10章 ライフ・ゴーズ・オン
10章1話 旅の空の下で
【西暦2018年1月29日 若葉】
あの事故から、ちょうど一年が経過しようとしていた。
私が白のミニバンにはねられて大怪我を負い、一ヶ月ぐらい生死の境を彷徨い、意識を失っていた、あの事故から。その間ずっと私は、『夢』を見ていた、そういうことらしかった。
私がアリーシャの中にいた、あるいは私がアリーシャだった、13年間の記憶。それが今の私に残っている。
タイムマシンはやっぱり、元の時空と異なる時空を多世界として生成するものだったらしい。そして、これら多世界の間では情報のやりとりだけが許容されている。はっきりした証拠があるわけじゃないけど、私たちの物語を支配していた法則はそういう感じだったらしいと、今の私は考えている。
元の私の世界とアリーシャたちのあの世界が多世界として並列に存在しているのだから、あちらの世界からまた元の世界に記憶が転送されてくることだってありえる。そして私は転生したわけではないのだから、こちらの世界で死んでいた必然性はない、つまり本当は生きていた。
そして、実際には何が起きていたのか。
交通事故で意識不明に陥った私の記憶が、あちらの世界に転送されて、みんなを手助けして、大団円に導くことができた。しかるべき時間が過ぎた後、若葉の人格がアリーシャの中から消える。その拍子にその記憶が、今度は元の世界の私に転送される。つまりアリーシャの中の別人格である若葉は、元の世界の若葉ではなくてアリーシャの一部だと言える。だけど、今の私は、その経験をした記憶があるのだから、やっぱりあの世界にいた私なんじゃないかと思う。
それとも、と、私は思う。
やっぱりあの世界は現実ではなくて、夢だったのかもしれない。
いわゆる異世界転生の物語では自分自身がヒロインになれるが、そうではなくてヒロインに憑依した幽霊のような存在だった私。アリーシャの立場と自分を引き比べて、ただ死んだだけ、ハッピーエンドの当事者になれるわけでもない自分が惨めだと思い込んでいたのがあの私だったわけだ。
最後の頃の私は、随分とアリーシャに僻みっぽかったな。そんな風に私は思う。結果から言えば、彼女の身体を借りて、本来の自分には望むべくもないラブロマンスの当事者にしてもらっていただけだったというのに。たとえ私が死んでいたとしたって結論は一緒だ。それなのにアリーシャは私のために、凄まじい賭けに出てくれた。どうにも私は、あの子との人徳の差を感じざるを得ない。だって同い年になった時には、精神年齢で完全に逆転されていた。
現状に対するペシミズムと自己憐憫。考え方さえ変えれば、いくらでも幸せになれるのに。あの世界にいた私は、エックハルトがそうだと思っていた。だけど、冷静に考えるとブーメランでしかない。
今の私の話をしておきたい。髪は前と違って、ショートボブぐらいの長さだ。例の事故で目が覚めなかった私は脳機能障害を疑われて、その時に髪は全部刈られていた。目立った損傷がなく後遺症にもならなかったのは幸いだった。
また、体のあちこちに交通事故の傷跡が残っているが、致命的なものはなかった。それだけに何故目が覚めないのか、医者たちには不審がられていたようだ。
問題は目が覚めた後だった。人間一ヶ月も寝ていると、体の動かし方を忘れてしまうものらしい。最初は指一本すら動かすのがキツくて、数ヶ月はリハビリ地獄だった。今はもう、普通の人と同じように動ける程度には回復している。でもそれは、つい最近のことだった。
それから、私は勤めていた会社をやめた。ブラック企業には、過酷な労働のために給料が高いブラック企業と、過酷な労働にも関わらず安月給でこき使われるブラック企業がある。私の場合は前者で、若くして自分の墓が立つという評判のある会社だった。それから交通事故の賠償金と保険でもって、療養期間を余裕を持って過ごすことができた。
とにかく私は生きている、あんな大事故を経験したのに。そのために重篤な後遺症を負ってもいないし、経済的に困窮してもいない。だから私は運がいい、どう考えても。
で、今私がどうしているかって?
