6章10話 タイムマシン行列理論 *

【新帝国歴1132年10月1日 アリーシャ】


 ディスプレイに表示されていた文章は、こんな感じだった。




『……タイムマシンが時空間に及ぼす作用を、ミンコフスキー時空において記述する試みは従来より行われてきた。しかしながらそれらの議論は、物理数学的取り扱いの厳密さを要求するためにエネルギー論に終始し、却って本来の目的に対する結論から遠ざかっている。

 この本来の目的とは「望み通りの歴史を実現するために、タイムマシンをどのように動作させれば良いのか」という題目と位置付けることができる。これは解が既知でその達成手段が未知という逆問題的アプローチを必要とする。

 そのような逆問題的アプローチを可能にするため、本理論では以下のような定式化を行う。

定式化1. タイムマシンが作用する対象である時空間のすべての要素を、無限次元のベクトル v で表現する。一般にはこの v は全宇宙空間の始まりから終わりまでを意味するが、 タイムマシンによる時空変換が相互作用しない領域は独立に取り扱うことができるので、実用上、地球上でタイムマシンが動作した時間領域だけを対象とする。

定式化2.タイムマシンによる v の変換を考えるため、新たにタイムマシン作用軸 m を導入する。ここで、時空間の座標に対応する全要素はベクトル に内包されるため、陽に取り扱う必要がない。

定式化3.問題の取り扱いを容易にするため、2の定義に加え、タイムマシン作用軸上での離散化を行う。すなわち、タイムマシン作用軸 m = 0 にあった全時空ベクトル v(0) は、m = 1 にてタイムマシンの作用による変換を受け、以下のようになる。


v(1) = Tv(0)


 この行列 T をタイムマシン行列と呼称する。

 これらの定義をもとに、全時空ベクトルとタイムマシン行列の性質について考えていくと、以下の性質が自然に演繹される。

性質1.タイムマシンは変換前の時空間により動作が決定するため、この T は変換前の全時空ベクトル v の関数となる。

性質2.全時空ベクトルがタイムマシンによる時空変換の定常解となるためには、それが自己無撞着的に導かれる必要がある。

 これらの性質について、簡単な例を考えてみたい。

 タイムマシン行列の作用によって


v’ = T[v] v

v’ = T[v’] v’


となった場合を考える。

 これは、「最初のタイムマシンの作用によって最初の歴史が別の歴史に変化し、その後は別の歴史が固定される」というケースに等しい。これはタイムマシンによる歴史改変の最も理想的なパターンである。この際、変換前の全時空ベクトル v は非定常解、変換後の全時空ベクトル v’ は定常解といえるが、この状態に達することができるかどうかは自明ではない。

 さらに重要なことは、実験者にとって v’ が望み通りの歴史となっているかは自明ではない。そのため一般に、ベクトル v’ は新たな時空変換 T[v’] ≠ 1 を生成する。

 我々の目的は、目的とする全時空ベクトルを定常解、あるいはループ定常解として存在させることである。

 ここでループ定常解の定義を行いたい。全時空ベクトルのループ定常解とは、「全時空ベクトル v0 が複数回のタイムマシン行列変換を受けた後に、また元の全時空ベクトル v0 に戻ってくる」という性質を持つ v0 を示す。これを式で示すと


v0 = T[vn]T[vn-1]…T[v0] v0

ただし

vn = T[vn-1] vn-1


となる。性質1を繰り返し用いると、上式は以下のように書き換えられる。


v0 = Tn[v0] Tn-1[v0]…T[v0] v0

Tn = T○T○…○T


この性質を満たす v0 を、実験者が実現したい歴史を与える全時空ベクトルの近似解として求めることが、タイムマシンによる歴史改変の究極的な目的となる。

 このための必要条件として、det T ≠ 0 が要求される。さらに安定的な時空変換を与えるための条件として det T = 1 が予想されるが、数学的には証明されていない。……』




