第三話 二〇XX年八月十五日~八月十八日

朝比奈家 二〇XX年八月十五日


 八月十五日、澄んだ青空が広がり、明彦の屋敷はほんの少し静かな空気に包まれていた。葬儀での緊張と人いきれが去った後、家は新しい日常への変化を迎えていた。


 花音は玄関で家族たちとの別れを惜しんでいた。孫たちが帰宅するのを見送りながら、彼女は手を振って「気をつけて帰ってきんせ」と声をかけた。


 真と美咲も荷物を持ち、玄関へと歩を進めた。真は花音の手を優しく取り、「母さん、何か困ったことがあれば、すぐにでも電話してね」と言った。


美咲も「お義母さん、私たちも心配していますから、何かあったらすぐに知らせてください」と続けた。


 花音は微笑みながら、「ありがとう、心配しなくても大丈夫ばい。水野さん達もいるし、鈴郁とうっとりしとるけんね」と答えた。


 鈴郁と花音は二人並んで屋敷の門を出て行く車を見送った。


 鈴郁と花音は屋敷の大広間で、葬儀に寄せられた多数の電報や供花を前に、少し途方に暮れたような表情をしていた。大広間いっぱいに広がる花々の香りと、読み取るのが追いつかないほどの電報。それは明彦の人望の深さを物語っていた。


 花音は、一つ一つの供花を手に取り、添えられたメッセージを確認していた。それに合わせて、鈴郁は電報を読み上げる。多くの人々からの感謝の言葉、追悼の言葉。明彦がどれだけ多くの人に影響を与え、愛されていたのかを、二人は改めて感じ取っていた。


「ねぇおばあちゃん、弔問に来てくださった鹿沼教授って、おじいちゃんの教え子やったと?」


「鹿沼君は大学じゃなくて私塾の生徒さんやったとよ。押しかけ書生みたいやったねぇ」


 家政婦の水野が、静かに広間に入ってきて「奥様、鈴郁さん、お手伝いしましょうか?」と声をかけてきた。鈴郁は感謝の意を示しながら、「ありがとうございます、知子さん」と応えた。


 三人は共に電報や供花を整理していきながら、明彦の思い出話や、過去の楽しいエピソードを語り合った。屋敷は静かであったが、話題は尽きることがなかった。



朝比奈家 書斎 二〇XX年八月十七日


 明彦の書斎は屋敷の一階、一番奥に位置していた。部屋のドアを開けると、まず目に入るのは二階まで吹き抜けになった高い天井と、その下に広がる大きな窓から差し込む柔らかな日差し。その窓辺には、高さの異なる多肉植物や観葉植物が美しい器に入れられ、きちんと手入れされて並べられている。


 書斎の中央には、大きなオーク製のデスクが鎮座しており、その上には文房具やノート、そしていくつかの著書がきちんと整理されている。デスクの背後には、豪華な装飾が施された革張りの大きな椅子が設置されており、そこに座れば家の庭や遠くの山々を一望できる。


 しかし、一番の特徴は書斎から続きになった蔵書庫だった。両開きの扉を開き部屋へ入ると、全ての壁とさながら迷路の様に部屋を埋め尽くす大量の本棚だった。並べられた数々の本は、古今東西の文献、学術書、小説、歴史書など、多岐にわたるものである。入り口の脇にはカードボックスが設置されており、明彦がどれだけこの蔵書を大切にしていたかが伺えた。


 鈴郁はその豊富な蔵書の前に立ち、いつもの事ながら圧倒される。彼女が探している本を見つけることは、一筋縄ではいかないかもしれない。深呼吸をして、彼女はまずカードボックスから目録を手に取り、大学のゼミでのテーマに関連する蔵書を探し始めた。


 時計を確かめることも忘れ、鈴郁は夢中で本を探し続ける。時折、手に取った本のページをめくっては、興味深そうに内容を確認し、彼女の知識欲を満たしていく。夕方近くなって、ようやく彼女が必要としていた数冊の本を見つけ出すと、満足げな笑みを浮かべ書斎へ戻った。柱時計でそろそろ夕食の時間である事を知り、抱えた本の山を“おじいちゃんの机”に積み上げ、一番上の本だけを手に書斎を後にした。



 蔵書庫での一回目の調査を終えた鈴郁は、目に付いた一冊の書物を手に部屋へと戻る。廊下の木の床は、足音を静かに反響させる。彼女の部屋の窓からは、静かな夕暮れの光が差し込み、部屋の中は柔らかなオレンジ色に染まっている。


