明治九年の東京に自在に行き来できるようになった僕、無双できると思いきや幼馴染のお姉ちゃんにバレた結果

人の海

第1話 明治9年11月3日金曜日

明治九年――西暦で云うところの一八七六年――十一月三日、華やいだ銀座の町に僕と環姉はやってきていた。

色々な種類の旗がどの窓にも、どの入口にも華やかに翻っていた。

大きい旗、小さい旗、中ぐらいの大きさの旗、上等の旗、粗末な旗。

だがそのいずれにもこの日の出る国、日本の象徴である赤い点があった。本当にどの窓からも旗が林立し、なんとも長い「朝日」の通りを形作っていた。

今日は天皇陛下の誕生日なのだ。

築地にある精養軒ホテルは紅白の提灯と旗で美しく飾られていた。この店が創業されたのは四年前で、日本にフランス料理を広めるための草分けとしての役目を果たしていた。ちなみに今年になってから上野の不忍池畔に二号店を出店していて、後にこの店は上野精養軒として現代まで時を重ねていくことになる。

大変な人出で、特に役人が目立った。華麗な駝鳥の羽のついた三角帽を被り、金の肩章をつけ、薄紫位目のズボンをはいて、すっかり西洋風の衣装が板についた幾人かの役人が人力車に乗って僕たちの前を通過していった。

他にも黒ラシャのズボンに燕尾服とシルクカットを被った人たちが同じ方角に向かって歩いていく。何処かで公的な記念の行事があるのかもしれない。

外国人も想像以上に沢山いたので、今日の僕たちの格好――僕は剣道の時に着る胴着姿、環姉は古風なセーラー服――なら、さほど目立つことはなかった。

それでも環姉には幾人かの無遠慮な、というより無邪気と云った方がいいのだろう、好奇の視線が向けられていたけれど。

もうしばらくこの賑わしい光景を観察していたかったけれど、今日の主目的は銀座見物ではない。一通り銀座の様子を見物した僕たちは今日の目的地である赤坂の氷川町へと向かった。

敷地こそ二千五百坪と広大だけれども、長く黒い大名屋敷風の建物自体はいたって質素な造りだ。

大きな屋敷門をくぐり、しなやかな竹と香りのよい杉が並んだ広い石畳の通路を渡ると、幅が一間あまりしかない玄関の左右に高張提灯がたててある。

昔ながらの武家屋敷の構えだ。

三畳ほどの広さの玄関間で僕たちを出迎えてくれたのは、この屋敷の主の奥様と娘さんのお逸、そしてお逸の親友であるアメリカ人の少女、クララ・ホイットニーだ。

奥様は江戸時代の既婚女性の作法に今も則り眉を剃り、歯を黒く染めていらっしゃるが、不思議とその黒い歯と白粉を塗った白い肌のコントラストが美しく見えた。

縮緬の羽織を着たお逸は本当に綺麗で、真っ黒な目、やや上を向いた鼻、半月形の眉、赤く塗った唇、真珠のように白い歯、そして薔薇色の丸顔にお化粧をしている。

クララは典型的なアングロサクソン系の金髪碧眼の美少女で、まだ江戸からその名を改めて九年も経っていない東京の街を歩くと、注目を浴びずにはいられないほどだ。最初は当人も当惑していたそうだけど、最近では逆に自分を観察する日本人の方を観察することが趣味になっているそうだ。

ちなみにクララが来日したのは去年の八月三日。父親が日本で初めて開設される商法の専門学校、商法講習所の校長として日本政府に招かれ、家族揃ってアメリカから来日している。この商法講習所が後の一橋大学の前身に当たる。

偶然だけど、お逸もクララも丁度同い年の十六歳。ちなみにお逸の誕生日は八月三日。クララは八月三十日ということで誕生日は一月も違わない。旧暦と新暦のずれを勘案すると、殆ど同じ日に生まれたようなもので、二人は出会ってたちどころに親友となったそうだ。