 こんな文章が、延々とディスプレイを流れている。


 私は呆然とした。

 こんなの知らない。こんな文章は見たことがない。

 何か、未来の科学の理論を示しているんだろうか。タイムマシンに関する科学論文だとしたら、そんなの私に分かるわけがない。


 そもそも、『システム』は、この先に進ませる気はあるのだろうか。

 この部屋に開きそうな場所はなく、あるのはディスプレイだけ。

 前世の世界の人間であればギリギリ解けそうな問題を出してきたけど、それがどんな意味があるのかは教えてはくれなかった。

 むしろ、悪意のある罠だったのかもしれない。

 そんなことは誰も何も、教えてはくれない。

 ここまでなのか。


「う、わああああ……ああああああ!」

 私は叫ぶ。

 せっかく、ここまで来たのに。

 やけになり、私は拳でディスプレイを叩いた。


 私の手がディスプレイに触れると、それに反応して、ディスプレイが淡い、光を放つ。

 その黄緑の光は、画面の中央に集まっていって、やがて一つの形を取る。

 小柄な女性の人影。

『新井若葉』、だった。


「こんにちは、だね。……『私』」


 ディスプレイの中央、映像の中に立つ彼女、『新井若葉』はそう言った。パーカーにジーンズのスカート、レギンスにスニーカー。黒髪を一つ結びにした小柄な眼鏡の女の子。知らない人が遠目で見たら、中学生かと思うかもしれない。あれは前世の『私』、新井若葉が25歳ぐらいの頃、大学院生の若葉の姿。

「…………!」

 隣で息を飲んだ様子を感じて、私は振り返る。エックハルト様だ。

 流石にエックハルト様も、この世界的には学者と評価される前世の『私』が、こんな子供みたいな見た目してるなんて思わなかったんだろうなあ。私がその時考えたのは、そんなことだった。


『あなたは私。落ち着いてよく見れば、この理論だって理解できるはず』

『若葉』はそう言って、にっこり笑う。

 ねえどうして、『私』。こんな式、見たこともないのに。

『……この理論ね、実はそんなに難しいことは言ってない。いくつかの仮定が入っているけど、その仮定に基づけば、タイムマシンを使って自在な歴史改変をすることは非常に困難って、そう言ってるだけ。ここに書かれている内容だけからは、それ以上のことはほとんど言えない。タイムマシンの作り方自体については、何も言ってないからね』

 それから、『若葉』は視線を落とす。

『だけど、この理論がここに置かれているのは、何らかの意図があるんだと思う。つまり、システムの目的と、この理論の間には、関係がある。それから、この世界の在り方にも』


 それから『若葉』は説明を始める。

 この理論を理解するためには、何が問題となっているか、いくつかのポイントを拾い上げさえすればいい、数式のようなものは論理を補強するために使われているだけだ。

 まず、タイムマシン。

 この世界の在り方が、あの世界と違っている理由は、タイムマシンのせい以外ではない。そう言っているようなものだった。

 タイムマシンによる時空変換によって、あの世界とこの世界はつながっている。あるいは、タイムマシンによる時空変換を何度も繰り返すことで。

 それから、さっきの理論の目的。

 実験者が目指す全時空ベクトルを、定常解として導くこと。

 全時空ベクトルとは? 地球上の時間空間を包括する、歴史の流れそのもの。

『全時空ベクトルがタイムマシンによる時空変換の定常解となるためには、それが自己無撞着的に導かれる必要がある』

 これはどういう意味なのか。

 タイムマシンを一度作用させて新しい歴史を作っても、その歴史が新たなタイムマシンの作用を呼び、さらに歴史が変わってしまうなら、タイムマシンの作用には意味がないことになる。

 そして、『全時空ベクトル修復システム』とは。

 望ましくない歴史の流れを、望み通りに書き換えること、そのはずだ。大遺構突入前の推論でも、それはほぼ明らかだ。

 でも改変ではなくて、修復。

『擬似差分ノルム』とは。何と何の差分なのか。


「……もしかして」

 修復。そう、修復が目的なのだ。

 新型銃や蒸気機関車が狙われた理由は、それが人類にとって有害だからではなかった。この世界にだって、いずれは人類の存続の危機の遠因となる技術の原型は存在している。マスケット銃や大砲はその良い例だった。

