1章4話 人生の命題 *
【新帝国歴1128年8月5日 アリーシャあるいは若葉】
「ふえぇ……固まってこないよぉ……」
私はそんな情けないぼやきを発する。
「……何やってんだ、アリーシャ?」
呆然とした感じの口調で、背後から声をかけるのは、アリーシャの1歳歳下の弟、ヨハンだ。
金星号の暴走事件から1ヶ月ほど経った頃のこと、私の実家の中庭でのことだった。
「だから、石鹸をね……」
私は解説する。
「だから、なんでそんなもん作ろうと思ったんだよ。買えばいいだろ、給金で」
呆れ顔のヨハン。
元の世界では、理科の時間に石鹸を作ったことのある人も多いだろう。油を水酸化ナトリウムなどのアルカリ性物質で鹸化すると石鹸になる。この時の油の質と、適切な調合が石鹸の質を決める。当然この世界では、一般人が水酸化ナトリウムを手にいれることはできず、伝統的な製法では木灰や海藻の灰を使う。
だから、私は今回は、それをやってみようとしたのだった。私の実家は首都郊外にあり、馬車を使えば公宮からは日帰りできる距離だ。初めてきちんとしたお休みが取れたので、実家に帰って私は計画を実行に移したのだ。計画というのは、つまり石鹸を自作してみるということだが。
結果だが、私は中庭で鍋を掻き回しながら、なかなか固まってこない中身にめげていた。伝統的な製法を使っても、材料にこだわったり、伝統的なノウハウを駆使すれば質の良い石鹸となるはずだが、特に後者が備わっていない私にはそれはできない相談だった。今のこの世界の文明程度は中世初期というレベルではなくてそれなりに発展した世界だから、石鹸なんか買えばいい、みたいな話になるのだ。
「だって、お金は別の目的があるし……」
私は抗弁した。買えばいいというヨハンだが、たかが石鹸、というわけでもないのだ。この時代石鹸は高級品で、良いものを日常的に使おうとすれば、財布に大きな穴が開く。とはいえ、じゃあ原材料から作るかという発想も、考えてみるとあまり効率の良いものではないのだが。
そんな私の顔を薄目で見て、ヨハンは声を上げるのだ。
「なんだよ別の目的って。ケチケチ溜め込んだ挙句、貧乏臭さが取り返しがつかなくなって、同僚たちから後ろ指刺されるようになっても知らねえぞ」
「何よ! 気にしてるのに……」
ヨハンとアリーシャである私は、こんな関係だった。頭の回転が早くてキレも良く、また口の悪いヨハンに、間の悪いアリーシャが詰められることが多い。背が高くて見た目もそんなに悪くないヨハンは一見では女子からの受けが悪くないのだが、口の悪さのおかげで結局酷いことになることが多い。
ヨハンは私とよく似ていた。今は私よりもずっと背が高くて面長であるものの、髪、肌、目の感じ、その辺りが似通いすぎていた。子供の頃はほとんど同じ顔で、アリーシャがヨハンに、ヨハンがアリーシャに間違われることすらあったのだ。
「ったく、しょうがねえな。石鹸だって? 作ってやるよ。俺が作れば、もう少しマシなもんになんだろ」
ヨハンのもう一つの特徴。手先が器用で、また要領がいい。農機具なんかは簡単に修理してしまえるし、本で読んだだけの手順をなぞって、いろんなものを作り上げることだってできるのだ。それから、口は悪いし態度も悪いが、案外面倒見が良いのもヨハンだった。だけど。
「ううぅ……いいよ。忙しいだろうし、勉強が」
ヨハンは今は、上の学校に通うための準備中のはずだった。こんな私の思いつきの計画に付き合わせるわけにも行かない。
「んなこたどうでもいいんだよ。それより、お前のことだよアリーシャ。どんくさいアリーシャが宮殿のメイドなんか、本当にやってけんのか?」
「ど、どんくさい……じゃなくて! どうでもよくないでしょ! 将来のことなんだから!」
私は怒ってみせるが、ヨハンは小さく溜め息を吐いて、数秒黙り込み、それから口を開く。
「アリーシャ。……姉さんは、その鳥の巣頭さえなかったら、結構美人なんだから。そのくせどんくささは人一倍ときてて。タチの悪い男に目を付けられるなよ」
「…………」
私は、苦笑いするしかなかった。だって今のところ、私の物語にラブロマンスの気配はないのだから。
それから私はヨハンの言葉を、心の中でなぞる。
『なんで宮殿のメイドなんか』
それを説明するのは難しい。特に、弟のヨハンには。膝の上で握った自分の手を私は見つめていた。
アリーシャ、前世の記憶が蘇る前の私が元々思い描いていた夢は、実現しそうもない野放図な夢だったと思う。
アリーシャが子供の頃に夢見ていたのは、いろんな国を旅することだった。世界のいろいろな物事が書かれた本を読んでは、自分がその場にいたらどんな風に感じて、どんなものを見るのか、そんな想像で日々を埋め尽くしていた。
