1章3話 タライと石鹸 *

【新帝国歴1128年7月13日 アリーシャあるいは若葉】


 今の私、アリーシャ・ウェーバーが寄宿するメイドの宿舎は公宮外郭にあって、公爵が居を構える宮殿の主翼からは隔たっている。私は、その前まで帰ってきていた。宮殿の周りの樹木や芝生は手入れが行き届いているが、この辺りは地面が剥き出しで、周囲はどことなく埃っぽい。

 まだ日は高いが、今日はメイドのお勤めからも解放されていて、私は手持ち無沙汰だった。つまりは自分のために時間を使えるということだ。


「風呂に、入るか」

 私はそんな思考回路を働かせる。


 風呂。現代日本の女性には欠かせない毎日の習慣だ。

 現代日本の女性。新井若葉、西暦2017年の深夜、東京の路上で車に撥ねられたアラサー女。

 それから、アリーシャ・ヴェーバー。アリーシャは実際のところ、本当の庶民ではない。貴族の爵位はないものの、代々農園を経営する家の娘で、身分は小作人ではなく地主に当たる。教育も一通り受けており、目立って苦労したことはない。公宮勤めは嫁入り修行の一環のような立ち位置で、メイドと言っても個人の家に仕える場合とは扱いが相当に違っている。

 何が言いたいかというと、そんなアリーシャですら、風呂は毎日の習慣ではなかった。今のこの時代はそんな時代だった。加えて、宮仕えの身である以上、自分よりも主人の身の回りのことに気を遣わなければならないし、そんなことができるのは深夜になってからだ。

 体を洗うにしても、13日目に至るまでお湯が使えたことはなくて、水だけだった。まあ、今は夏でもあるからだけど。

 ということで、新井若葉の感覚に浸食されつつあった私は、降ってわいた午後の休み時間を絶好の機会として、お湯を沸かした風呂に入ることにしたのだった。と言っても、外のかまどで自分でお湯を沸かして、でっかいタライと共に自室に持ち込んで、そこで体を洗うという意味なのだが。

 メイドはたいてい二人部屋や三人部屋だが、今は私には同室者がいないので、それも好都合だった。——


「ううぅ……ぬるいよぉ」

 私は呟く。


 熱湯と水を混ぜればちょうど良くなるかと思ったけど、どうやら分量を間違えたらしいし、それにだんだんと冷めてくる。今までの私、つまりアリーシャは身体を洗うのに水だけということには抵抗がなかったが、若葉の記憶が戻ると熱い風呂に入りたくなる。と言ったってこの世界、お湯の風呂なんていうのはたまの贅沢で、若葉の私といえどこちらの世界の感覚に慣らしていかないとならないのだろうけど。


 アリーシャの私と、若葉の『私』。

『私』は私なんだろうか。私はそれを考えてみる。

 私には私、つまりアリーシャ・ヴェーバーの完全な記憶があり、それから『私』、つまり新井若葉のおそらく完全な記憶がある。これは、新井若葉が死んで、アリーシャ・ヴェーバーに転生したことを意味するんだろうか。それ以外の選択肢は、今の私にはちょっと思いつきそうにない。


 ちょうど裸になっていることで、私は自分の姿を改めて眺めてみる。それから、手元にあった手鏡に顔を写したりして、自分の顔を、今は記憶の中にしかない新井若葉の顔と比較してみる。手鏡と言っても、やっと顔が映るような簡素な手鏡だ。ピカピカに磨いてガラスを張って酸化を防いだ珍しくもない鏡は、この世界の現代では贅沢品で、貴婦人の所有物だ。

 前世の私、記憶の中にある新井若葉とは当然似ても似つかない。赤毛に灰緑色の大きな目、長い睫毛、そしてどちらかというと大人っぽい顔立ちだった。また背は149センチの新井若葉よりかなり高く、それに相応して手足も長い。

 問題は髪だった。見た目にもゴワゴワしていてまとまりの悪い赤毛だ。仕事中には何とかまとめ上げているが、朝には櫛を通すのも苦労するほどだ。それに肌も。色が白い代わりに、雀斑が、顔だけではなくて腕や足にも浮かんでいる。

 以上は、アリーシャの感覚優位で判断した時の、自分の外見の自己評価。今はそこに、『新井若葉』としての視点が混じってきて、私はなんとも複雑な気持ちに駆られる。


「な、なんというか……なんというか」

 これも私の呟きだ。何だか独り言が多くなっている気がするが、そういえば若葉は独り言が多い女だった。


 顔や手足に浮かんでいる雀斑だけど、体の方にはない。つまり、そこは紫外線を浴びる機会がないということだ。お腹や胸は抜けるように白くて、雀斑があり僅かに赤みを帯びた手足すら、その白さを強調している。普段人目に晒さないそれが、薄暗くなってくる室内の、私の視界にぽっかりと浮かんでいる。全体的になんというか、「なんというか」だった。


