2章13話 帰国の挨拶 *
【新帝国歴1129年5月8日 アリーシャあるいは若葉】
「お邪魔いたします」
私たちがランデフェルト公国に戻る、その出立日が迫っていた。私は許可を得て、ヴィルヘルミーナ様の私室に通された。
「ほ、ほあぁ……」
私は間抜けな溜め息を一つ吐く。なぜなら、部屋の中はもう、今まで見たことのないぐらいの豪華さだったからだ。家具の茶色と金色、壁の白。カーテンの淡いピンク、椅子の背の濃いピンク、黄色と空色の可愛らしいクッション。そんな風に色の溢れた室内でも、不思議と印象はまとまっていて、ちぐはぐではない。
「あら、あなたなの」
つんとして、それでもヴィルヘルミーナ様は私を認識してくれたようだ。
「お別れのご挨拶に参りました。……私たちは本日戻ります」
躊躇いながら、私は口にする。
なんとかリヒャルト様を諌められたと思えた私だけど、雲行きは怪しくなっているらしい。ヴィルヘルミーナ様の意向によって、リヒャルト様との婚約は白紙に戻されることになったと、エックハルト様が教えてくれた。あの人は私にはどうにも得体が知れなくて、そう告げる言葉、声のトーンにも棘のようなものを感じないことはなかったのだけど。
とにかく白紙ということは、今後の結婚の可能性を完全に否定し切ってはいないのだけど、とにかく二人は、将来を約束する間柄ではなくなったとのことだ。
どうなんだろうか、と、私は考える。至極単純に考えれば、結婚の約束は、本人たちの好きにすればいいだろう。だけど、そこに何か暗雲のようなものが垂れ込めてはいないだろうか? これからリヒャルト様の、それからヴィルヘルミーナ様の立場が悪くなったらどうしよう、それを私は考えざるを得ない。
そんな私の思いを知ってか知らずか、ヴィルヘルミーナ様は口を開くのだ。
「……一つ、誤解しないでいただきたいのだけど」
「な、なんでしょうか?」
「わたくし、気がついたんですの。あなたのおかげでね」
ヴィルヘルミーナ様はそんなことを言っているが、私は戸惑う。
「な、何をでしょうか?」
「夫となる人の意向に適うこと。愛情ある関係を結ぶこと。そうして、幸せな花嫁、良き伴侶となること。それが女として生まれたものの務め、みんなそう言います。ですけど、違うのですわ。そう思いませんこと?」
上目遣いの強い視線で私の目を見ながらそう仰るヴィルヘルミーナ様。一方の私は、曰く言い難い迷いを感じている。
「ええと……それは。そう。ええと、その。ゴホン」
一つ咳払いすると、私は考えをまとめる。私とヴィルヘルミーナ様との関係を考えると、もしかしたらこれが重要な返答になるかもしれないからだ。
「良妻賢母は一つの尊い生き方ですが、それだけが女性にとって価値ある概念ではないと。それはそう思います、確かに。ですが」
「どうかして?」
「なぜそれを、私によって気がついた、と?」
私の質問に、ヴィルヘルミーナ様はあっけらかんと言ってのける。
「だって。あなたはいろんなことをご存知ですけど、それは殿方の意を迎えるためではないのでしょう? 女だって、好きなことを好きなようにすべきですわ。そうでしょう?」
「……ええ、そうですね」
私は穏やかな笑顔を作ろうとしながら、複雑な思いに駆られている。
今までの私は、本当に好きなことを好きなようにできていただろうか? そのことも私は考えざるを得ない。アリーシャとしての17年間、私は人生の確固とした目標を決められないでいたことは否めない。若葉としての知識はこの世界で役に立ってはいるけど、それもより広い視点では考えものだ。歴史という偉大な対象に相応しいだけの愛を注げなかったから、前世の私はそれを自分の人生のテーマとすることに成功しなかったのではないだろうか。
ついでに言うと、興味の方向からしていかにも色気がないと受け取られがちなことは、前世である若葉の方の私のコンプレックスの種ではあった。現実の男性にそれを直接リサーチしたことはなくて、固定観念の一種だったことも否めないけど。しかし、そんな幼稚な悩みをいい大人が表明するのもまた憚られる話だ。
私の思いを知ってか知らずか、ヴィルヘルミーナ様はまた口を開く。
「どうか、そんな顔をなさらないで。……リヒャルト様だって」
「リ、リヒャルト様?」
また話が微妙な点に差し掛かることを私は危惧する。だって、二人の仲の問題は、まだ解決してはいない、私の知る限りでは。
