5章3話 科学の革命 *

【新帝国歴1131年3月23日 アリーシャ】


 私の目の前の紙に書かれているのは、文字式、数字、そして記号。


「……全然、わかんない」

 私は呟く。

「おいアリーシャ。どういうことだよ」

 突っ込みを入れるのは私の1歳違いの弟、ヨハン・ヴェーバーだ。

「……だって」

 私は答えるが、その後の言葉が続けられない。

 だってその理由は、私にも分からないからだ。


 私たちがいるのは、公爵直属の試験製造工房、その製図室だ。

 発端は何年か前のことだ。ヘロンの蒸気機関の件でヨハンがリヒャルト様に取り立てられることになったことを思い出してもらいたい。ヨハンはこの工房で働きながら、同時に勉学の支援も受けている。だから今では、ここがヨハンの職場だ。

 リンスプルック侯国でも見たように、試験製造工房などにより産業振興を行うことは、君主の義務の一つだった。と言っても国家の規模が小さいので、大層なこと、例えば世界的大発明への貢献なんかが行えるわけではない。逆に特許なんかは確立されていない時代で、他国で扱われている技術を自国に導入するための技術検討は試験製造工房の主要な役割だった。だが私たちには、より重大な使命があったのだ。


 そう、蒸気機関車を作らなければならないのだ。ヨハンと、この私は。


「……はぁ」

 私は溜め息を吐いて、机に突っ伏さざるを得ない。

「どういうことだよ、自分の理論が分からないって」

 ヨハンは相当困惑している。私も困惑していたし、半分涙目になっていた。なぜって、私はどうやら、いろいろなことを忘れているらしいのだ。あるいは、記憶としては覚えていても、それをどうやって使っていいのか分からない。


 この話をするためには、新井若葉である方の前世の『私』が、どういう経緯で歴史を志したか、それを語る必要があるだろう。

 若葉は自称歴史オタクだが、元々は別の学問を勉強していた。科目は物理学、それを選んだ理由は多かれ少なかれ行きがかりだったんじゃないかと思う。

 だけど、若葉は魅了された。物理学そのものよりは、物理学の発展の歴史に。

 物理学の発展は、すなわち中世から近世、そして近代へと至る歴史の流れと不可分だ。それが爆発的な発展を遂げたのは、若葉の世界では主に17世紀、科学革命と呼ばれる、栄光ある歴史のある区間のことだ。その頃の新発見が、若葉の時代には高校生や大学生が初期に学ぶ科学の知見となっている。それらを学ぶことは、その昔の人々が苦しみ、考え、数限りない小さな発見を経て辿り着いた知見を追体験することだった、若葉、前世の『私』にとっては。


 一方の現在、この世界は、どうなんだろうか。今の私はそれを考えてみる。

 この世界、この時代に存在している科学的知見は、元の世界の科学革命の初期の頃、つまり17世紀初頭ぐらいの知識レベルとかなり近いのではないだろうか。

 細かい部分ではもっと差異があって、あるところはより発展しているし、あるところはより遅れているはずだ。文化風俗全体のことで言えば、違いはもっと多岐に渡っている。だけど大雑把に科学技術に限定した話をすれば、元の世界で飛躍的な発展を遂げる直前の状態と同程度の発展がこの世界でも見られていると言えた。


『自然という書物は、数学の言葉で書かれている』


 これは元の世界ではガリレイの言葉で、この世界でもそんな認識は徐々に醸成されつつあったのかもしれない。ただ、自然の法則について本当の実用に供する数学はまだ発展していない。


「ふえぇ……」

 私は何度目かの、情けない鳴き声を上げる。

 つまりは、私がそれを導いて、さらに実用化しなければならないということだ。物理学と言えばまず微積分学、それらを知識としては覚えていたが、どうやって組み合わせて、目の前の問題を解決すればいいのか、私には分からなくなっている。

(……私って、こんなに頭悪かったっけ)

 それが今の私の悩みだ。前世では、つまり新井新葉だった頃は、もう少し出来ていたんじゃないかと思う。若葉だってそれを大学の4年間で学んだだけだし、それもブラック企業で扱き使われているうちに錆び付いたことは否めないが。


「……あまり、無理はしないでください。休憩にしませんか」


 掛けられた声に、私は顔を上げる。

 背は低め、眼鏡を掛けた中年の男性。頭は禿げていて、だけど声は優しそうで、それに澄んだ響きのある良い声をしている。


「……先生」

 そう声を掛けたのはヨハンだ。

「えっ……あのっ! ええと、ヨハンがお世話になってます、ええと……あの。お名前は」

「この馬鹿。ウワディスラフ・エミル。この工房の長だよ」

 そういえば、ヨハンがこの工房に配属される際に、一度お会いしていたような気がする。だけどウワディスラフさんは、ヨハンの言い草を穏やかに窘めるのだった。

「こら、ヨハン。そういう言い方は良くないね、君の。……よろしく」

 彼はそう言うと、私に向かって握手の手を差し出す。握り返す私。

 その手は温かくて、節くれだっていた。


「……それで、今君は何を悩んでいるんだい?」

「ええと。まず、動作原理を表す式が、こんな風になっています。だけど、これをどうやって使っていいのか……」

 ウワディスラフ工房長の質問に、私は自分がにらめっこしていた式を見せる。

「これにはどういう意味があるのかな」

「それは……」

 私が説明していると、それを引き取って、実用にどう生かせるか、ウワディスラフさんは解釈を加えていく。私の知識はそのままで使うことはできなくて、どういう目的にそれを使いたいのか、どうやって簡単な、一つ一つの問題に落とし込んでいくのか。その経験と頭の回転、そして勘の良さが不可欠であるようだ。