 鈴郁と花音は夕食のテーブルを囲みながら、明彦の思い出や、鈴郁の大学での日常についておしゃべりを楽しむ。夕食の後、鈴郁は大きなお風呂に入り、湯船に浸かりながら一日の疲れをじっくりと癒した。


 湯上がりの鈴郁の顔は、疲れがとれてほわっとしている。フワッと湯気の中から現れる彼女の姿は、まるで湯けむりの精霊のようだった。そして、浴衣に身を包んだ鈴郁は、今夜も安らかな夢の中へと旅立つ。


 部屋の灯りが消え、屋敷は深い静けさに包まれる。遠くで聞こえる虫の音だけが、夜の到来を告げている。



朝比奈家 二〇XX年八月十八日


 ふと、誰かに呼ばれた気がして目を覚ます。枕元のスマホで時間を確認した。夜の帳が下りきった深夜二時。台所へ冷たい水を汲みに行く。


 寝付けないまま二〇分ほど寝床でゴロゴロしていたが、結局鈴郁は寝ることを諦め、デスクスタンドのライトをつけ椅子に腰掛けた。蔵書庫から持ち出してきた蔵書を開く。明治時代に朝比奈家の十二代当主が羽音地区について記したその書物は四冊で一組の中の一冊目らしく、黄ばんだページと独特のインクの香りが古の時代を偲ばせるものであった。


 万年筆を用いた手書きの文字には筆圧の変化があり、それが彼の情熱や興味を感じさせた。様々な事象や伝説、そして朝比奈家がどのように羽音地区に関わってきたのかが詳細に記されている。


 彼女はページをめくるたびに、地域の変遷や当時の暮らしぶり、朝比奈家の影響力とその役割に引き込まれていった。古代の信仰や祭事、土着のしきたり。鈴郁の知らない朝比奈家の歴史が次々と明らかになる。


 だが、その中には時折、意味深な記述や謎めいた記号の様な模様が散りばめられており、それが彼女の好奇心をさらに刺激した。特に、ある祭りに関するページには、不可解な図形とともに、何かを暗示するかのような文章が記されていた。


「囊狗屢薹……? 当て字っちゃろか? のう、く、る、とう……?」


 外の風が窓ガラスを微かに揺らす音だけが聞こえ、屋敷は静寂に包まれていた。しかし、鈴郁の心はこの歴史書の中に没頭しており、夜の進行を意識していなかった。時計の針はすでに深夜三時を過ぎていた。


 窓の外は夜に覆われ、星々がきらめいている。鈴郁は一瞬、外の星空に目を向ける。しかし、その後も彼女の興味は歴史書に引き戻され、時の流れを忘れて読み続けていった。



 太陽が高く昇る中、鈴郁の部屋は静寂に包まれていた。厚いカーテン越しに柔らかな日差しが部屋を温めている。時計の針は既に一〇時を過ぎており、いつもならとっくに起きている時間だった。


「鈴郁、おはよう。もうこんな時間ばい? まだ起きんのけ?」花音の声が鈴郁の部屋のドア越しに響く。しばらくの沈黙の後、ベッドの中から髪の乱れた鈴郁が顔を出した。


「あ、おばあちゃん。ごめん、ちょいと夜更かししちょったばってん……」


「その“ちょいと”って、どれくらいのもんなん?」ドアを開けた花音はあきれた顔で問いかける。彼女は鈴郁が蔵書庫に夢中になっていたことを知っていたからだ。


「えと、深夜一時ぐらいまでばってん」鈴郁が恐る恐る答えると、花音は大袈裟にため息をついた。


「おじいちゃんの本に夢中になっちょったん?」


「そうよ、めっちゃ興味深かったんばってん。特に羽音地区の歴史とか…」


「あん人も研究熱心やったけんな。でも、鈴郁も体調に気をつけなんせよ」


 花音は心配そうに孫娘を見つめた。しかし、その目にはわずかな笑みも浮かんでいた。鈴郁が家の歴史や文化に興味を示していることが、どこか嬉しくもあったのだ。


「ごめん、おばあちゃん。今日はちゃんと早よ寝るから」


「それを聞いて安心したわ。さて、朝食はもうちょっとだけ温めてもらっとくけん、早よ顔洗ってきんさい」


 鈴郁は手を合わせて謝った後、急いで部屋を出て行った。花音は微笑みながら部屋を後にし、キッチンへ向かった。

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