「そうね、なんて言えばいいのかしら……」
それからヴィルヘルミーナ様は考え込んだように、部屋の中をぐるぐると歩き回る。それから、ややあって口を開く。
「……リヒャルト様は、冷たいお方でした。苦しい規則を課して、それでご自身も、わたくしも、縛り付けることを至上の義務となさるお方でしたわ。……でも、今は違います」
それから、ヴィルヘルミーナ様は向き直り、真正面から私の目を見据える、強い意志の力を感じさせるその紫色の目で。
「あの方は今、ご自身にも熱い血が通っていることを感じる幸せを感じていらっしゃる。それなのに、またその冷たい規則に逆戻りする、なんておっしゃるから。わたくし、ひっぱたいてさしあげたのですわ」
いろんな感情が、私の胸に去来する。全てが腑に落ちていくような、そんな感覚だった。
リヒャルト様と相対した時は、どんな場面でも気丈に振る舞わなければならない彼が可哀想だと、そのことだけ考えていたと思う。だけど、一つ見逃していた点があった。
リヒャルト様は、未熟なヴィルヘルミーナ様を導き諌めているつもりだった、表層の意識では。だけど、ヴィルヘルミーナ様を本当に知ろうとはしていなかったし、自分について理解してもらうことを避けていた。彼はヴィルヘルミーナ様には心を閉ざしていて、彼女が将来の伴侶であることは、心を閉ざす理由にこそなれ、開く理由にはなり得なかった。
プライドの高さと内気さゆえに人を自分の領域に入れまいとするのはあり得ることだけど、それは人を傷つけていい理由にはならないし、対立関係に発展させてしまうのは感心できる振る舞いではない。彼が大人の男性で、彼女が伴侶であるのなら。
リヒャルト様は大人ではなくて、でも大人として振る舞わなければならない。それ自体は変えられない。だけどその義務を理由にして表層の態度だけを改めても、きっと問題を解決することはできない。
じゃあ、リヒャルト様はヴィルヘルミーナ様にその弱さも全てさらけ出し、心の底から打ち解けるべきだと、そう考えて、進言するべきなのか? 私にはそれはできない。それは裏切りだ、やっとの思いで内心を吐露してくれた彼への。リヒャルト様が自分の心でそうしたいと願わない限りは、それは達成できない。義務や徳目を盾にそれを強要するのは、内心の自由の侵害で、暴力だ。そんなことに口出しできる人間は誰もいない。
その意味では私の言葉は、問題を先送りしているだけだったのだ。いつか、未来のどこかでは彼女を心から信じて、愛することができるかもしれないと考えることは、信じて愛することとは違っている。
好きなことを好きなように。自由な人生で幸せに生きること。それがヴィルヘルミーナ様の望みだ。それはきっと、決められた婚約を受け入れて生きていく彼女の未来の可能性の中にはない。
彼女と同じように、だけど全く違う形で、リヒャルト様も探さなければならない、嘘偽りの混じらない自分自身の幸せを。
それがあらかじめ決められた二人の関係の中にないのなら、それを維持することに拘泥してはならない。他の誰がそこに拘ろうとも、現実が二人に何を強制しようと、二人の理解者としてこの私はそこからは自由でなければならない。
「わたくしも、熱い血が通う幸せを感じたい。でも、リヒャルト様のように、ではありませんことよ。わたくしはわたくしのやり方で、世界で一番幸せな女になってみせますわ!」
意気揚々とヴィルヘルミーナ様は宣言する。
みんな、何か勘違いしていたんだ。私はそう思った。ヴィルヘルミーナ様について、きっと。
ただ一人の伴侶から、かけがえのない存在として愛されることは人生の至上の喜びなのかもしれない。それでも、自分が選んだわけではない誰か一人の人物からどれだけ愛されるとか、それとも愛されないとか、そんな試練を逃れられない義務、至上命題にしなければならないのは、いかにも苦痛な人生だ。そんな人生を選びたくない。私だってそう思う。
愛は人間にとって最大のテーマであること、それはたぶん、否定しようがない。だとしても、政略結婚をすなわち女の幸せとするのは、女を愛の道具と見做しているのと変わらない。それは、愛というテーマ、それが投げかける問いかけの答えにはなっていない。幸せな政略結婚だってあるだろう。だけど、そうでなかったら、それ以外を選んだっていいはずだ。
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