第十一話 二〇XX年十月十五日/十月十四日
羽音山 二〇XX年十月十五日
午後十一時に神社を出発し、黙々と先の屏風岩を目指す。皆大きめの懐中電灯を持ち、足元や行き先を照らしている。
山道は秋の深まりを告げるように、寂静とした美しさを湛えてた。夜更けの時間帯は、辺りを包む闇が一層、周囲の自然との一体感を高める。そんな気がした。
夜空は、新月の影響で星々が特に明るく輝いており、それらが瞬くたびに、黒く塗りつぶされた山々のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。夜風はすこし肌寒く秋の訪れを物語るように涼しさを増しており、森を抜け落ち葉の芳香を運び落ち着いた空気と風に揺れる木々の葉擦れ、時折一つ二つと聞こえてくる虫の音がいっそう静寂を際立たせていた。
階段状に整備された石段を登るたびに、視界が少しずつ開け、時には市街地の明かりが遠くぼんやりと見え隠れし、現代とは隔絶した山の夜と都市の喧騒が同居する不思議な光景が目の前に広がる。
「着いた……」
やはり疲労困憊の鈴郁。それを横目に背負ってきた荷物を下ろしテキパキと準備に勤しむ巫女装束の更紗。自分以外の皆がピンピンしているのを恨めしげに見、水を飲む。この人達、昨日あんだけ大宴会しててなんでこんな元気なの……。
羽音神社 二〇XX年十月十四日
羽音神社の大広間は、宴会場の様相を呈していた。菱沼宮司と更紗、朝比奈 真と鈴郁。鹿沼教授と朝比奈家庭師の佐々木、家政婦の水野が卓子を囲んでいた。卓子の上にはもつ鍋がふくふくと湯気を上げ、筑前煮や餃子、焼き鳥に山のような明太子と少しの隙間もないほどに料理が並んでいる。
「本日はお越し頂きありがとうございます」菱沼宮司が挨拶する。
「明日執り行われます神事に参加される皆さまへ、心ばかりの席を設けました。英気を養って頂ければ幸いです。乾杯!」
「乾杯!」各々が手にする杯を口にする。ビールに焼酎、サワー、日本酒。酒飲みしか居ないのね……。自らのことは棚に上げ、鈴郁が苦笑している。
皆が料理と酒を楽しむ中「ここに居る中で神事初参加はれーちゃんと教授なので、心得を伝授します!」と、焼酎のロックを片手に更紗がにじり寄ってきた。一杯目で顔真っ赤……。
「まず〜、神様は神様なので、人間の事なんて区別が付いてません! なので参加する人達が“どういう類いの人間か”を明示する為、あたし謹製の蔵面を付けてもらいます! そして朝比奈家筋のれーちゃんには、“朝比奈家の人間”である印として、眉間に血印を押します!」
「そして、神事という事と、人外の存在に対するという事で、特製の御神酒を飲んでもらいます! 御神酒っていうか薬草酒? ちょっと苦いお酒です! このお酒のおかげで狼狽せず冷静に神事を執り行えるハズです!」
民俗学の学徒たる鹿沼は使い込み挟み込んだ資料で膨れ上がった手帳に一心に書き付けている。
「でも、たぶん神様は見えないです」
「それはどう言う理屈なんだい?」勢い込み問う鹿沼。
「伝承では、朝比奈家の人間にしか見えないらしいんです?」
「そうか……」落胆する鹿沼。見る間に萎れてしまった。
「実は学生時代にあちこち放浪していた頃、いわゆる“伝承”に関わったことが二回ほどあるんだが、やはりよそ者は深く関われないのだよ。おかげで身の危険は無かったが表面的な事しか知り得なかった」手にした燗酒をあおる。
「どこもおんなじ感じなんですかねぇ? よその人には精神的なプレッシャーみたいなのが感じられるらしいです。あと、直接は見えないけど、存在により引き起こされた物理現象は体感する、みたいな? でも」更紗は一瞬言いよどむ。
「見えちゃう人がなんにも準備しないで見ちゃうと、死ぬとか発狂するって伝承もあるので」視線を向けられた鈴郁がしかめ面をする。
「ちゃんと準備するよ」さすがに身の危険が存在するのに手抜きはしない。
「まぁれーちゃんの事はあたしが守るよ! おねぇちゃんに任せなし!」ふんすと胸を張る更紗にあきれ顔の鈴郁。
「誕生日が三日早いだけじゃないの」二〇年聞き続けた更紗のキメ台詞であった。
羽音山 二〇XX年十月十五日
「さて、じゃあ皆さん靴と靴下を脱いで、足袋とわらじを付けてください」
手早く石畳に箒をかけていた更紗が、事前に運んでいたであろう段ボール箱から真新しい足袋とわらじを取り出し皆に配っている。同時に懐中電灯を回収し段ボール箱へ。
「つぎにこの」真っ赤な瓶子を掲げ、更紗が言う「御神酒白盃に一杯、飲んじゃって下さい。少ないより多い方がいいので、味が大丈夫なら二杯でも良いです」
