第9話 ショウコという女

 振り向きざまに手を振ってバイトに戻るアンを見つめた。

 そんな事情なんてまったく想像しなかった。虚しい仕事に身を沈めた三千円のあの子は、女の体にガツガツする俺にウヌボレだろうが優しかった。だが、行為を済ませたあの子は、まるで生まれたときから娼婦だったように、何もなかったアッケラカンとした顔で言葉を投げかけた。お兄さん、ホストしない? そう誘われて俺はホストになった。


 沙奈江の会社のホームページを見た。会社概要で、滋賀県で輸入雑貨を営む個人商店を500人の従業員を抱える企業に発展させたのは、二代目社長の沙奈江だと知った。沙奈江の社長就任時期を考えると三千円は高校生か? 実の母親を亡くしたのはその前だとすると…… 止めよう、そんな詮索なんて。

 夕方は滅多に足を伸ばさないアメ横で、人ごみに紛れて何かを忘れようとしたが、買物に熱中している人々を眺めるだけの自分がみすぼらしく思えた。あんなにたくさんの食品を買っても食べる人が傍にいる、それが羨ましかった。

 

 ぼんやりテレビの年末特番を眺めても面白くなかった。早めに寝るかとベッドに潜り込むと携帯が鳴った。美由だ、何も疑わずに携帯に出た俺は驚いた。

「龍志、わかるか、俺だ、父だ」

 親父だった。何かあったかと不安になったがそうではなかった。

「携帯で長話すると金がかかるから、詳しいことは会ってから話すが、母さんに金を送っていたそうだな。知らなくて悪かった。元日の配達が終わったら時間が取れる、東京でお前に会って訊きたいことがある。また連絡する」

 俺には何も言わせずプツンと切れた。俺に訊きたい? 今さら信金を辞めた理由か? 家を出たことか? そんなことを訊いてどうなる? 頭を冷やして考えると、美由は親父が訊きたいことを知っているはずだ。しかし美由にコールしても応答はなかった。何を知りたくて親父が来るかわからないが勝手にしろ! もう俺は逃げないぞ。


 1月2日の昼前、駅に着いたと親父の声で新宿駅に迎えに行き、部屋に来てもらったが、入るなり見渡した親父は、

「これか? 20万もする部屋は。高いうえに狭いなあ! 新潟では大きな一軒家が借りられるぞ。まあそんなことはどうでもいいが、この前、母さん宛の請求書を見て驚いた。月々20万のローンだった。それでお前が送金していることを知った。龍志、ありがとう。ところで旨いな、この珈琲は。舶来物か?」

「父さんはそんなことを言いに来たのか?」

「いや、元気で働いているお前を見たかったのが一番だが、訊きたいことがある。ヤマムラショウコという名前に心当たりはないか?」

 親父は探るような目つきで俺の顔を凝視した。ヤマムラショウコ? ショウコ? 知らないな、何も思い出せなかった。

「いや、知らない。その人がどうかしたのか?」

「知らないならいい。美由はその人の兄と結婚するから訊きたかっただけだ。“雪中梅”を持って来たぞ、飲むか?」

 新潟の酒を酌み交わしてほろ酔い機嫌になった親父をベッドに寝かせ、床に転がった俺は記憶を手繰り寄せようとしたが、ショウコ? 記憶はなかった。一升酒をくらっても平気だった親父が弱くなったな、もう歳か、頼りにしたい息子はこのザマだしなあ…… 悪いな、親父。

 親父はそれ以上の質問はせずに新潟に戻った。


 深夜になって美由から携帯が入った。

「この前は出なくてゴメンね。兄ちゃんがどんな返事をするか心配だったの。それからね、お母さんがお金を勝手に使ったことが見つかった」

「親父から聞いた。バレたらしいな」

「お父さんの職場にクレジット会社から電話があって、大変だったらしい。お金を勝手に使ったことより、兄ちゃんが東京にいると知りながら黙っていたのが許せないって、大騒動よ! 何か言ってた?」

「そうだったらしいな、久しぶりに親父と酒を飲んでいろんな話をしたが、親父はヤマムラショウコという人を知っているかと訊いた。その人は美由の結婚相手の妹さんらしいな」

「それで兄ちゃんは何て言ったの?」

「知らない人は知らないから、知らないと言っただけだ。それがどうかしたか?」


「妹さんが使っていた離れを私たちの新居にする予定で、改築が始まったけど、床の間に隠し扉があってその中に手紙があったらしいの。開封すると恋文、ラブレターよ。誰に宛たラブレターだと思う?」

「くだらん話だ、わからん!」

「兄ちゃんよ」

「はあ? 俺は知らんぞ! ショウコって名前の女は。それにラブレターなんてもらったことがない」

「その手紙は宛先がなくて、封筒に“龍志さまへ”って書かれていたから、てっきり兄ちゃんの恋人かと思って心配したけど、違う龍志さんだったんだ」

「なぜ心配したんだ?」

「ショウコさんは大学を卒業した年の春に結婚したの。すぐオメデタがわかって大喜びだったらしいけど、妊娠の月数が合わなかったんだって。夫や姑から責められても相手の名前は言わなかったそうよ。でもね、米山大橋から飛び込んで亡くなられたの」

「ふーん、悲しい話だな。そんなことがあったのか。お前は大丈夫か?」

「何を心配してんのよ、兄ちゃんこそ悪い女に騙されるなよ!」


 休暇は今日で終わりだ。たまには神社でも行くかと花園神社に向かったが、満員状態だった。人があまり行かない厳島神社を訪れた。ここは弁財天を祀っていると聞いたが詳しくは知らない。興味がないままに説明板を読んだが、弁財天は吉祥天と同じような神だと書かれていた。吉祥天? キッショウ?

 ヤマムラショウコを知っているかと訊かれたが、俺は勝手に“山村晶子”だと思った。晶子と書いてショウコと読む同級生がいたからだ。

 山村祥子? あの夜、本当は“サチコ”だと薄く笑った女だ! 結婚するという噂は知っていた。


 青春が終わった夜を無理やり思い出した。卒業式の後の飲み会で俺はかなり苛立っていた。4年間住んだアパートを引き払って実家に戻りたくなかったが、地元企業に就職した以上帰らなければならない。あの夜、俺は鬱積した気持を爆発させて酔っ払った。今日で自由が終わると呟いた俺に、「私も自由に呼吸できるのは今日で終わりなの。親が決めた男となんか結婚したくないわ」とサチコは確かに言った。

 飲み会はお開きになり、ゼミが同じだった小川となぜかサチコが俺をアパートまで送り届けた。俺はドアを開けて倒れ込んだが、記憶はそこまでだ。どれほど時間が経ったか? 妙に寒いなと目を覚ました俺は裸で毛布に包まって震えていた。深酒のせいで頭はガンガンと攻め騒いだ。

 あのとき、俺はサチコを抱いたか? もしそうなら記憶の断片があるはずだ。俺は泥酔状態で正体をなくしていた。そんなありさまではヤレない、無理だ。昼には部屋を明け渡すために掃除したが、そんな痕跡はなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る