第二話 二〇XX年八月十三日~八月十四日

福岡空港 到着口 二〇XX年八月十三日


 福岡空港の到着口を出ると、鈴郁の目前には懐かしい光景が広がった。エアコンの効いた空調は東京と変わらないように思えて、それでも空気感は帰ってきたことを実感させた。空港のモニターには「ようこそ福岡へ」との文字が大きく踊っている。


 「……朝ご飯食べてこんやったし……」

ふと、遠くからの美味しそうなトンコツの香りが漂ってきたような気がし、空腹の胃袋を刺激した。三階のレストラン街に思いを馳せ、しかし、目の前のコンビニで水と個包装の焼き菓子を買った。


 出口へ向かい、時折流れるアナウンスや周囲の人々の声、そして子供たちの笑顔や、観光客らしい家族連れの賑やかな会話が聞こえてきた。それに混じり、空港特有の飛行機の離着陸の音や、スーツケースを引く音がリズムのように響く。


 空港の出口に足を踏み出すと、真夏の熱気が彼女を包み込む。手にしたスーツケースの取っ手が汗ばんできた。近くの高速バス乗り場へと向かう。


 乗客の列に並ぶ中、鈴郁は実家のこと、そして祖父のことを考えながら待っていた。やがて彼女の番が来て、リムジンバスに乗り込んだ。ドアが閉まると、外のざわめきがぐっと小さくなり、心の中のざわつきだけが響いてきた。



 福岡空港からのリムジンバスは、その名の通りゆったりとした座席と静かな車内音で、鈴郁に心地よい時間を運んでくれた。


 バスの窓からは変わりゆく風景、そして幼少期を過ごした街の景色が流れていった。バスが街を抜け、郊外へと進んでいくにつれて、鈴郁の胸の高鳴りも大きくなっていった。


 終点のバス停で降りた後、鈴郁はタクシーを拾い、家までの最後の道のりを進めた。短い道のりでありながら、その中には様々な思い出の場所が詰まっていて、彼女の心は複雑な気持ちで満ちていった。


 やがて、鈴郁の幼少期を過ごした実家が現れた。日本家屋の美しい造りと広大な庭が広がり、それを取り囲むように古木が立ち並んでいる。


 タクシーを降り、鈴郁は門をくぐり実家の土を踏んだ。彼女が実家の敷地に足を踏み入れると、気配を感じて、家政婦の水野 知子が家の中から出てきた。


「お帰りなさい、鈴郁さん。お待ちしておりましたよ」


 水野の安心するような声と、やさしい笑顔に迎えられ、鈴郁は疲れと心のざわつきが少し和らいだ。


「お父さま、お母さまももうお帰りになってます。お部屋は用意してありますので、少し休んでくださいね」


 鈴郁は深く頷き、「ありがとう、知子さん」と感謝の言葉を述べた。中庭には彼女の両親の姿も見えた。


 彼女の帰宅を知り、母親は涙ぐむ目をこちらに向けていた。東京では聞かないセミの声だけが遠く近く聞こえていた。



朝比奈家 大広間 同日


 八月十三日の夜。朝比奈家の大広間は、家族の温もりでいっぱいだった。古き良き日本家屋の雰囲気が漂う部屋には、大家族が揃って長いテーブルを囲み、灯りの下で様々な話に花を咲かせていた。


 鈴郁の祖母、花音カノンは、上座に座り、どこか悲しげに周りの家族を見つめていた。彼女の隣には鈴郁が座っており、真と美咲の間に生まれた一人っ子として、祖母との絆は特別なものだった。


 朝比奈家長男の真は、明彦オヤジとの昔の話をしながら、美咲に向かって「あれからもうこんなに年月が経つんだね。鈴郁も大きくなったし、おヤジも喜んでいるだろう」と微笑みながら話していた。美咲も、「本当に。鈴郁がまだ小さいころ、お義父さんが鈴郁を膝に乗せて読み聞かせてくれたお話を思い出すわ」と感慨深げに返していた。


 長女の美緒と直樹は、テーブルの反対側に座っていて、直樹が最近の仕事の話をしている。美緒は、彼の話に笑顔で頷きながら、彼の手をそっと握っていた。彼らの隣には、長男の悠真と次男の航太が座っており、航太は鈴郁に向かって学校の夏祭りの話をしていた。


 次女の真理子と佑太は、少し和やかな雰囲気で、芽生の最近のかわいいエピソードを家族に話している。


 次男の智也と梓の傍らには、陽菜と樹が座っている。陽菜は、最近のダンスの練習について興奮して話しており、樹は静かにその話を聞いている。


 そして、三男の和彦と由美子の間には、美玖が座っている。彼女は、最近読んだ本の話や、夏休みの計画について家族に話している。

 