この中では環姉一人だけが二つ年上の十八歳だから、四人で集まると自然と環姉が主導権を握る格好になる。

なおクララたちより一つ年上の僕だけど、この四人の中で一番立場が低くなることが多い。

だけど「女三人寄らば」などと口に出したら、確実に手ひどいしっぺ返しを食らうので口には出さない。

僕と環姉はお辞儀をして挨拶をし、お土産を差し出して家の中に入った。

今日のお土産は銀座三越の地下二階で調達してきたハニーラスクだ。丁寧に焼かれたクロワッサンをそのままラスクにしたもので、これを三つ、奥様用と僕たちのおやつ用、そしてこの屋敷の主用にと用意してきた。なにせこの屋敷の主人は西洋菓子が大好物なのだ。アメリカに渡航して以来、すっかりその味の虜になったのだとお逸からは聞いている。

帽子掛けや傘立て。鹿の角のある長い廊下を通り過ぎて左へ曲がると、広い薄暗い部屋があり、そこには屏風と本棚と油絵があった。隣の部屋とは襖で仕切られ、次の間にはテーブルと椅子が置かれていた。その部屋に招き入れられた僕らはまずお茶と豆菓子、鳥麦のビスケット、薄く切った蜜柑を御馳走になった。

しばらく歓談していると、屋敷の女中であるお米さんが着物を腕一杯に抱えて入ってこられた。

「これからクララにはこの私の冬の着物を着てもらいます」

唐突にお逸はクララに対して宣言した。父親の薫陶からなのか、この時代の少女にしてはお逸は外国人であるクララにも物怖じしない。

クララはしばらく抗議の声を上げていたけれど、環姉が「よいではないか、よいではないか」と若い娘さんに悪さをしようとするどこぞの悪代官のような台詞でクララににじり寄ると、どうやら観念したらしい。

沢山の着物の中から赤い絹の裏地のついた、美しい灰色と青の立派な柔らかい絹の着物を手に取る。

見るとその着物には、胸と背中に桃の花のような紋がついていて、どうやらこれがこの家の家紋らしい。

「あのー、僕は一体どうしたら?」

所在をなくした僕が弱弱しく抗議の声を上げると環姉に「なに、小十郎は女の子の生着替えが見たいの?」とからかい気味に返され、僕はやむなく隣室へと退避した。

半刻ほど、襖一枚隔てた隣室から夫人を含めた女の子たちのガールズトークやら、着物や洋服の衣擦れの音が聞こえてきた。

「今日は僕、なにをしにきたんだっけ?」と頭に疑問符を浮かべていると、ようやく隣室から「入ってきていいわよー」との声がかかる。

中に入ると、三人の衣装が一変していた。

クララは先ほど手にしていたお逸の着物、お逸は環姉の着ていたセーラー服、環姉はこれまたお逸のものなのだろう、紫と白を基調とした随分と高価そうな美しい着物を着ていた。

クララの着る着物の帯はピンク色の錦で、美しい模様が入っている。着物の裾が長く足の周りにまで広がっているのを、両端に花の刺繍のある素敵な赤い絹のスカーフのようなもので着物を縛り上げ、腰の丁度下のところで結んでいた。

「これが長崎風よ」とお逸が解説してくれる。

クララは先ほどまでとは一転、満足げな表情で、持ってきた姿見の長い鏡に自分の姿を映している。

環姉の紺色のセーラー服を着たお逸はこの活発な少女らしく、全く違和感がなかった。

いつもクララから「お年寄りみたいだからやめた方が可愛いわよ」と云われている島田髪を解いてポニーテールにしている。

「これ、動きやすくていいわね。今度私も見繕ってもらおうかしら?」

確かに良いところのお嬢様のくせにちっともお嬢様らしくないお逸には和服よりも動きやすい洋服の方が似合うかもしれない。

そもそも僕たちがお逸と知り合ったのは、お逸が「街中を馬で疾走していた時」だ。勿論、彼女とて好き好んで馬で東京の町を疾走していたわけではない。

その日、お逸は屋敷内で飼っている鞍のない馬に跨って庭の無花果や棗の木を観察していたそうだ。するとその老いた黄色い馬が何の前触れもなく疾走を始め、門を走り抜け外へと飛び出てしまったのだ。

流石のお逸も怖くなってて馬の首にしがみついてしまったそうだが、そんなことをすれば馬は余計に早く走り出すに決まっていた。

しがみつけばしがみつくほど、老馬は速く走り、やがて商店が並ぶ大通りまで飛び出してしまった。

その日、特に買うもののあてもなく店をぶらぶらと覗き込んでいた僕と環姉は疾走する老馬とその馬に必死にしがみつく少女を見つけ、最初ぎょっとして、次にそれどころではないことに気が付いた。馬の疾走するまっすぐ先が今まさに僕たちが立っている店の前だったからだ。

