5章2話 君王不早朝
【新帝国歴1131年3月23日 エックハルト】
「殿下、もう8時です。そろそろ区切りをつけていただかなくては困ります」
主君リヒャルトの側近としてエックハルト・フォン・ウルリッヒは、その日課のこまごまとしたことに気を配る任を負っている。この日もエックハルトはリヒャルトの寝室に足を踏み入れるなり、そう奏上した。
外はすでにすっかり明るくなっていた。この地方では、春分を過ぎると急に日が長くなる。リヒャルトは最近不眠に悩まされていて、朝早くから起きている代わりに活動開始が遅くなりがちだった。君主としては良くない傾向だ。今日もリヒャルトはソファの上で、じっと窓の外に目を凝らしていた。
エックハルトの様子を横目で一瞥し、リヒャルトは呟く。
「……元気そうで何よりだ」
「お陰様で」
エックハルトは簡単に、それだけ答える。冬、特に1月はエックハルトが持病を発症する時期だが、この年は不思議と治まっていた。とはいえ暗い冬は誰にとっても憂鬱な時期で、心身の健康を崩しがちだ。それをやり過ごして健康に春を迎えられるのは喜ばしいことだ。
自分のことはいい、だがリヒャルトは違う。リヒャルトの身の振り方一つでこの国の在り方が決まってしまう、というのが、エックハルトの行動原理だった。
「恋の病に身をやつすのも結構ですが、公務との線引きはご自身で考えていただかなければ困ります」
「誰が恋の病だ」
「寝言で名前を呼んでいても?」
「……人の寝室に、勝手に入ってくるな」
「入ってなどいませんよ。嘘ですから」
主君に向けるとは思えないような軽口を向けるエックハルトに、それを受け流すリヒャルト。他者が介在しない場所では日常的に交わされる二人のやり取りだ。
「……はぁ」
溜息を吐くリヒャルトに、エックハルトは言葉を投げかける。
「そろそろ、潮時ですね」
「何の話だ」
「ご自分でお分かりかと存じますが。……話をしましょう。10時に、執務室で」
「はっきり申し上げましょうか。あなたの婚姻、それと世継ぎの問題です」
「…………」
その言葉を告げた時のリヒャルトの表情ときたら、それはもう酷いものだった。二人は執務室に移動していたが、相変わらずリヒャルトは、ソファに座って、エックハルトに言われるがままになっている。
「あなたが悪いんですよ。ろくろくその意味も考えもせず、婚約解消にかまけて、その後は何もしなかったのですから。何も」
最後の何も、に、エックハルトは力を込める。
「……私は。……私は」
言葉を続けることができないリヒャルト。それは、言いたいことがあるのに上手い言葉にまとめられていないのではなくて、そもそも言いたいことすらまとめられていない様子だと、エックハルトは看破する。そして、代わりに言ってやることにする。
「どうせこんなことでしょう、あなたが思っていることは。婚約を解消しなかったところで、まだ彼女は十二歳で、世継ぎなんて考えるような年齢じゃないと。それですよ、あなたの浅はかさは」
エックハルトはかつかつと、リヒャルトの周りを数歩歩き回る。威圧感を与えるためだ。
「これからちょうど良い婚姻相手を探すとして、何年がかりになるとお思いですか? それがさらに幼い相手だったら? あるいは、より薹がお立ちになった姫君ということもあるかもしれませんが。そうではなくてより年周りの近い、理想的な婚姻相手を探すことになるのであれば、それこそ念入りな準備が必要だ。時間は無駄にできません、あなたがいついなくなって、この国が後継者問題の真っ只中に叩き込まれるとも限らないのですから」
リヒャルトの父、ヴィクターは29歳で死んでいる。リヒャルトは16歳だからまだかなり時間があるが、問題はそれが戦死ということだ。一度戦場に赴けば帰って来れるか分からない、王侯貴族は王侯貴族でも、ランデフェルトはそういう王侯貴族だ。
「……なんで、結婚なんてしないとならないんだ」
弱々しい抵抗をリヒャルトは見せる。それにエックハルトは眉を吊り上げる。
「子がいなければ養子を取ったって別に構わない。自分の血が権勢を奮い続けることに拘って何になる? 私なんかより遥かに適任な者だっているだろう」
これは色々な意味で筋の通らない、君主としては失格と言わざるを得ない言葉だった。エックハルトは指摘してやることにする、それを逐一。
「愚かですね。まず、あなたが人の養い親になれるとは思えない。自分の子すら持ったことがないのに。仮にそれができたとして、養子となった者が君主の資質を備えているかなんて何も分からない。馬鹿だったら即座に放り出しますか? 最後に一つ。下心のない、それでいてどこからも文句の付かない養子縁組だったら良いでしょう。だが実際には、そんな当てはない、今の我々には。するとどうなりますか? 出自の証明のない君主が即位したら、たちまち他国から攻められ、食い物にされる。では、他国からの後見をすでに得ている養子だったら? それは、そちらの国に自分の国ごと譲り渡すことでしかない」
そう言ってエックハルトは、冷たくリヒャルトを見る。リヒャルトも冷静さを取り戻したらしく、小さく溜息を吐く。
「悪かった。お前の言う通りだ。私は、結婚したくないだけだ」
いつかは結婚しないわけにもいかない。だが、今は考えたくない。そんな話だったろう、リヒャルトが予想していたのは。だが、それはエックハルトが考えていたことではない。そしてここからが本題だった。
「いいのですよ別に私は。正妻ではなく、寵姫を迎えられるのであっても。庶子筋の者が君主となるなら、我らが因縁も少しは解消されるでしょう」
