遺された約束

棗田智紘

第一章

第一話 二〇XX年八月十二日

朝比奈鈴郁あさひなれいかの自宅 二〇XX年八月十二日


 八月の早朝、部屋にはレースのカーテン越しに金色の太陽光が差し込んでいた。朝の熱気が部屋の隅々に広がり、夜の冷え込みはもはや感じられない。


 しかし、今日の部屋の主はいつもより動きが鈍い。朝比奈 鈴郁は目をこすりながら、自分の置かれた状況を確認した。いつもの七時に起きるはずが、目覚まし時計の針が示す時間は七時二〇分。普段は七時に、日によっては目覚ましが鳴る前に目覚めるのだが、今日は何かの間違いで二〇分ほど寝坊してしまったようだ。


 鈴郁は深く息を吸い込み、微かに汗ばむ肌を感じながら、ガーゼケットを押しのけた。


 部屋の中はすでに夏の高温を感じさせており、ベッドサイドテーブルから手探りでエアコンのリモコンを持ち上げ、設定温度を下げる。


 ベッドサイドのドレッサーに向かい、そろそろ腰に届くかと言うほどの長髪を手早くまとめかんざしで留める。顔を洗い、急いでカジュアル目な服に身を包んだ。


 何となく頭が重い感じがする。夢の断片が思い出せない中、何か不快な感じが頭の片隅に残っている。


 キッチンへ足を運ぶと、すでにコーヒーメーカーが黙々と作業を進めている。昨晩、タイマーをセットしておいたのは賢明だったと、鈴郁は自分を褒めるように思った。


 急いでトーストを焼き、バターを塗りながら氷で満たしたマグカップにコーヒーを注ぐ。少し焦がしてしまったトーストの香ばしい匂いが、キッチン中に広がる。


 食事を終え、鞄をひょいと肩にかけると、玄関へと足を運ぶ。出かける前の最後の習慣として、ミラーで自分の姿を確認する。服がきちんと整っているか、ヘアスタイルに乱れはないか。細部にまで注意を払い、自分の姿に満足すると玄関のドアを開ける。


 大学までの道のりを自転車で駆け抜けるのは、鈴郁にとって特に意識しなくても行けるほど慣れ親しんだ日常。


 しかし、今朝の彼女は心がざわざわとしている。何か重要なことを忘れているのではないか、そんな感覚が彼女につきまとった。その気持ちを振り払うように、彼女は大学への道を急いだ。



城南大学 同日


 城南大学の学食は、昼の時間帯になると湧き上がるような賑やかさに包まれていた。様々な学部の学生たちが集い、その日の講義や最近の話題、休日の計画などを楽しそうに話している。天井からのクーラーの風が広大な食堂内に心地よく流れていた。


 鈴郁は、券売機の前でふと立ち止まった。多くのメニューの中から、どれにするか選ぶのは毎日の楽しみでもあり、小さな悩みの種でもあった。券売機の横に掲示された写真は焼き魚定食、カツカレー、ざるうどん、夏野菜のサラダ…どれもおいしそうで選ぶのが難しい。


 そんな鈴郁の後ろから、「れーちゃん!今日は何食べるの?」と、元気な声が聞こえてきた。それは、彼女の親友である菱沼更紗ひしぬまさらさの声だった。生年月日が三日違いの幼馴染みで幼稚園から小中高、そして大学まで一緒の公称腐れ縁。髪をショートカットにして普段から活発な彼女は、夏の日差しを受けて更に輝いて見えた。


「更紗、おはよ。ちょうど何にしようか迷ってたところ。カレーもいいけど、うどんも涼しそうでしょ」鈴郁は手を振りながら、メニューの看板を指差した。


 更紗は頬を掴みながら考え込む仕草をして、「そうねぇ、この季節、ちょっと辛めのカレーが体にしみるよね。でも、ざるうどん……。冷たくてシャキシャキの山盛りサラダ……」


 困り顔で悩み出した更紗を横目に鈴郁は食券を買う。「私カレーにする。さっきの講義、教授の話しっかり聞けた?」鈴郁は更紗に軽く肩を叩きながら、先ほどの講義の話題を振った。「本当に!あれ、試験に出るのかな?後で資料見直さないとあたしダメだと思う!」更紗は意気込むように言った。


 二人は結局、カレーとざるうどん、それぞれの選択をして、食事を楽しむことになった。券を手に学食内を歩きながら、今後の休日の過ごし方や夏休みの計画について、楽しく会話が弾んでいった。



城南大学 ゼミ室 同日


 夕方のキャンパスは一日の疲れを感じさせる静けさに包まれていた。


 太陽がゆっくりと地平線に近づく中、オレンジ色の光が木々の間を縫って散らばっていた。遠くの運動場からは部活動をしている学生たちの声が聞こえていた。


 ゼミの教室の隅で、鈴郁は研究テーマに関連する教材を静かに読み進めていた。彼女の周りには関連書籍や資料が広がり、彼女の研究に関するメモが散見された。外の活動とは対照的に、教室内は静かで、風が紙を軽くめくる音だけが際立っていた。


 鈴郁がゼミの課題に集中していると、スマホが振動で彼女の注意を引きつけた。新しい通知が点滅しており、彼女は迷わずメッセージを開いた。父からの短いメッセージが表示されていた。


「鈴郁、悪い知らせだが、おじいちゃんが亡くなった」


 彼女の目には驚きと悲しみが交錯した。手にしていた本をゆっくりとテーブルに置き、祖父、明彦との共に過ごした時間や彼からの教えを思い返した。縁側での会話や彼の温かい手の感触、肩車のときの高い視点、それらの思い出が彼女の心に浮かび上がった。


 ゼミの窓から差し込む夕日の光の中、鈴郁はしばらく動かず、その場に座ったままだった。スマホの画面に映る訃報の言葉をぼんやりと眺めながら、彼女の中では祖父との日々が鮮明に思い出されていた。


 キャンパスの風景や教室の音、そのすべてが遠く、彼女の中で唯一リアルに感じられるのは、祖父との思い出だけだった。



鈴郁の日記 二〇XX年八月十二日


 ちょっと寝坊はしたけどなんの変哲もなかった今日、思いもよらない出来事が訪れた。夕方、ゼミの教室で新しい教材に目を通していると、メッセが届いた。なんとなくいやな予感がした。おじいちゃんが亡くなったとの知らせだった。本当に信じられない……。


 言葉を失って、教室でしばらく動けずにいた。教室に来られた鹿沼かぬま先生に明日からの帰省を告げた。すると、鹿沼先生は意外にも懐かしげにおじいちゃんの名前を口にして、学生時代、おじいちゃんの研究に大きく影響を受けたと言い、休むことについて非常に理解を示してくれた。その上で、何か助けが必要な時は言ってほしいと熱心に申し出てくれた。教授の優しさに、少し落ち着きを取り戻した。


 そのまま帰宅し、まずは帰省のための荷造りに取りかかった。無心に準備をしていても、おじいちゃんとの幼い日の思い出が次々と蘇ってきた。その中でも、夏の日差しの下、縁側でスイカを分け合った日が鮮明に思い出された。あの日、蔵をこっそり探検して叱られてしまった後、仲直りのスイカの甘さは特別だった。幸せな日々を思いだし、寂しさを感じた。


 明日、朝一番に実家へ向かう。今夜は、おじいちゃんとの思い出を振り返りながら、静かに眠りたい。

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