更紗はダンボールから折り畳みテーブルを出し、赤い瓶子と白盃を並べる。その間に佐々木が黒い鉄製の物を抱え、少し離れた所で組み立て始める。背の低い焚火台のようだった。薪をくべ火を付ける。
静まりかえっていた夜の山に、揺らめく灯りと木のはぜる音、枯れ木の焼ける煙が広がっていく。
鈴郁は白盃を手に取り、赤い瓶子から酒を注ぐ。薄緑のとろりとした御神酒が白盃を染める。恐る恐る口に含むと、ヨモギに似た香りと主張のある苦さが鼻を抜けた。
「うへぇ……」
「文句いわん。ほれ、もう一杯」にこやかに瓶子を押しつけてくる更紗。「死ぬよりマシでしょ」
「わかったわよ……」並々と注がれた御神酒を覚悟し飲み下す。
「はい、飴ちゃん」
「ありがと」
更紗がいつもくれる琥珀色の飴は、縮こまった舌をほぐしてくれるようだった。
準備は着々と進む。それぞれ役目に従った蔵面が配られ、
「お二方、またまた血をください。二滴ずつくらい」乳鉢とまち針が渡されるので諾々と従う。
「ここに……この……」乳鉢に小さな瓶子から液体を垂らし、懐から懐紙に包んだ薬草のような物をひとつまみ入れ、乳棒で丹念に擂る。
「はい出来上がり。コレをお互いの眉間に」父娘はお互いの眉間へ薬液に浸した親指を押し当てる。
「さて、準備が整いいい時間になってきたので、奥の屏風岩へ向かいます。この先はあまりしゃべらずに進みます。松明は三本、あたしと教授と佐々木さんで持ちましょう」
十一時四〇分、六人は松明の揺らぐ光の中、奥の屏風岩へ続く山道を登り始めた。
奥の屏風岩。新月の空は雲もなく満天の星々が瞬いている。屏風岩を背に集落を見ると、ぽつらぽつらと灯る街灯が見えるのみ。集落の向こうには黒く塗りつぶされた山並みが続いていた。
皿岩の四方に立てられた白木と縄、紙垂が掛けられてる。手前には薙刀が据え置かれ、皿岩の上には丸々と太ったイノシシが横たわっている。呼吸はしているようだが身動きはせず、失神させられているのだろうか……?
斎場には二箇所、篝火が灯る。集落が見渡せる崖の手前には更紗が三方を据えている。
「そろそろ時間です。下男の皆さんは皿岩のそちら側、朝比奈家のお二人はあたしの後ろ、はい、そのアタリで。声を立てず、顔は伏せ気味に。あとは次第通りに進めます。
何かあったらあたしが対応しますので、皆さんはその場から動かず居てください」
斎場では薪の燃える音のみが聞こえる。ほんの数分が数十分にも感じられた。遠く裾野から聞こえていた虫の音も何時しか止んでいた。
シャン…… 更紗が神楽鈴を鳴らす。
シャン…… 吹きさらしの斎場に鈴の音が響く。
シャン…… 屏風岩の滑らかな壁面に反射し、神降ろしの鈴が響く。
更紗と皿岩に控えた下男達が、外国の言葉、異国の言葉、否、外なる言葉で神を讃えた。
いあ! いあ! なくるとん!
ふんぐるい むぐるうなふ
なくるとん ぜふぃありあ
んなぐむか むなーるかや
いあ! いあ! なくるとん!
そして、それは在った。
ふっと、目の前の満天の星空が漆黒に包まれ、星々のきらめきが消えた。代わりに重苦しく息苦しい、じっとりとした闇のような
そこには、視界を覆い尽くす漆黒の、深緑の、深く深く緑を湛える黒き異形が在った。
身体のあちらこちらから、透明な液体が噴き出し、滴れ落ちていた。
べちゃり。
それはゴツゴツとした岩のような頭部を持っていた。そこには深紅の瞳が縦に三つ並び、
頭の付け根には口があった。否、孔が空いていた。そこからはタコの腕のような、ミミズのような、触手が生えていた。蠢き伸び、縮みぬちゃぬちゃと湿った音を響かせていた。
べちゃり。斎場に饐えた臭いと重い音が響く。
それは節くれ立った、至る所に関節のような瘤のある三対の腕を持っていた。ゆらゆらと蠢き、曲がり、先端に生えた爪は戦慄いていた。腕が振られるたびにびゅうと風を切り、軋むような音が響いた。
その背中には星々のごとく煌めく羽根が見えた。忌まわしい姿形に似つかない神々しい光に照らされ、異形の姿が浮かび上がった。まるで後光を抱く神の様な、異形の姿が浮かび上がる。
べちゃり。粘液に降られた木は、葉を白く縮らせ枝を落とした。地面の草は見る間に萎れ黒く染まり、そして腐り消えた。
『星の巡りに一つ、血を一つ、その手で捧げよ』
何かが頭の中に囁きかけた、そんな気がした。一筋の毛ほどの感情もない、冷静で冷徹で冷酷な要求。ちらと頭を上げると、深紅の三つの瞳が、じっと真っ直ぐに
べちゃり。
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