかしくないように、部活引退後はずっと料理の修行してたんだもん♡」

「そいつはまた無駄な努力を……」

「無駄じゃないしっ」

「まあな……料理が出来ること自体は良いことだ」


 カップ麺をレンチンしようとしていた不器用娘がここまで成長してくれたのは感慨深い。他のメニューにも手を付けてみるが、問題なく美味だ。


「ねえねえなーくん、今日から夕飯作り、あたしに任せてくれないっ?」

「え?」

「なーくんお仕事でお疲れなのに毎日夕飯作るの大変だろうなってずっと思ってたから、居候として出来ることはやりたいなって感じっ」

「……いや、でも、お前だって学校があるわけで」

「お仕事に比べたら楽だしっ。ね? だから任せてよっ」


 そんな申し出を受けて、俺は迷った。

 ……どうっすかな。

 気持ちはありがたいが、それを承諾するのはなんか……那月に俺の占有権をひとつ明け渡すことになりそうな気がするんだよな……。

 要は、懐にまたひとつ潜り込まれてしまう感じというか、それを許すのはちょっと空恐ろしい部分がある。

 ……ずるずると那月に生活を支配されてしまい、気付いたら那月ナシでは生きられない状態にされていたらどうする……?


 いやいや……そこまで堕落しなきゃいい話だし、那月にも居候として何か手伝ってもらいたいと考えていた部分はあるっちゃあったんだよな。でも夕飯作りを完全に任せたら空恐ろしい妄想が現実になる可能性もあるので……、


「分かった……じゃあ夕飯作りは1日おきに交互に、だな。今日は那月がやってくれたから明日は俺、明後日はまた那月、って感じでどうだ?」

「うんっ、じゃあそれで決定ね!」


 そんなこんなで、我が家にまたひとつ新しいルールが追加されたのであった。

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