「乗ってる女の子だけでもなんとかしないと」

そう決断すると僕は店の軒先に立てかけてあった竹箒を拝借した。

環姉を庇うようにその前に進み出て、竹箒を大きく振りかぶると、目前にまでやってきていた馬の鼻先めがけて思い切り振りおろした。

次の瞬間、驚いた馬は棒立ちになった。その弾みで馬の背にしがみついていた女の子が、地面へと放り出される。

「間に合えっ!」

馬の傍らをすり抜けた僕は地面に投げざれた女の子をなんとかキャッチすると、その勢いを殺すために女の子を抱えたまま道の上を転がる。

「君、大丈夫!? 何処も怪我してない!?」

土埃が立ち込める中、僕の懐の中にいる少女の無事を確認する。

最初何が起こったのかわからず呆然とした表情を浮かべていた彼女だったけれど、どうやら難を逃れたことは理解したらしく、首をこくこく縦に振った。

すると周囲からどっと歓声が沸いた。いつの間にか僕たちは人だかりに囲まれていたらしい。

周囲の誉めたてる言葉に僕はなんとなく恥ずかしくなって優しく彼女を立たせると、だけど慌てて環姉と合流してその場を後にしようとする。

そんな僕たちの背中に、たったいま僕が助けた少女の声が投げかけられた。

「どうも有難うございました。貴男の方こそお怪我はありませんか? 近くですから是非うちの屋敷に寄って行ってください」

そうして案内された屋敷で僕と環姉は彼女の《身元》を知って驚くことになる……。


「どう、この服? 《いま》しつらえたら三桁どころか四桁するかも知れないわよ」

着物をまとった環姉が見せびらかすように、僕の前で一回転してみせる。

非常に幅の広い綾織の錦の帯には黒と青と白の縞が入っていた。着物は紫と白で、半襟は絹糸と金糸で鳥や蔦を巧みに刺繍した灰緑色の繻子でできていて、金色の帯締めの留め金は金と銀だ。髪には混ぜ物のない鼈甲の櫛と簪を挿している。本当にどこかの貴族か大名令嬢みたいだ。

実際のところ、環姉は「お嬢様」と云っていい身分だったりする。お祖父さんは外交官在職当時は某国の全権大使を務めていたこともあるし、父親も同じく外交官で、こちらはバリバリの現役だ。

そもそも環姉などとと親しげに呼んではいるけれど、僕たちは本当の姉弟ではない。家がご近所で保育園の頃からの幼馴染なだけだ。もっともご近所とはいっても環姉の家は都心の豪華な一軒家なのに対し僕の家は隣接する中層マンションの一室なのだけど。

三人はそれぞれ着こんだ衣装が気に入ったらしく、どうやら今日一日その格好で過ごすことに決めたらしい。今度はお逸の部屋へと移動する。

日本人形、髪飾り、高価な印章、優雅な青銅の花瓶、オルゴール、絹製品、可愛いものの一杯入った宝箱。

机の上にはいろいろな種類のペンや筆、インクスタンド、インク、文鎮、漢字の練習帳がおいてあった。

時代は違っていても女の子の部屋の様子と云うものはさほど変わらないものらしい。

寝台は年季の入ったもので、黒ずんだ磨いた木でできていた。明るい色の木材がはめ込み細工になっていて、少々風変りではあった。丈は低く、赤ちゃん用の寝台のように周りに柵があって、横に出入りする戸がついている。どうやらこれも輸入物らしい。

これだけ物を持っていながら、お逸は真顔でこんなことを云った。

「ほらね? 私、なんにも持ってないのよ」

他にも家の中を案内してもらったり、蚕部屋で蚕の幼虫からさなぎになりかけているものまで見せて貰ったり、庭に出て棕櫚や梅、桃、椿、梨、日除けの木々などや藤の蔓や菊を見て回っていると、いつの間にか陽は落ち始めていた。この時期だと夜が訪れるのが早い。