「寵姫……」
リヒャルトは嫌そうな顔だが、その嫌そうな顔は、さっきまでの嫌そうな顔とは違っていた。何かを避けていて、認めたくない。そんな顔だった。
「公妾費であれば支出できます、簡単に。逆に、それ以外は難しい。そう申し上げましたよね?」
「そんな風に考えたくないと言っただろう」
「つくづく悪い傾向ですね。全ての可能性を考慮しなければならない、あなたが君主であるのなら」
何を考えたくないのか、そして何を考えなければならないのか。
リヒャルトとエックハルトはそれを口にしていない、だが二人の間では、共通認識が成立していた。
「……嫌われたくない」
そう言ってリヒャルトは顔を覆う、自分を恥じるかのように。
「はっきりしない身分のままで貴人の子を孕って、その子を庶子として扱われることさえ許されずに社会から叩き出されるよりはましですね、私の立場から言わせていただければ」
エックハルトの言葉にリヒャルトは、明らかに怯む。恐怖した表情と言っても良かった。こんな少年に対して投げつける言葉としては最低の部類だ。だがエックハルトが舐めてきた辛酸からすれば、今の喩え話は生温い。そしてそれを舐めさせたのは、他ならぬリヒャルトの係累だ。それをリヒャルトが理解していることを理解していて、エックハルトはそんな言葉を選ぶ。
リヒャルトが理解していないこともある。エックハルト自身だって、実際の行いで言えば、自分のためだけに女たちを利用するだけ利用して捨てる男たちと大した違いはないのだから。基本的にはエックハルトは女たちとは割り切った関係しか結ばないし、いつでも手を切れるような線引きを何重に渡って行っている。でもそれは、彼がその狂気を乗りこなせている場合に限った話だ。だからエックハルトにはリヒャルトも、リヒャルトの係累も責める資格はない、実際には。そうでなければ、自分の憎悪だってエックハルトには乗りこなせないだろう。
リヒャルトは観念したようだった。
「……ああ、認める。私は彼女が好きだ」
ソファの上で座り直し、足をその上に投げ出し、背を丸める。
「愚かだと言ってくれ。彼女は私が初めて会った女みたいなもんだ。それは私がそれまで、ずっと自分の殻に閉じ籠もっていたからで。まんまと惚れてしまった」
そんなリヒャルトの様子に、エックハルトは3年前のことを思い出す。そう、あの謁見でのことだ。13歳の君主という不自然な境遇にあって、リヒャルトが強くいられたのは、自分の殻を築き上げていたからだ。それ以外の理由ではなかった。その防壁が破られたのは、逆に彼女が無防備だったから。魔法に掛かったように武装解除してしまい、そんな壁はもうないのと同じだった。
理由なんていらなかったのだ、その心に触れることさえできれば。美しさとか、社交術とか、高貴さとか、そんなものは何もいらなかった。だが彼女は美しい。17歳では不格好な痩せっぽちの娘、それが年々脱皮するように美しくなっていく。
「だからあっちこっちに引き回した。どこにだって連れていきたかったし、誰にだって見せつけたかった。彼女は私のものだと。自分の立場を利用して、断る権利がない彼女に付け込んでいるだけなのに、実際には」
それは、いかにも少年じみた愛の言葉で、その純粋さは好ましい。ここは、彼の職責、特に婚約者をほっぽらかしてそうしていたことについて考慮しなければ、と付け加えるべきかもしれないが。とはいえそれはリヒャルトが、立場に相応しい振る舞いをすることも、自分の人生について割り切ることもできない子供だったということなのだから、結果的には良かったのではないかと言えた、相手にとっては。とにかく、リヒャルトが自分に素直になってくれればいいのだ、この場では。
「ご自分の人生が思い通りにならないことに苛立つ気持ちは理解できます。だけど、思い通りにできている人間なんて誰一人いない、誰一人ね。ご自分でお考えください、何を選択すべきか。もう赤ん坊ではないのですから」
不承不承ながら、リヒャルトは無言で肯く。だが、この後が総仕上げだった。
「あなたがそうやって日々悶々とされていて、執務に支障が出ています。大人になってください。さもなければ、気が済むまで外でも走ってきてください」
要するにこれは全部、リヒャルトの生活態度に対する叱言だった。今まで論ってきた諸々のことでリヒャルトを責めたところで、一朝一夕では解決するはずもない。問題があることだけ認識して、それを放置さえしなければいい、少なくとも今のところは。
それでも、一種変わった、気の抜けたような感慨をエックハルトは覚える。身分が身分だから、婚姻の話は今まで何度もしてきていた。だが愛する女との関係をどう考えるか、そんな話をリヒャルトと真面目にすることはエックハルトにとっては実感がない。歳が十四も違うのだ、エックハルトにとってのリヒャルトとは、16年前に彼が見た、豪華な産着に包まれたあの赤ん坊のことだった。でも本当は、もう赤ん坊ではない。少年は大人になる。だから、もう手を離す時期だった。
「それから」
嫌々ながらという風情で立ち上がったリヒャルトに、エックハルトは重ねて声を掛ける。
「…………」
リヒャルトは拗ねたような顔で振り向く。この幼さでは、もう少し目を離すわけにも行かなさそうだ、それを少しエックハルトは考える。
「例の件について、話があるそうです。午後に、工房で」
「ああ」
相変わらず不機嫌そうな顔で、リヒャルトは答えるのだった。
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