そんな夢は、しがない平民の娘でしかないアリーシャには実現は難しい、それは大人になるにつれて分かることだ。だがアリーシャは少しだけ、他の女の子たちより諦めが悪かった。自分の代わりに、弟のヨハンに自分の夢を叶えてもらおうとアリーシャは思っていた。ヨハンが出世して偉い官吏になれば、ヨハンはいろんな国に出かけられる、それがアリーシャの考えだった。
それには先立つものが必要だったと、それがアリーシャの宮仕えの理由だった。実家の資産をかき集めれば、ヨハンが上の学校に通う費用だって捻出できたかもしれないが、アリーシャとヨハンの両親は野心が薄く、現金収入にも貪欲ではなかった。
この時代、女性が働きに出たい、そして、それなりの地位が欲しいと思った場合、選択肢は少ない。良家の子女の家庭教師になるほどの幅広い教養は身につけていないし、家柄も釣り合っていない。庶民の子供のための私塾の先生であっても、コネがなければ覚束ない。その点、為政者の宮殿に仕える召使の身分は、直接現金収入になり、平民の女性としては将来に向けて箔を付けるのにも適している。身分や教育程度から鑑みても適当な働き口と言えた。
これが、記憶を取り戻す前の私が、これまで生きてきた人生を決定づける動機だった。一方のヨハンだが、アリーシャの宮仕えにはいつも辛辣だった。間の悪いアリーシャの性格が人に使われるのには向いていないと、そういう考えのようだった。
そして、新井若葉としての記憶が戻り、今までの自分であると同時に、前の人生の自分、そしてそれら2つの人生観と知識を併せ持つ、新しい自分になった私。しかし問題があった。何が問題かって?
どうやら転生したにも関わらず、ここに至るまでの1か月間、私はメイドとしての普通の職務を全うしているだけだった。つまり、アリーシャであり、アリーシャでしかない私のそれまでの人生をなぞり、淡い夢の実現に思いを馳せている今までの私と何も変わってはいなかった。自分のために石鹸を作って、それで自分の髪質の改善をすること、たとえそれができたとして、ほんの小さなイレギュラーにしかならない。私の物語は、もっと大きな、根本的な変革を必要としている。
私は死んで、多分生まれ変わった。アリーシャ・ヴェーバーとして、この世界のこの人生に。
だけど私には物語の筋書きが与えられていない。ということは、私は自分の物語、人生の命題を、自分で見出さなければならないということだった。と言うと格好良さそうだが、要するに人生設計をもっと真面目に考えろと、それだけの話だった。
アリーシャは、私は、自分のために生きなければならない。
ヨハンを官吏にすること、そしてそのための宮仕えは、ある意味ではアリーシャ自身の不純な動機に拠っている。だけど、自分の人生を自分のために生きているという感覚ではなかった。
そんな風に代替欲求を何重に構築した上で、それが叶うのを見たら、自分は平穏な人生に着地する。それが今までのアリーシャの人生設計だった。
ねえ、本当にそれでいいの、私?
今まではそれで良かった、前世なんてものを思い出す前だったら。私は死んだ、世界中で一番孤独だと思って、自分自身の生温かい血の感触に震えながら。どうだっけ、あんまり痛みは感じてなかったっけ? もう痛みを感じなくなっていたのか、それとも記憶が薄れているだけなのか。でもそんなことはどうでもいい、今の私には。
私は死んだのだ、せめてこの人生ではその取り返しが付かないと、私は死んでも死にきれない。異世界転生を司る上位存在から与えられていない強烈な物語を、私は自分で作り上げないとならなかった。
でも、私に何ができる? 何か私に出来ることってあったっけ?
アリーシャが知らないことを若葉は知っている。
前世の世界では、新井若葉が得ていたのは大した知識ではなかった。私は偉大な知識の殿堂の入り口で挫折して諦めた甘っちょろい学生で、何も知ることができなかった。
でもそれは、あくまで元の世界での話。
近世ヨーロッパに近い発展度と思われるこの世界では、若葉の知識で打開できる物事だってそれなりにあるかもしれない。特に、若葉は『科学史』が好きだったのだから、この時代の発展度に合わせた知識を提供することで、有益な技術革新に貢献することだってできるかもしれないのだ。
私は多分、自分の人生の主人公になりたかったんだと思う。新井若葉として、そして、アリーシャ・ヴェーバーとして。
「……ねえ、ヨハン」
私は口を開く。
「なんだよ。ずっと黙ってるからどうしたのかと」
「あのさ。私、やりたいことがあるんだ。今の私の仕事と、あんたの力を使ってさ」
「石鹸の生産か?」
「……それもあるけど、そうじゃなくて。もっと、すごいこと」
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