お暇しようとすると、お逸から夕食に誘われた。何度か断ろうとしたのだけれど「もう二人の分も用意してしまったから」と云われると、固辞しづらい。

僕と環姉はそのまま晩御飯を御馳走して貰うことになった。

食事はめいめい小さな丸いお盆の上に用意されていた。

最初に出されたのは綺麗な漆塗りの椀に入れた吸い物と刺身だ。吸い物には魚と茸が入っていて、食べてみると茸からは強い風味が感じられた。

次に出たのは魚の揚げ物と野菜の吸い物。ぱっと見てどの魚か分からなかったので内心警戒して口に運んでみると、これが意外とおいしくて驚いた。テンプラの油がよいものなのかもしれない。

最後に出てきたのが鳥の吸い物と――黒ずんで筋っぽくて、蕪と栗の付け合せがついた《何か》だった。

流石に躊躇してじっとその料理を眺めていると、クララが面白そうに云ってきた。

「鶏肉よ、それは。私も最初に食べた時には鼠の肉じゃないかと疑ってしばらく口に運ぶのは躊躇ったのだけど」

「あら、おいしいじゃないの、この鶏肉」

環姉はクララの言葉が終わる前にもう口の中に放り込んでいたらしい。初めて《こちら》に来たときにも生水を平気で飲んでいたくらいだから、本当に蛮勇と云うべきか。だけど確かに食べてみると、間違いなく鶏肉の味だった。

最後の締めはご飯とお茶。やっぱり日本の料理は昔からこれがないと終わらないらしい。

一つ一つの膳は小さかったけれど、全部食べきると流石にもうお腹一杯だった。お逸が云うには「今日はお客様が来たから特別。普段はもっと質素なもの食べてるのよ」と云ったけれど、どこまで本当のことだろう?

だけど確かに《諸記録》を読む限り、この屋敷には家人以外にも沢山の居候がいて、その全員に食事を用意していたということらしいから、こればかりはお逸が云ってることがそのまま本当なのかもしれない。

食事も頂いたので今度こそ本当にお暇しようとして、僕は不意に尿意を催した。

お逸に厠の場所を聞き、生理現象を発散して長い廊下の曲がり角を丁度曲がったところのことだった。僕がその紺色の着物を着た《その人物》と対面することになったのは。

「おお、お前さんか。いつも美味しい西洋菓子をありがとよ」

たったそれだけの言葉に、僕の背筋がピンと伸びた。硬直したといった方が正しいかもしれない。いま僕が出くわした方こそがこの屋敷のご主人である。

お逸と知りあってから半年ほど経つけれど、その父親である屋敷の主と実際に面と向かってあったことはまだ一度しかなかった。

その一度だって緊張のあまりろくすっぱ声も出せず、なんとか時候の挨拶と自己紹介をしただけで、逃げるようにその場を後にしてしまったくらいだ。

でもそれも無理はないだろう。

だって僕はいま《歴史上の偉人》と対面しているのだから。

屋敷の主の名前は勝安房守義邦。一般には、勝海舟という名前の方が通りがいいだろう。

この人の知恵と機転と胆力がなければ、明治維新はもっと血腥いものになり、江戸から東京への移行は破壊と流血の末の血腥いものになっていたかも知れないのだ。

今年で五十四歳になる筈だけど、とてもそうは見えない。凛々しい表情は歴史の教科書に出てくる写真そのままだ。

お逸はこの勝提督の三女に当たるのだ。

ちなみにクララは知らないことだけど、お逸は正妻であるたみ夫人の子ではない。同じ屋敷内の別邸に住んでいるお妾さんの子供だ。お妾さんが同じ屋敷地内に住んでいるというと不思議に思われるかもしれないが、実はこれは江戸時代の武士だと当然のことなのだ。

あまり知られていないことだけど、江戸に住む旗本は原則として外泊が禁じられていた。外泊できるのは旅行に出かけた時くらいだ。

その旅行にしても泊りを伴うものはなかなか許可が下りなかったらしい。だから時代劇で見る「旗本が吉原で一夜を過ごす」というシーンは基本的に全部間違いなんだそうだ。意外と旗本と云うものは窮屈な職業だったようだ。

畢竟お妾さんを持つくらい羽振りがよくなると必然的に屋敷地内に同居することになる。もっともお妾さんは自分の実の子供にさえ母親の名乗りさえしないし、この勝家の場合はたみ夫人が全く実の親子と同様にお逸と接しているので、クララが気が付かなくても当然だろう。

