8章8話 未来への布石 *
【新帝国歴1140年7月27日 アリーシャ】
そんな経緯で、ヴィルヘルミーナ様の抱えていた事情は、私たちの知るところとなった。立ち入った事情を人から聞き出すことについては、やっぱりエックハルトは天才的だった。
ヴォルハイム大公国は、ヴォルハイム同盟の盟主である。それは、災厄によって失われた『帝国』を引き継ぐのに、最も相応しい、最も近い存在であるという意味でもある。
だが、数年前の災厄撃退で、その状況に変化が生じた。災厄を打ち払ったのは、現在ではランデフェルト公国の公妃であるアリーシャ・ヴェーバー、つまりはこの私だ。
これは、『失われた帝国』の版図が誰の手に渡るべきかという、盟主としての正統性の問題にも関連している。それに影を落とすのは遺構崇拝者や、それ以外にも『帝国』の神秘性を論じる思想の存在、そして各国の動向だ。
現時点では問題は表面化していないし、ヴォルハイム大公国としても紛争的な解決手段は避けたい。そこで、昔ながらの方法が解決策として登場する。そう、政略結婚だ、と、こういうことのようだった。
ヴォルハイムの若き大公、アルトゥル殿下。
彼自身がヴィルヘルミーナ様を妃、あるいは公妾、あるいはその他の何かにしたいのか、それは分からない。そもそも、御年たった14歳の大公殿下、ご自身がその意志を持つかどうかは定かではない。そうではないはずだ、というのではなく、そうなのかそうでないのかは分からない。
でありながら同時に、彼らは私たちの娘、ベアトリクスとの婚姻も考えているということだ。私は怒り出してもいいのかもしれない、だけどリヒャルトが言った通り、これは下手をすると世界の危機にも発展しかねない話でもあった。
さらにリヒャルトの話では、この話がヴィルヘルミーナ様から私たちに伝わることすら彼らの計算のうちだったかもしれない、この話が伝わるかどうかで、リンスブルック侯国と私たちの結びつきの強さを推し量っている可能性すらあるということだ。
これら全てを考え合わせるにおいて、私たちは知る必要がある。アルトゥル殿下が、いったいどういう人物であるのか。
そんなわけで、私たちは会合の席にあった。
ランデフェルト公国側からは、リヒャルトと私。ヴォルハイム大公国側からは、アルトゥル殿下と、それから、摂政ツィツェーリア様。ベアトリクスの誕生祝いの式典を3日後に控えた日のことだった。
「アリーシャ殿、久しぶりだね」
ツィツェーリア様はそう言って、軽く私の方に手を上げてみせる。その腕にはいかつい籠手が嵌められていて、公的な場では甲冑を纏うあのヴォルハイムのしきたりは相変わらずのことだった。
ツィツェーリア様の印象は、一見はあまり昔と変わらないと言えたかもしれない。非常な長身の、大仰な甲冑を身に纏った女騎士、あるいは女丈夫。ただしその目には今は眼帯が嵌められており、凄味が増している。災厄撃退以降平和が訪れたと思われた諸国だが、今では人間同士の戦争が活発化しそうな気配がある。ツィツェーリア様もそんな戦いで片目を失われたと私は話に聞いていた。
「ご無沙汰しております、ツィツェーリア様」
私は優雅に笑みを作ろうと努めながらも、身の裡に湧き上がる戦慄、この女性が場にあることの緊張感を覚えていた。
根拠はない、だけど私は確信していた。この複雑な計画は、間違いなく彼女の意志によって計画され、実行されている。アルトゥル殿下の意志の介在は分からない、だけど主導権を握るのは彼女だ。
ツィツェーリア様は自分自身は自由な女性として生き、また彼女のような女性が自由に生きられる社会を実現しようとしながらも、その実、身内を婚姻ゲームの只中に落とすことについては何らの躊躇も感じていない。それは自分の身内だけじゃなくて、私の身内についても、ヴィルヘルミーナ様についても同じだということだ。
その底知れなさを、以前の私は感じ取ることすらできなかった。考えてみれば、この封建的な社会にあって自由な女性としての生き方をあくまでも追及するのは、それは並大抵のことではないだろう。それだけの底知れない凄味がなければ、その生き方はできないのかもしれない。
ただし、それは彼女が私たちにとって敵になるということもただちには意味せず、私たちは彼女の意図や動向を、注意深く観察する必要があるということだ。それ以外のことはまだ深層に沈んでいて、私達の目には見えてこない。
そんな風に底知れないながらにこやかな笑みを浮かべているツィツェーリア様とは対照的に、アルトゥル殿下は口元を引き結んだ硬い表情だ。端正な顔立ちの少年であり、また14歳にしては発達したその骨格は、成長すればツィツェーリア様にも似た偉丈夫となることを予感させる。だが、その榛色の目にはどことない暗い影が差していて、伏し目がちにテーブルの上を見つめている。