私は、やりたいことをやることにした。同人誌書くとか? そういうんじゃなくて。
今私は、ドイツの中西部の小都市にいた。世界中を見て回るのは、アリーシャだけじゃなくて、確かに私の夢でもあった。当然でしょ? 歴史オタクとしては。
今は冬で、薄暗くて、寒い。連日朝から晩まで薄曇りが続いている。この地域を旅行するには不向きな季節だが、夏の旅行シーズンはいくらなんでも高い。ダウンジャケットに帽子、レッグウォーマーまで装備しても、東京の気候に慣れきった私の感覚では十分とは言い難い。
この旅行で私は残った貯金を全部とは言わないまでも、大半を使い果たしてもいいぐらいのつもりだった。だから今の私は、あてのない旅をする無職の旅行者。ラブロマンスのヒロインには程遠いかもしれないけど、それでも自由だったし、幸せだった。
私は恵まれている。そうだ。
『生まれ変わったら今度は、男心を狂わせるような妖しい魅力のある女性に転生したい』
『ダサい今の私のままでいいから、もう一回私のままで生きることを認めて』
その願いは、実際には両方とも叶っていた。私はあの世界でも私のままで、私のやりたいことをして、言いたいことを言って、本当にどうしようもなく私だった。男心を狂わせるような妖しい魅力のある女性と言えば、敢えて言うならアリーシャがそうだけど、それよりも、狂気に冒された男から熱烈に愛されて、それで彼をさらに狂気に追いやってしまった。
私が自分を死んだものだと思い込んでいたことで、エックハルトを酷く苦しめていた、そのことは今でも心の痛みになって残っている。例の事故の直前の私は、死んで不遇な人生とおさらばして、生まれ直して美しく恵まれた誰かと幸せな恋愛をすることを望んでいたんじゃないかと思うけど、人が死ぬというのはそういうことじゃなかった。感情を向けている誰かがこの世にいない、それだけのことで人間はボロボロになれる。だけどそれも全部一人の人間の心の中で起きていることで、それは彼が生きているからこそ起きる感情で、その痛みは彼が人生で味わってきた辛酸の分だけ余計に真実味を持っていて、それが私には愛おしい。
私はエックハルトを、男性として愛していたのか、それは正直なところ、私には分からなかった。というか、私は彼を、母親のように愛してやろうと必死だった。だって彼に必要なのは恋人じゃなくてママだし、それに私の体はアリーシャで、私の心はアリーシャの一部で、それを超えた振る舞いをすることは、彼女の自己同一性や一貫性を侵害することになりかねないから。
だけどきっと、そんなことは問題じゃなかったのだ、彼にとっては。ただ愛すること、人間への愛だけが、人並み外れた魂と精神を生命の熱を持った肉体に留めておいてくれるのなら。
彼は罪深くて、そして弱い人間だった。剣呑で、人を利用して、傷つけて、そのことで自分も傷ついて、孤独に陥って、また自分を傷つけて。それでも、堕落しないで自分の人生で立っていた。あの彼の行状を見ながらそう思うのはおかしいかもしれない。それでも私は、エックハルトの魂は堕落していなかった、そう思う。彼は高潔だった、自分自身に関すること以外は。
あんな風に傑出した人間には、きっと普通であることは望めない。その傑出をその人生では十分に発揮することができず、悪い方向に曲がってしまっていても。だから必要だった、あんな風な異常な状況で、私みたいな異常な存在にだけ向けられる愛が。
でも認めたくなかった。そのことを。
だから、何度も何度も逃げ出そうとして、そうすればそうするほど私は昆虫採集の標本みたいになって、蛇に睨まれた蛙みたいになっていった。私は本当にビクビクしていた。
そうだ、私はエックハルトが怖かった。『若葉』としての『私』は、本当はアリーシャなんかよりもずっと怯えていて、いつも彼の前ではビビリ上がっていた。強気な言葉や振る舞いなんて全部虚勢で、本当は私が今にも逃げだしそうになっていることの証拠でしかなかった。
何故って? 私は男性が、本当は怖いんだと思う。それにいくらエックハルトの人生に無償の愛が欠けていて、自分のことを愛せなかったとしたって、彼は私よりずっと強い存在だった、本来ならば、自分の本当の力に気が付きさえすれば。そして私が本当は、こんなにちっぽけで平凡で弱くて、そして愚かな人間だということに気がついてしまったら。そうしたら彼は私を見出したその目で、私を見過ごしてしまうだろうと、そう思っていた。