 それが狙われた理由は、単に、それが時宜を得ていなかったからだ。しかるべき時代に、しかるべき場所で、その技術は形成されなければならない。さもなくば、歴史の発展の形が変わってしまう。

『そう。システムの目的は、この世界の歴史を、あの世界の歴史に修復すること。それが、ループ定常解として存在させる、その言葉の意味。そして、あの世界の歴史がタイムマシン作用軸上でより前に起こったことでなければ、あの世界の歴史を参照するという動機はあり得ない。だからね』

 淡々と『若葉』は告げる。問題の核心を。

『あの世界の歴史の人間であれば、システムは拒絶しない。むしろ、こうして何が起きたのかを伝えているし、システムの中枢に向かってあの世界の人間を招き入れている。あの世界の歴史に戻してくれる人間を、それが訪れることを、システムは待ち望んでいた』

 つまり。そう。

「私に、この歴史、を、終わらせる、引き金を引け、と」

 私はただ、震えていた。その恐怖は、システムの目的を最初に、おぼろげに認識した時とすら比較にならない。

 なんで、ねえ、どうして。

 どうしてそんな残酷な事、言うの。

 しかし、『若葉』は首を振る。

『違うよ。アリーシャはこの世界の人間。システムが望んでいるのはあの世界の人間。だからこの先に行けるのはこの私、アリーシャでない若葉だけ』

 もう十分追い詰められている、私の心臓。

 それを、どうしてまた、こんな風に締め付けるの。

 新井若葉は、歴史が好きだった。こんな風にバラバラにされる前の『歴史』が。

 私、ねえ、私。どうしたらいいの、私は。

 私は私を見捨てて、ここで置いていくの。


 画面の中の『若葉』は、照れたように頬を掻いて、言う。

『ううん、何と説明したらいいのか、ね。私、あなたには感謝してるんだ。あなたがいるから私の人生には意味があるし、私がいるからあなたの人生はそれだけ豊かになる。私はあなただけど、でもここにいる私はあなたじゃない。分かるかな。分かんないよね。ごめん』

 それから後ろを向いて、奥の方へ足を進める。

『……いいから任せてよ、私。私はあなた。だから、大丈夫』


 だけど、その時。

「……待ってくれ!」

 突然の鋭い声に、私はびくっとする。

 エックハルト様だ。

 ちょっとこの状況は、私には理解できなかった。

 なんで。どうして。

 エックハルト様は、普段からは想像もつかない、心細そうな表情だった。

「……置いて、行かないで」

 茫然と彼は呟く。

 その言葉はまるで子供のようだ。

 目に涙すら浮かべているように見える。

『若葉』は、立ち止まった。

『……もう、本当さあ』

『若葉』は振り返って、悪びれたように頬を掻く。それから少し、こちらに戻ってくる。

『あー、もう。私が、あんたのママなのか。……散々ひどい事言っちゃったのに。幸せに生きて欲しいだけなのにさ。バカだよね、本当に。まあいいや、しょうがない』

『若葉』はこちら側、ディスプレイの外側に向かって手を伸ばす。

『……ごめんね。私を私のままで、もう一度だけ生きさせて』

 ディスプレイから伸びた光の手が、エックハルト様の頭を撫でたような気がする。

『……バイバイ』

 その笑顔は、本当に屈託がなくて、溢れるような満面の笑顔。本当、中学生みたいな。ねえ、そんな顔しないでよ、『私』。

『若葉』は、また踵を返して去っていく。

 もう振り返ることはなかった。


 エックハルト様は画面を、拳で叩き、絶叫する。

「嫌だ嫌だ嫌だ行かないで、あなたがいれば幸せだ、こっちを見てくれなくたっていい、同じ世界で生かしてくれ!」

 それから、獣のような、それでいて悲痛な、言葉にならない、文字にすらできない咆哮。まるで、自分の魂と永遠に分たれてしまったかのような、そんな叫び声だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る