8章9話 摂政ツィツェーリア *

【新帝国歴1140年7月27日 アルトゥル】


 ヴォルハイムとランデフェルトの間で今後についての話し合いが持たれた、まさにその夜のことだ。ヴォルハイム側の正式な決定には至らず、持ち帰って改めて正式な返事をするという話にはなっている。

 今日も晩餐会が設けられているが、この日はアルトゥルは、気分が優れないということで自室に籠ることにした。代わりに摂政ツィツェーリアが出席しているので、自分がいてもいなくても、大きな違いはないだろうと、そうアルトゥルは考える。


 どうせ今回の婚姻についても、ツィツェーリアが決めるのだ。大公位についてから4年半になるが、実質的な決定を下しているのはアルトゥルではない、ツィツェーリアの方だ。

 とはいえ今回の取り決めについては、ツィツェーリアと言えど即決はできないのかもしれない。相手との合意に基づくことでもあるし、現時点では自分たちの側が把握できないことが多すぎる。


 そんな考えが引き寄せたのかもしれない。音もなく続きの寝室の扉が開き、一人の人物が入ってくる。背の高いその人物は、手にした燭台をテーブルの上に置く。そして、蠟燭の灯りがその顔を照らし出す。

「……叔母上」

 その呼称は、二人の力関係を示すものだった。ツィツェーリアは公的にはアルトゥルの臣下、実際には叔母と甥だ。だがそれ以上に、現在のツィツェーリアはヴォルハイムの実権を握っている。

 とにかく今は夜も更けている。もう晩餐会の席は終わり、ツィツェーリアも部屋に戻ってきたのだろう。アルトゥルの隣の部屋が、彼女には宛がわれていた。晩餐会と言うことで甲冑姿ではないが、摂政となってからのツィツェーリアは宴席でも男のような服装をしていた。


「大公殿下は、体調が優れないのかな?」

「……私にだって、一人で考えたいときはあります」

 自分が考えたところで、その考えをツィツェーリアが意に介するかは分からない。そんなアルトゥルの捨て鉢さを感じ取ったのかどうか、ツィツェーリアはアルトゥルに水を向ける。

「どうお考えかな。今日の話し合いについては」

「どう、とは」

「取り決めの如何について、大公殿下のお考えを伺いたい。おかしなことではないだろう?」

 ツィツェーリアは両腕を広げる。

 アルトゥルは少し考える。ツィツェーリアの摂政としての役割は、本来アルトゥルが長じるまでのことだった。だが彼女は実権を自分に譲る気などないだろうと、そうアルトゥルは決めつけていた。それとも、年若いアルトゥルの判断を補佐し、政治と大局観について教育するためと、本当に彼女は考えているのだろうか。

 いずれにせよ、現状では多くのことがツィツェーリアの一存で決められている。アルトゥルがリンスブルック侯爵息女、ヴィルヘルミーナに探りを入れたのも実際にはツィツェーリアの入れ知恵、実質的には命令にも等しい指示によってだ。

 だから、アルトゥルが自分の考えを彼女に伝えるなら、注意しなければならない。

「……あまりお話しすることはできませんでしたね。あの方とは」

「あの方?」

「『救世の乙女』、です」

「ああ」

 それだけ答えると、ツィツェーリアは笑う。『救世の乙女』というその称号が、白々しい名ばかりの称号だと言わんばかりの笑い方だった。

「何故笑うのですか」

「彼女はもう人妻なのだから、乙女は称号として相応しくないな」

「私はそんな話をしたいのではありません。彼女について、叔母上はどうお考えですか?」

「何が言いたい?」

「あの人が、本当に世界を救ったんでしょうか」

「私自身が知る事実としては、そうだな。父君を殺した遺構を止めたのは彼女だ。彼女が行ったら、遺構は止まった。それから、8年前の災厄の大量発生も、彼女が大遺構に向かい、それらを止めた。それ以上のことで、言えることはあまりないな」