だけど、きっと違っていた。エックハルトは、私が思っていたのとは違っていた。どんな人だったと、私に別の言葉で表現することはできない。エックハルトはエックハルトだった、他に言いようがないほど彼は彼だった。
「あなたを愛している。年月が経って、あなたがおじいちゃんになったとしても。あなたが美しくなくなっても、強くなくなっても、賢くなくなってしまったとしても。不毛な愛からあなたが立ち直れなかったとしても、いずれ壊れてしまっていたとしても。だって、他にはいない、どこにも。誰もあなたの代わりはできない」
私は冷たい風、誰もいない空間に向かってそっと呟いた。
この街は、アリーシャとして私が見ていた街に少し似ていて、でもやっぱり違う。よく似た歴史的発展を辿っていても、それでもどうしようもない経緯の違いは、やがて大きな文化的差異に集積していく。だからこの街にはいない。アリーシャも、リヒャルトも、みんな。年代を換算すると、もう皆とっくに死に絶えている時代だろう。でもこの世界では、いなくなったのじゃなくて存在していたことがない。あの子たちが本当に生きていたのか確かめる術は存在しない。それは私には寂しくて辛い。
「……会いたいな」
そんな風に私は呟く。でも、私には何もできない。自分にできることをするしかない。
この街の自転車屋はレンタルサービスも提供していて、ちょっと高そうなロードバイクとヘルメットを借りて街中を疾走することもできる。ヨーロッパの自転車乗りは、すごいスピードで車道をびゅんびゅん走っていくのだ。そういうの、ちょっと真似してみたいじゃない?
だが、根本的な問題があった。
私は体の動かし方が下手だったのだ、それも絶望的に。
「ご、ごめんなさい!!」
謝ってしまう、思わず日本語で。
筋力不足で真っ直ぐ走らせられず、歩道の端に立っていた若い男性に自転車で突っ込んでしまったのだ。
「…………」
被害者の男性は濡れた石畳の上で仰向けになっていた。勢いはなかったので頭を打ったとも思えないけど、でもあまり自信は持てない。
(賠償とかになったりする……? 旅行保険効くかな? いやそうじゃなくて、大丈夫この人?)
私は男性の傍に膝を付いて、様子を確認する。黒いダッフルコートにジーンズ、スニーカー、さりげなく高そうなマフラーと手袋。痩せていて背の高い青年だった。地元の人らしいいでたちで、私の基準からすればこの寒さの中では薄着だと言えた。
その背格好、その指の長さ、その黒髪。
猫の目のような、満月のようなその虹彩の色。
私の認識が歪む。
頭がおかしくなりそう。もうおかしくなってる。
だって。
「……エックハルト」
彼は微笑む。
「やっと、会えた。本当に。……若葉」
忘れもしないあの顔。
正確に言えば完全に同じ姿ではなくて、少しだけ違っていた。心なしか背が高くなったような気がするけど、それは私がチビ女の自分の体に戻っているからなのか。髪は肩より短いくらいの長さで、それに緩くウェーブが掛かっている。それに髭の剃り跡とかが分かる、言ってみればちょっと、現実にいそうな人間寄りの顔立ちをしている。
それでも確かにエックハルトの顔だ、私はそう思う。人を食ったような笑みを浮かべる、白皙の美青年。爆発しそうな心臓と、そこから沸き上がってくる熱い血潮。
それに、彼は私の名前を呼んだ。だから、そう。
魂が転生しているのか、それは私には分からない。もしかしたら記憶だけなのか、そうではないのか。でも、彼は、この世界にいた。最初から。あの世界の彼じゃなくて、でも、この世界で、同じ時間で生きていた。
「何歳なの? 今のその、あなたは」
「26歳。あなたは?」
(うっ……)
つまり、最初に会ったエックハルトより、少しだけ若返ったということになる。一方の私は自分の年齢を答えたくない、考えたくない。だって今までずっと、平均寿命が短くて、年齢の一歳がもっと重い世界にいたのだから。29の誕生日に死んだ、改め、意識不明になったあの交通事故からもうすぐ一年、つまり分かるでしょ?