「鈴郁、大学はどげん?」と花音が声をかけた。鈴郁は、「大変やけど、楽しかよ。ゼミの先生もとても良うしてくれて、毎日充実してるちゃ」と答えた。

「それはよかたねぇ」と花音が優しく微笑む。


 食事が始まると、家族の会話は更に活発になる。この家に家族が一堂に会するのは一年ぶりだったが、その空間には愛情と絆が満ちていた。そして、明彦という存在だいこくばしらのいない食卓は寂しくもあったが、その中には家族の絆や愛情が感じられ、明彦の存在が家族を繋ぎ止めていることを実感できる瞬間でもあった。



朝比奈家 二〇XX年八月十四日


 八月十四日、夜の帳が下りると、朝比奈家は静かな賑わいに包まれていた。供花が次々と運び込まれ、入り口脇には明彦と親交のあった方々の名前や団体名が列挙された花輪がいくつも並べられた。特に地元の有力者や明彦がかつて関わっていたビジネスパートナー、そして古くからの友人たちからの供花は一際大きく、その数と質からも、明彦がどれほど多くの人々との深い関係を築いてきたかが伺えた。


 居間には、家族が弔問客を迎えるための場所が整えられ、花音が中心となって座っていた。次々と家を訪れる弔問客たちは、明彦との思い出を家族に語りながら、涙を流す者、力強く家族を慰める者、さまざまだった。


 鈴郁も、いくつかの弔問客との会話の中で、祖父明彦のこれまで知らなかった側面やエピソードを知ることとなり、特に、地域の活動に関わる団体の代表からは、明彦が地域のためにどれほどの貢献をしてきたか、その熱意と功績について語られ、鈴郁は新たな誇りを感じた。


 受付には電報が積まれており、遠方や都合で訪れることができない方々からの哀悼の意が伝えられていた。それぞれのメッセージには、明彦への感謝や思い出が綴られており、鈴郁はその一つ一つを目を通しながら、改めて祖父の大きさを思い知った。



 通夜の中盤、ふと鈴郁が玄関の方へ目をやると、中に入ってきたのは見慣れた姿、彼女の担当教授、鹿沼だった。


「先生、遠路はるばるありがとうございます」出迎え頭を下げる鈴郁に「恩師を見送るのに厭うことはないよ」と、普段通り温和な鹿沼だった。


 鹿沼は深々と頭を下げ、花音や鈴郁の両親に向かって、まずは哀悼の意を示した。そして、静かながらも堂々とした態度で、彼と明彦との関わりについて語り始める。「朝比奈先生の著書には私も大変な影響を受けました。特に、若いころに読んだある本は、大学での専攻を決定付けるきっかけとなったんです」と、鹿沼は感慨深げに瞑目した。


 鈴郁の両親や花音も、明彦に影響を受けた鹿沼とその教え子となった鈴郁という因縁に驚きの表情を浮かべた。鈴郁は、祖父明彦の影響力や、彼の著書が多くの人々に与えたその影響力に改めて思いを馳せた。


 そして鹿沼は鈴郁に目を向け「朝比奈さん、学校の方は気にせずしばらくこちらでゆっくりすると良いでしょう。なにせ君は成績優秀だしね。朝比奈先生の孫娘として、そして私のゼミの学生として、これからも君の道程をしっかりと見守りたいと思っていますよ」と力強く頷いた。


 この言葉に、鈴郁は涙が込み上げてきた。通夜の中、予想外の来訪と心温まる励ましの言葉に、彼女は深く感謝の気持ちを抱く。鹿沼の言葉は、鈴郁にとって、この困難な時期において大きな支えとなっていた。



 葬儀は厳かに執り行われた。多くの参列者が明彦の死を悼み、その業績や人柄を偲びつつ、彼との別れを惜しんでいた。



 葬儀が終わると、花音と明彦の子供たちは居間に集まり、家の将来について話し合いを始めた。明彦の死後、家を引き継ぐ当主を決めることが最初の大きな課題だった。しかしこの家族は、深い絆と信頼によって結ばれていた。だからこそ、話し合いは冷静かつスムーズに進行していった。


「真、あんたが当主となるべきだと思う」と、美緒が言葉を始めた。「父さんの考えや願いを、あんたが一番理解しているでしょ」


 直樹も頷きながら、真を支持した。「義兄さんは朝比奈の家のことをよく理解しているし、私たちも信じてるよ」


 真は少し照れくさい表情を浮かべながら、皆の目を順番に見つめていった。


「ありがとう。オヤジの遺志を継ぐこと、家を支えること、どちらも重大な責任だと思っている。私が当主として頑張ることを約束する」


 花音は微笑みながら長男であり第十五代当主となる真を見た。「父さんもきっと喜んどるばい」

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