 この時私が思い出していた、ある古い詩がある。


『春寒くして浴を賜ふ華清の池 温泉水滑らかにして凝脂を洗う』


 長恨歌。唐代の詩人白居易の漢詩で、絶世の美女、楊貴妃について歌った漢詩の一節だ。アリーシャの世界観にはあまり合っていないけど、現代日本の歴史オタクである新井若葉として、それを思い出したということだ。

 この一節を最初に目にした時は、凝脂、凝り固まった脂ってあまりぞっとしないものしか想像しなかったのだけど。これはそういう意味ではなくて、白くて滑らかな、それでいてわずかに透き通るようなその表面、それに似た肌の色を意味するらしい。そう、例えば未開封の軟膏の蓋を開けた時の表面のような色と滑らかさ、透明感。今私が見ているのも、それを想起させるような色と質感だった。

 とまあそんな風な、いまいち脈略のない連想に思いを巡らせてしまうほど、若葉としての私は今の自分の姿に挙動不審になっていた。私は実は中国史にはそこまで詳しいわけでもなくて、守備範囲と言えるのは、近世・近代の科学史というどマイナーな分野だったのだけど。


 それはそれとして、アリーシャである今の私の外見は、この時代の美女というには難点がいくつかあった。まず雀斑。それから痩せていて肩幅が広く、胸が小さい。楊貴妃は豊満な美女だったけど、この世界のこの時代でも、私の今の外見上の特徴は貧乏くささと結びつけられやすいものだった。

 しかし現代日本の若葉の感覚で考えても、やっぱり問題は髪だ。とにかく櫛通りが悪くて、梳かそうとすると頭皮が引っ張られて痛い。体も髪も同じ石鹸で洗っているが、あまり質の良くない油を鹸化した石鹸では、少量手に取り必死で泡立てても、洗えば洗うほど髪が痛むのは無理もない。この石鹸問題さえなんとかなれば、髪質は改善できそうな気もしている。というか、油の匂いが完全には取れていないこの石鹸を使い続けるのは、若葉の感覚としてあまり楽しいものではなかった。

 それでもとにかく石鹸分をしっかり洗い流すと体を拭くが、吸水性の高いタオルではなくて単なるボロ布だ。それに髪の毛を乾かすのにも時間がかかりそうだった。それから、すっかり冷たくなった水を、これから捨てに行かないとならない。


 総じて、私が転生したこの世界と、アリーシャである私のこの身分は、元の世界と比べるとかなりの不自由を、若葉である私にも強いるものだった。

 主人公が大金持ちの公爵令嬢あたりに転生するのが、よくある異世界転生の物語の相場であるような気がする。それから魔力。それらが安易だと決めつけるのはむしろ元の世界の現代人の偏見で、チートも魔法もない世界に叩き込まれたら、それまでの生活水準よりかなり不便な暮らしを強いられる。

 アリーシャ・ヴェーバーは魔力なんて持ったことがない。このアリーシャの世界は若葉の世界と同じく、魔法はおとぎ話として語られるもので、実際に魔法を使っているのを見たことはない。とはいえ魔法を信じている人もけっこうおり、アリーシャも完全に否定はしきれない。


「恵まれていたのかな、私」


 私は呟く。

 今の私は、アリーシャ・ヴェーバーではなくて、新井若葉だった。

 若葉は、自分に才能もなければ魅力もない、本当につまらない人間だと思っていた。でも、本当にそうなんだろうか、アリーシャの目から見ても。


 新井若葉は、歴史が好きだった。

 歴史が好きで、歴史に志して、挫折した。


 だけどそれを諦めたときは、趣味で歴史妄想の同人誌でも細々と書いて、コミケで出版して、十数冊でも売ったりできたらいいな、なんて思っていた。そういう媒体で真面目な歴史研究の書籍を出す人もいるにはいるけど、心が一度折れてた自分にはちょっと厳しい。こういうのは大手ジャンルにはかすりもしないで、同好の士だけで回してお互い楽しむような、文字通りの同人誌だ。とは言っても、一冊も売れなかったら悲しいけど。

 一度就職したら最後、そんな時間の余裕なんて全然なかった。それとも、私が絵に描いた餅だけで、それに向かって努力しようとしなかったのか。

 誰も見向きもしないようなささやかな夢だったとしたって、ないよりはある方がずっといいし、実現できずただ日々を生きているよりは、1ミリでも夢に向かって何かできていた方がいい。


「…………あれ」


 私は泣いていた。なんだか無性に悲しかった。新井若葉はどっちかというと不遇な人生を生きて、その特に不幸を感じていた瞬間に、とびっきりの不運が襲いかかってきて、それで死んだってことが。そこに、救いなんて一個もなかった。


 歴史学、それは、今まで数えきれない人間が建設に携わり、もう手を入れるところがないまでに完成された黄金の殿堂のようなものだった。まだそこに探求の余地があったとしても、付け焼き刃の徒手空拳では歯が立つはずもない。新井若葉はそれに挑んで、敢えなく敗れた。そして新井若葉の人生は、その過去の失敗に押し潰されていた。

 新井若葉には未来が必要だった、それはもうなかったけど。そして、アリーシャ・ヴェーバーには未来があった。

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