彼がどこまで実権を握っているのか、ツィツェーリア様は彼に実権を渡すつもりがあるのだろうか。ベアトリクスとの婚約というそれについて、彼個人の希望としては明確な不同意なのか、それともただ、疑問を感じているだけなのか。それもまだ、私たちには分からない。
「……お話のありました、当家息女、ベアトリクスと、大公殿下の婚姻の話ですが」
「ふむ」
面白そうに合いの手を入れるのはツィツェーリア様。
「それが大公殿下のご意志であるのならば。大公殿下ご自身がそれを希望される、それをこの場で仰っていただければ。私たちはそのご意向に沿った形で進めさせていただきたいと、そう考えております」
意志。希望。それをリヒャルトは強調した。アルトゥル様はヴィルヘルミーナ様に対して、この婚約への懸念を示していたが、私達からその懸念を払拭するように動くのは得策ではない。彼らが望んで、私達が応えるという形に拘る必要があった。
これにはツィツェーリア様が返答を返す。
「それが殿下の意志ではないと、そう考える理由がお有りかな」
これは暗に、ヴィルヘルミーナ様の件について私たちが聞き及んでいることを示唆しているのか、単に言葉尻を捉えているのか。
「何よりも、ベアトリクスはまだ1歳です。愛や結婚のことはおろか、どんな人物へと成長するかも定かではない。我々も最大限努力するつもりではおりますが……それでもその点について無視することは、結婚の国家間契約という側面だけを強調し、人間としての結びつきの側面を弱めてしまう。それは翻って、契約の意味合い、安全保障という側面を弱めてしまう。そうではないですか」
一言一言、はっきりとリヒャルトはそれらの言葉を口にする。
「それでは、どうすればいいのかな。私は」
その言葉を発したのは、アルトゥル殿下その人だ。
「アルトゥル殿下には、ベアトリクスの成長を見守っていただきたい、まずは。婚約者として――その形が最善かは分かりかねますが、この話が出た以上は、現状において最も妥当と考えられます。そうして、彼女が成長した暁に。アルトゥル殿下と、ベアトリクス、拘束のない二人の意志によって婚姻が成立します。そういった形を、我々としては希望したい」
それが、リヒャルトの提案だった。
しばらくの間、沈黙がこの場に落ちる。
それを終わらせたのはツィツェーリア様だ。彼女は軽く含み笑いをしてから、その後の言葉を続ける。
「実に健全で、よろしいことだが。しかしながら、一つ言わせていただこうか」
「なんでしょうか」
「先程は、安全保障の側面と仰られていたな。その契約条項では、国家間の安全保障となるような要素は何一つない。安全保障を企図して結んだ契約が何食わぬ顔で裏切られる昨今にあって、どのような意義をこの婚約に付加するおつもりか」
「ええ、仰る通りです。拘束力のある婚姻契約でなければ安全保障にはならない。だが、安全保障を企図して婚姻契約を結んでも、その効力は絶対ではない。ですからこれは、両国がお互い、良好な関係をこれからも続けていきたいという、その証です。そこに我らが娘を楔として置くこと、それは我々もまた、平和とより良き未来を望んでいること、その紛れもない証左とお考えいただきたい」
それから、リヒャルトは語りかける。ツィツェーリア様ではなく、アルトゥル様に。
「一番重要なことは、結婚自体ではない。アルトゥル様がどのような未来を望まれるかということではないでしょうか。この婚約はそのため、幸福な未来への布石とすべきです。そのために私たちの力が必要であるのならば、私たちは心からそれにお答えしたい、そのように考えます」
それらの言葉を注意深く発するリヒャルトの横顔を見ながら、私は感じていた。
きっと、彼はアルトゥル様の内心を気にかけていて、それは二人の境遇が奇妙に似通っていることに起因するのだろう。だからもしかしたら、内心を見せようとはしないアルトゥル様にも、リヒャルトの言葉が届くかもしれない。あるいはそれはこちらの勘違いというものかもしれないけれど、その理解でもって、リヒャルトは今、全力での駆け引き、勝負を仕掛けている。
より良い未来への布石、彼はそう言った。アルトゥル様がより良い未来を望んでいることは、それだけは疑いはない。そしてそれは、きっとツィツェーリア様だって同じだし、エックハルトが遺構発掘技術の使用に反対する理由も同じだ。
再びの沈黙。今度は、その沈黙を破ったのはアルトゥル殿下だ。
「安全保障は、どうする?」
リヒャルトは頷き、そして言葉を続けるのだ。
「ええ。それが次の問題です。災厄後の世界と、遺構発掘技術がもたらす潜在的な危機。それらに対処するために、我々は新たな枠組みを作る必要がある。国家を跨いだ遺構発掘技術の管理という枠組みを」
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