ともあれ、何か挨拶をしないと。だけど気だけ焦るばかりで咄嗟に言葉が出てこない。

以前、お逸にお父様と普段どんなことを話しているのかと尋ねたところ「父様、離れに住んでて、食事もお風呂も別だから殆ど顔を合わさないのよね。偶に会うと軽い冗談を云ってくるか、お小言を貰うくらい? この間も『勝家の娘としてあまり目立つな』って云われたわ」との回答を貰ったところだ。

「き、気に入っていただけたのなら幸いです。お好きな西洋菓子があればまたお持ちします」

深く頭を下げてなんとかそれだけ云うと、勝提督はにっこりと人好きのする笑顔を浮かべてこう云った。

「お逸とこれからも仲良くしてやってくれ。オレのせいであの子には同じ年頃の対等な友達ってのがクララ嬢くらいしかいなくてな。知ってのとおりのお転婆娘だがよろしく頼む」


帰り際、僕には和菓子、環姉には鮮やかに染めた絹切れを手土産として持たされた。

訪れるたびに贈り物をもらってしまっているので最初の何度かは固辞していたのだけど、外国人であるクララから「こういうものは有難く頂いておくのが礼儀なのよ」と注意されて以来、素直に受け取ることにしている。洋の東西を問わず、贈答文化と云うものはあるらしい。また今度来訪する時に勝提督が喜ぶお菓子を持ってくればいいだろう。

大きな屋敷門をくぐり、僕と環姉は皓皓と月の照らす表に出た。

月光のもと、遥か遠くに輝く富士山が見える。本当に美しい眺めだ。月の光の輝く空に煌めく星が夜の王冠の宝石のように山頂を取り囲み、雪に覆われた富士山は日本の山脈の王者にふさわしく、白く堂々とそびえていた。

「私たちは便利さと引きかえに、この光景を失ったのね」

しみじみと云う環姉に、僕は無言でうなずく。僕たちはどれだけのものを失って、どれだけのものを得たのだろう?

勝邸のある赤坂氷川町はその名の通り起伏に富んだ坂の多い町だ。 しかも赤坂一帯にあるのは元の武家屋敷ばかりで、普通の庶民は殆ど住んでいない。

しかも武家屋敷ばかりだから明治の御世になってからは主のいなくなった屋敷も多い。閑静を通り越して、狐や狸が棲息するような非常に寂しい場所だ。

僕たちはいつもの通り、勝邸から少し行ったところにある南部坂を東南方向に下り、赤坂氷川神社へやって来ていた。

ここは徳川吉宗の命で元赤坂紀州邸の産土神を祭った神社であるが、それ以前は備後国三次藩浅野家の邸宅で浅野内匠頭夫人が刀傷事件以降、住み暮らしていた場所でもある。

日中ならいつも人の目がある場所だけど、この時間だから当然のごとく、人っ子一人いない。

暗闇の先にあるものを見通すかのように、僕はじっと目を凝らす。

すると世界の輪郭がぶれ出し、やがて二重写しになる。

僕は二重写しになった《向こう側の世界》の様子を注意深く三百六十度、観察する。周囲に人影は、ない。今なら大丈夫だ。

僕が差し出した手を環姉はしっかりと繋ぐ。剣道の素振りでごつごつになった僕の手を、軟らかな環姉の手が包み込むような格好になる。

いつものことだけど、なんとなく気恥ずかしい。

子供の頃から環姉の手にに引っ張られるばかりだった僕が、今この瞬間だけは主導権を握っている。そんなことが少しだけ誇らしい。

僕はそのまま環姉の手を引き、二重写しとなった《向こう側の世界》に一歩踏み込む。

その途端、水面を突き抜けるような感触が全身を覆う。

だけど、それも一瞬。

たちまち優しい月明かりに代わって、どぎついネオンの瞬きが目に飛び込んでくる。

無論、遥か彼方の富士山など見えよう筈がない。空に煌めく星々もこの都市の明かりで掻き消えてしまっている。

そして戻ってくる喧噪。東京の街は眠らない。

眩い光とけたたましい騒音に包まれた大都会東京。

今は西暦二〇二三年。つまれ、令和五年の十一月三日。

実に百四十七年の時を飛び越えて、僕、氷上小十郎と幼馴染の箕輪環は現代日本へと戻ってきたのだ。

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