第15話 トイレ

「はぁ、トイレトイレ」


 だんだんと4月が近付いてきたとある平日の夜のこと。

 俺は仕事からの帰宅後、尿意を発散させようと思い、リビングに向かうよりも先にトイレのドアを開けた。

 すると――


「――あ、なーくんおかえりっ♪」

「……っ!?」

 

 那月が、先客として便器に座っていた。白いショーツを膝まで下ろして、なんかちょろちょろと音をさせている。


「は、入ってるなら鍵かけとけよお前なあ……!」

「えへへ」

「えへへじゃねえ……!」


 悪いのはノーロックの那月か、あるいはノックもせずに開けた俺だろうか。

 しかし今はひとまず、責任の所在は置いておく。

 俺は何も見なかったことにして刹那の如く一瞬でドアを閉めた。それから肩で大きく息を吐いて、頭を抱えたい気分になった。


 ついに共同生活ゆえの事故が発生しちまったな……。

 ……ともあれ、一旦リビングに退避する。

 

「ふぅ」


 じゃー、と水を流す音と共に、那月がトイレから出てきた。

 キッチンで手を洗いながら、視線を俺に向けてくる。


「どうぞなーくん、トイレ使えば? 我慢してるんじゃないの?」

「言われなくても行くっての。でもその前にひとつ、言わせてもらってもいいか?」

「なになに?」

「あのな……今のは俺の不注意もあったかもしれないが、お前はお前でトイレに入ったら鍵かけろってマジで。女子としてズボラ過ぎる」


 俺も悪いが、那月も悪い。

 今の出来事はそういう路線で行くことにする。


「おしっこするだけなのに、わざわざ鍵かけなきゃいけないの?」

「ああ。トイレに入ったら絶対かけとけ」

「えー、でもなーくん的にはあたしのおしっこ見れるのは嬉しいんじゃないの?w」

「嬉しいわけあるか!」


 あいにくとそこまでの特殊性癖は持ち合わせちゃいない。


「とにかくトイレに入ったらまずは鍵っ。分かったな?」

「んー、まぁ分かったけどさぁ……じゃああたしからもちょっと提言させてもらってもいい?」

「……なんだよ」

「なーくんってさ、おしっこするとき立ってやってるよね?」

「そりゃ当たり前だろ」

「じゃあ今度から座ってやってね」

「は? なんで?」

「飛び散ってて汚いから」

「…………」


 火の玉ストレートだった。

 何も言い返せなくて、俺は押し黙るしかなかった。

 

「なーくんのことは大抵受け入れられるあたしだけど、便座におしっこ飛び散らせてるのだけはちょっとなあ、って感じです」

「……すまん」

「もしくは立ったままやってもいいけど、飛び散らせた分はしっかりと拭き取ること、だね」

「……おう」


 ズボラなのはどっちだよ、って話になってきたな……。那月は単に鍵をかけないだけだが、俺は実害として汚してしまっている。今までなら別にそれでも良かったわけだが、那月との共同生活ともなると、その癖はしっかりと直していかないとダメか。


「なら……お互いに悪癖を直していこう。俺は座って小便、お前は鍵。OK?」

「OKっ」


   ※


「へえ。じゃあ先輩、座っておしっこし始めたんですか?」

「そう」

「男性が座っておしっこって気分としてどうなんですか?」

「気持ち悪い」


 翌日の昼休み。

 俺は後輩の御堂さんとランチを食べるさなか、とてもじゃないがランチ中にふさわしくない話題を繰り広げていた。まぁ、御堂さんも乗ってくれてるから別にいいか。


「何が気持ち悪いんですか?」

「油断すると棒が便座の縁に付くのが気持ち悪い」

「そ、そんなにおっきいんですか……?」

「あんなのミニマムサイズでも付くって」


 だから公共の洋式トイレの便座の前側の縁(内側)部分は無数のチンタッチゾーンと化しているはずだ。まぁ公共のトイレでは普通に小便器にするからどうでもいいんだけどな。


「まぁとにかく、座ってのおしっこは微妙に落ち着かない。そうなるとやっぱり、1人暮らしが気楽で良いよなって思っちまうよ」


 共同生活の相手が那月とはいえ、そうやって気を遣う部分はあるわけで。

 気の休まらない日常は、ほんのわずかなポイントだけとはいえ、確実に存在しているんだよな、と改めて実感した気分だった。


「でもそこはお互い様だろうし、文句垂れずに継続していくしかないんだよな」


 那月もおしっこのときは鍵をしっかりとかけるようになった。

 なら俺もしっかりとルールを守る他あるまい。


「私だったら、別にそんなルールを先輩に強いたりはしませんけどね。おしっこくらい自由にさせてあげます」

「それはなんのアピールだよ」

「わ、分からないなら分からないで構いません……お気になさらず」


 なぜか照れ臭そうにしている御堂さんだった。

 

 まぁなんにしても――共同生活のミクロな大変さを再認識することになったという、これはそういう話なのだった。

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