「…………」

 アルトゥルは考え込む。その話だけから行くと、あの彼女が災厄や遺構と敵対する存在なのか、それともそちら側の存在なのか、それすら判然とはしない。だが少なくとも、子を成したということは、人間であることは確かなようだ。そして、災厄や遺構の側にいて、またそれらを制御しうる人間が存在するような理由は、今のアルトゥルには思いつかない。

「あの人は、実際にはどんな人なんでしょうか」

「聡明な女性であることは確かだ。まあ、生まれの問題と、そこからくる諸々の話については、是とも非とも言いかねるが。……だが、それは君にはどうでもいいことなんじゃないのかな。君が結婚するのはアリーシャ殿じゃなくて、その娘なのだから」

 そろそろ、ツィツェーリアの素の態度が現れつつあった。まるで年端も行かない子供に対するように、君、と、ツィツェーリアは呼称する。

 アルトゥルは、次第に大人になりつつある。一方で、生まれたばかりの赤ん坊。その二人の間で結婚生活など、今は全く考えることができない。それは紛れもない事実だ。

「……ですが。婚姻の正式な取り決めは、彼女が16歳になってからのはず。それまでは断定的なことは言えないのでは?」

「じゃあ、彼らの希望を呑むのかな?」

 どうやら、ツィツェーリアはこれが聞きたかったようだ。実際には選択の余地はほぼない、だがどこかに自分の自由な意思が生き残る可能性がある、それはこの場において、唯一の救いだった。

「あまり、断る理由は思いつきませんね。婚姻の契約に但し書きがついたとはいえ、こちらの思い通りに話は運んでいるとも言えるのでは」

「ああ、表面上は。だが、波風が立たないということは、相手の希望を少なからず受け入れることも意味するからな」

「波風を立てたいのですか?」

「そうは言ってないさ。細かい条件で妥協しないことだけ、気を付けなくてはね」

 そんなことを言うツィツェーリア。アルトゥルはふと、あることが気にかかり、それを口にする。


「叔母上」

「何かな?」

「何を恐れていらっしゃるんですか?」

 恐れ、アルトゥルはそう言った。死すら恐れぬ女将軍、戦場の鬼神の生まれ変わり、ツィツェーリアはその評判に違わぬ人物で、今まで人からこんなことを言われたことはないかもしれない。ということは、それを聞くことができるのは、アルトゥルだけということだ。

 今度は、ツィツェーリアが黙る番だった。ややあってから溜め息を吐き、それからツィツェーリアは再び口を開く。


「大公殿下。アルトゥル。君は、ヴォルハイムが強国だと思うか?」

「はい」

 間髪入れずにアルトゥルは返答する。それが、彼が生まれてからずっと受けてきた教育であったが、それに反するような現実をアルトゥルは目にしたことはない。

「それが間違いだ。我ら同盟諸国は、いくつもの小国に分かれていて、それぞれに国力が分散している。他の地域では今や力ある指導者のもと、それぞれが一つの大国家にまとまろうとしている。この状況において、我々は不利だ」

「では、同盟諸国の併合を?」

 ぎょっとしてアルトゥルは声を上げ、それからしまったと思い、そんなことをしても意味はないのだが、周囲を見回す。いくらなんでも、ここはランデフェルトの本拠地だ。

「武力で従わせるのは難しいな。現状では大義名分もない。……だが、我々には鍵がある」

「鍵とは?」

「空位となった皇帝の座だ。皇帝不在の新帝国、その帝位を我等のものにできれば、問題は全て解決すると思わないか?」

「…………」

 アルトゥルは考え込む。失われし帝国は存在していた、そして、世界各地に存在する遺構は、その帝国が残していったものだ。そのことは、この世界の支配層にとっては疑うべからざる歴史の根幹となっていた。だが、その帝国が本当はどんなものだったのか、その実態に関する歴史は、この世界から失われている。

 遺構や災厄がこれまで人間たちが考えていたようなものではなかったとすると、帝国の意味合いすら変わってくるのではないだろうか。その帝位を手に入れる、それは一体、何を意味しているのか?