 また、私が知っていると言えるのはほんの初歩の原理であって、蒸気機関車という装置を組み立てるには高度な応用技術が不可欠だった。

 ヘロンの蒸気機関について、私が形までよく覚えていたのは、若葉の単なる歴史オタクとしての知識だ。それにヘロンの蒸気機関は、蒸気の噴出の反動で動く一番単純なものだった。

 一方の蒸気機関の構成要素は、非常に複雑だ。ボイラーで水を沸騰させて蒸気を生み出し、それをシリンダーに送り込んでピストンを上下させる。その際の減圧と加圧のサイクルが、リズミカルな運動を引き起こす。上下動、回転運動、揺動運動を互いに連動させるのは、クランクやカム、それこそ遥かな古代からある機械要素だ。

 残念ながら、この作業で私は有能とは言い難かった。知識を持っているはずの私が逆にウワディスラフさんに指導されているような有り様だ。一方のこの分野で才能を発揮したのはヨハンの方だった。


「先生、つまり……」

 ウワディスラフさんの解釈に、ヨハンが加わって、やがて二人が議論を始める。この場で私は二人の頭の回転についていきかねていた。要するに、私はとろい、あるいは単純に頭が良くないということだ。


(若葉だったら、どうなのかな)


 私はそれを考える。もし今の私が、アリーシャではなくて若葉だったら、彼らの議論のペースに臆することもなく、必要に応じて口を挟むことができるんだろうか。だけど、弟のヨハンを前にアリーシャではない若葉として振る舞うことは、ちょっと気持ちをどうやって持って行っていいのか、ここでは分からなかった。

 ヨハンは元から頭の回転が速かったけど、この2年の勉強でその傾向が強くなっている気がする。人間は何か、なんでもいいけど何かを学ぶことで賢くなり、それによって別の人間になる。

 私は学んでいると言えるだろうか? もちろんリヒャルト様の下で立ち働いていて、貴族社会の内情とか、別方面での学びはある。一面では頑張っている私だけど、別の一面ではサボっているのではないだろうか。それとも人間にはそれぞれ知識量の限界があって、若葉の知識を得てしまった私は、もう学ぶことが出来なかったらどうしよう。私はそれを考えていた。


「……若いって、いいなあ」

「……エックハルトみたいなことを言うんじゃない」

 階上から掛けられた声に、私は顔を上げる。

「……リヒャルト様」


 ここは公爵直属の工房だから、持ち主であるリヒャルト様も頻繁に出入りしている。今日は何か、蒸気機関の件とは別の話もあってこちらに来ていたようだった。この工房はいくつかの建物が連なっていて、一部は渡り廊下で繋がっている。その渡り廊下を通って来たらしく、リヒャルト様は階上から私たちを見下ろしている。


「エックハルト様、そんなことを仰るんですか」

「ああ」

 階段で降りてきたリヒャルト様に声を掛ける私。リヒャルト様は続ける。

「『私は所詮数ならぬ身、おまけに伸び代などとうに使い切っている。遊興に耽ろうと私の勝手です。あなたは違う、まだ若い。せいぜい勉強してください、この国の未来のために』だと。博打打ち連中の秘密の社交場に入り浸って小銭を巻き上げてきてからそんなことを言う奴だよ、あいつは」

 私は軽く頭を抱える。

「それは……もう若くないからというより、むしろ幼稚な言い分なのでは?」

「ああ、言ってやってくれ。お前に言われるとむきになるからな、あいつは」

「私相手にはいつも平然とされてますけど?」

「そんな風に見えているだけだ」


 そんな脱線に興じていた私たちに気づいて、ヨハンが近づいてくる。

「……おい、アリーシャ」

 それから、ヨハンは私の顔を引っ張るのだ。

「いった……何すんのよ!」

「あのなあ。リヒャルト様じゃなくて、なんでお前が軽口叩いてんだよ、エックハルト様に向かって。今まで散々お世話になってきただろうが」

「えぇ……だってエックハルト様は、エックハルト様だし……」


 そんな言い訳にならない言い訳をしていた私に、また、階上から声が掛けられる。


「聞こえてるんですよ」

 エックハルト様だった。

 いつもの大仰なウェストコートは着ておらず、身軽なベストの姿だ。リヒャルト様と同じく渡り廊下から現れたから、同じ会議に出ていたのかもしれない。


「あ……」

「すみません。エックハルト様」

 私もさすがにバツが悪くなるが、ヨハンはもっと申し訳なさそうな顔をしている。

「その件はまた後で。ヨハン殿はお気になさらず」

 微妙に引っかかる答え方をしてから、エックハルト様は手すりにお尻を乗せると、滑り降りて一瞬で階下に降り立つ。


「え……。ねえ、今手すりを滑り降りなかったこの人? どうなってるの?」

「アリーシャ、騒ぐな」

「ヨハン、あれできる?」

「出来ねえよ」

「ちょっとやってみて」

「やらねえよ! どうしてもって言うならお前がやれよ!」

「こらこら、工房では安全第一だ。危険な遊びは禁止だよ」

 と、これはウワディスラフさん。

「……あ、すみません。どうも、うちの姉が」

「ちょっと、ただの冗談ですから! ……じゃなくて、すみません。ほら、エックハルト様も」

「だから、なんでお前が」

「ランデフェルトの戦闘員は信じられない動きをするからね。それに関しては僕はなんとも。だから、彼だけは特別だよ」


 私と、ヨハンと、それからウワディスラフさんはそんな会話をしていた。一方のエックハルト様は私たちを無視して、リヒャルト様と何やら小声で会話をしている。リヒャルト様も真剣な、そしてどこか曇った表情でそれを聞いていて、それが私には少し引っかかったのだった。

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