2章12話 婚約解消 *

【新帝国歴1129年5月4日 エックハルト】


「……すまなかった。私の落ち度だ」

 リヒャルトは頭を下げる。

 正午近い日差しが窓から入ってきていた。災厄による工房襲撃の翌日、リンスブルック侯宮の応接室での出来事だ。


 今日はリヒャルトがうなだれていて、ヴィルヘルミーナは身を起こしている。いつもはリヒャルトの方が優位にあるこの二人の関係だが、今日は逆だった。

「今まであなたを評して、自分が抑えられていないと言っていたと思う。だが、抑えられていないのは私の方だった。……私は未熟で、自分の弱さに負けてしまいそうになる。そのためにあなたには、辛い思いをさせてきたと思う」


 その様子をエックハルトは、少し離れた位置から見つめている。この場では、エックハルトが口を差し挟むことはできない。エックハルトの基準でも、今日のリヒャルトは言ってはならないことを言い出しそうな雰囲気はなかったのだが。

 この場で、リヒャルトの様子をエックハルトはずっと観察していた。今日のリヒャルトは落ち着いていて、また分別も道理も弁えていて、またそこに苛烈さの影も見えない。

 アリーシャはどんなことをリヒャルトに言い含めたのだろうか。それをエックハルトは考える。いずれ聞き出さなければならないかもしれない。リヒャルトの内情に立ち入るのは、エックハルトの趣味ではなくて責務だ。


「……私は抑制と忍耐を学ばなければならない。改めて、私と共に歩んでくれないだろうか?」


 それが、リヒャルトの謝罪の締めだったようだ。その口調はいかにも沈んでいて、心からの反省をどうやって表現したらいいのか、探りながら言葉を選んでいるようだった。それがこの二人の関係においてどれだけ意味があるのか、まだやり直しが可能なのか、エックハルトはそれを見極めようとしている。

 一方のヴィルヘルミーナは、リヒャルトの謝罪をじっと黙って聞いていた。ややあって、ヴィルヘルミーナは口を開くのだ。


「……お断りしますわ」

 リヒャルトは顔を上げる。そこに浮かぶのは、単純な驚き。正の感情でも負の感情でもない、え……とでも言いたげな表情だった。そしてその表情は、きっとエックハルト自身にも浮かんでいただろう。

 ヴィルヘルミーナはふふ、と笑う。

「わたくし、幸せになりたいんですの。抑制と忍耐、ではなくて。……だけど、誤解しないでくださいませ。私、リヒャルト様の幸せを願っていますのよ」

 そう言って立ち上がると、スカートを持ち上げて一礼する。

「どうか、わたくしにお任せくださいな」

 そして、ドアの外へと駆け出して行った。

 リヒャルトはただ、呆気に取られている。

 エックハルトは軽く舌打ちして、その後を追った。


「ぴえええええええええ」

 中庭に面した回廊で、ヴィルヘルミーナは泣いていた。

 気丈に振る舞うヴィルヘルミーナが、やがていたたまれなくなって抜け出して、心の痛みに泣いていると。エックハルトはそれを恐れていた。

しかし、ヴィルヘルミーナの事情は、エックハルトの恐れとはどうも違うらしい。

「エックハルト様あ……お助けくださいまし……」

 彼女は、回廊に置かれた壺に脚をぶつけて、派手に転んだらしい。向こう脛にはぶつけた痕ができていたし、壺は床に転がっていた。


 エックハルトはヴィルヘルミーナを抱え上げる。近くのベンチまで運んでやろうという算段だ。

「私は、赤ん坊の頃からあなたを拝見しています。本当にご立派になられた」

 そうエックハルトはヴィルヘルミーナに語りかける。それから彼女をベンチに座らせ、具合を見る。もしかしたら青痣になってしまうかもしれない。しかし、腱や筋を痛めるほどの怪我でもないようだ。お姫様には似つかわしくないかもしれないが、そのうちには消える痕だろう。

 ヴィルヘルミーナは、跪くエックハルトに向かい、おずおずと聞くのだ。

「ええと、ですわ。あの。リヒャルト様のこと……エックハルト様のご期待には、反していたのではなくて?」

 エックハルトは満面の笑みを浮かべ、言った。

「まあ、否定はしかねます。ですが、私個人としては。豆鉄砲食らったハトみたいな顔した我が主君が拝めただけ、僥倖と存じます」


 婚姻計画が頓挫と相成ってエックハルトの胸中にあったのは、彼自身も驚いたのだが、奇妙な満足感だった。

 エックハルトは3代前の公爵の庶子ということになっているが、そこには特殊な事情がある。青年期の終わりまでずっとエックハルトは、人間を次々と飲み込んで苦悩と軋轢を生み出しながら続いていく貴族社会の奇怪な仕組みに、散々振り回され、煮え湯を飲まされてきた。

 でありながら、貴族制度、その根幹を成す血統主義の維持に加担してきたのがこのエックハルトだ。今は準貴族の扱いをされているとは言え不安定な身分で、リヒャルトの側近としての責務を果たし続けなければ彼の行く末は覚束ない。

 それでも、その抑圧を意に介さない者がいるというのは一種の救いだ。この小さな娘がそれを望み、それだけの気力と意志を備えており、結果それを成し遂げるとすれば。自分が少しの手を貸す事程度は許されて然るべきだろう。エックハルトはそのことを考えていた。

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