 だが、ツィツェーリアは笑うのだ。まるで、アルトゥルの心の裡を見透かしたかのように。

「そんなことはどうでもいいんだよ、大公殿下。これからは人間の時代だ。人間の心をどう掴み、制御するかだ。災厄という重石が取れたことで、世界情勢は不安定になりつつある。その波をどう渡っていくか、我らがどうやって生き残るのか、それこそが問題だ」

「……それで、この婚姻ということですか」

「そうだ。アリーシャ殿の起こした奇跡は、まるで彼女が帝国の正式な継承者と言わんばかりだ。こちらとしてはそれを利用しない手はない。だが、それには彼女の身分が邪魔をする。ランデフェルトを挟んでおくぐらいがちょうどいいだろう」

 もし彼女が然るべき身分の生まれだったなら、と、一瞬アルトゥルは考えてしまう。あの彼女に対しては正の感情も負の感情もないアルトゥルだが、15歳も年上で、別の男性と恋仲にある女性と結婚させられることになった場合のことを考えると、それはあまりにやりきれない話だ。そう考えると、アルトゥルにとってはどちらかと言えば、良い方に物事が流れているのかもしれない。


 だが、一つだけ、アルトゥルにも言いたいことがあった。

「……叔母上」

「何だろう」

「……あなたは、私の全てを手に入れましたね。大公国の実権も、将来の決定権も。それから、母も」

「…………」

 アルトゥルのこの言葉には、ツィツェーリアは黙って肩を竦めるだけだ。


 アルトゥルの母にして、今は故人となったツィツェーリアの双子の兄マクシミリアンの妻、レオノーラのことだ。彼女はレオノーラは29歳で、ツィツェーリアよりは10歳も若い。つまりアルトゥルが生まれた時は、わずか15歳だった。

 若い君主に代わって政治を担当する摂政となるのは、母親とその縁者であることが多い。だが、レオノーラはその役目をほとんど全て、ツィツェーリアに任せてしまっている。

 この理由について、アルトゥルには察しがついている。レオノーラは、ツィツェーリアに夢中なのだ。年若くして亡くなった夫の面影を見出していると言えば聞こえはいいだろう。彼女らがまめに行っている私的な会合の間で何をしているのか、単なる女同士の清らかな交情でしかないのかはアルトゥルには分からない。

 とにかくレオノーラの心はツィツェーリアのもので、アルトゥルのものではない。一方のツィツェーリア、この底が見えないほど深くて冷たい心の持ち主がレオノーラに真の、心からの愛情を与えるようには、アルトゥルには思えない。

 

 だが、そんなことを言っても仕方がないだろう。ツィツェーリアもアルトゥルが満足するような答えを敢えて与えてやるような様子を見せることはない。


「そろそろ休んだ方がいいようです、私も。……それから、どうかご心配なさらず。私は、私の一番良い選択を」

 その言葉を聞くと、ツィツェーリアは立ち去る様子を見せる。

「おやすみ、大公殿下。どうか、一番良い選択を」

 二人の言葉が少しだけ違っていることに、ツィツェーリアは気が付いただろうか。


 アルトゥルは思い返す、昼間の会合での、ランデフェルト公の言葉を。

『一番重要なことは、結婚自体ではない。アルトゥル様がどのような未来を望まれるかということではないでしょうか。この婚約はそのため、より良き未来への布石とすべきです』

 アルトゥルは考える、自分の未来は自分のものだと。そして自分は、より良い未来を目指すべきだ。


「……私が皇帝を目指すならば。全ては、より良き未来のために」


 そう宣言したからとて、この先のことは今のアルトゥルには分からない。だがそれは、言葉に出して自分に言い聞かせない限りは、今にも吹き飛ばされて消えてしまいそうな灯火だった。

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