「女性に年齢を聞くもんじゃないと思うけど。そもそも私、こっちの世界の年齢なんて教えてないから、聞いたって意味ないと思うけど?」
そんな風に、無駄に悪態をついてしまう。理不尽すぎる、自分から年齢を聞いたのに。だけど彼は静かに笑っているだけだった。
「……ええとさ。いつ、記憶が戻ったの」
そんな聞き方は不適切だろうと思う。だって、あの世界のエックハルトは、この世界のこの人じゃないのだから。
あの世界が存在していることを確実に示すもの、それがこの彼と、この私だった。一人だけに残っている記憶であれば、実際に体験したことかもしれないし、夢かもしれない。だけど、私と、彼の記憶にあったことが共通していれば、それは二人の外部で起こった出来事であり、つまり、実際にあったことになる。
「ずっと前、子供の頃から、いろいろ断片的に思い出していた。だけど、あなたに関することは思い出せなかった。覚えていたのはあなたが確かにいたことと、あなたが僕を救ってくれたことぐらいで、それ以外は何も。全部思い出せたのは、たった今」
静かな声で彼は答える。屈託を感じない、だけど静かな笑顔で、その屈託の無さはあのエックハルトとは違っていて。
ねえ、私そんな風に言われるほど、あなたに何かしてあげてたっけ? 思い出せないのは、特に何も思い出すべきことがなかったからだったりしない? あなたの屈託以外で、あなたが私に拘る理由なんてあったっけ?
屈託のある方の彼の人生、それはずっと、私にとって気になっていることだった。
「あれから、どうやって生きてた? 元気でいられた? ちゃんとご飯食べてた?」
「……その話は、また追々」
襟首を掴む勢いで訊ねる私に、彼は目を逸らす。ふうん、と、私は思う。
「ねえ、誤魔化し方が随分下手になったんじゃないの?」
「真人間なんで。今の僕は」
同じだけど、やっぱり違う。美しいけど隙がある、ちょっと朴訥としたところのある青年で、この小さくて美しい街の住人にいかにも似つかわしい。内面の暗さをそのガラスのような目に映しながら、周囲に滑らかな面を見せて武装しているあのエックハルトじゃない。今の彼こそが、本来の彼なのかもしれない。
きっと彼は、普通だけど恵まれた家庭に生まれて、幸せに育って、だから取り繕う必要なんてないんだと思う。この人が本当にあの私の拗らせ男と同じ人間だという証拠があるとしたら、その記憶の中にしかない。
それにさっきの誤魔化し方、その意味するところは見過ごすことはできない。私は彼のマフラーに手を伸ばして、両手で引っ張り、軽く絞め上げる。
「私がいない間、あんたがいい子にしてたかどうか、まずその話からお聞きしましょうか?」
「じゃあ、場所を変える?」
そんな風に彼は答える。
(前言撤回、やっぱりエックハルトだったわ)
私はそう思った。この、Sっ気とMっ気の同居というか、こっちの挑戦的言動を受け流す余裕というか。
「……若葉」
舗道に座ったままで、彼は両手を大きく広げる。
もう、私じゃない私、じゃない。私は彼に抱き付く。その腕から、胸から、生きている彼の温度が伝わってきて、私はそれに顔を埋めて、目を閉じた。
※10章以降の若葉の姿はこちら。
https://kakuyomu.jp/users/hirasawa_null/news/16818093073209194218
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