第2話 3千円の女

 GROOVE SHINJUKUのバーで待ち合わせて軽く飲んだあと、同伴した。淳子はプレゼントの扇子に「まあ、素敵だわ、ありがとう」、にっこり笑った。

「ご来店戴きまして、誠にありがとうございます。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」、マネージャーはしばらく来店しなかった彼女を満面の微笑みで迎えた。それからは普通のホスト・タイムが流れた。

 淳子と俺の会話を聞きながら、シンジの視線はコロコロと宙に転がった。ははぁー、コイツは淳子とやったなと気づいた。淳子は俺にもたれかかって、

「下品なシャンパンタワーじゃなくってリシャールをいただこうかしら」

 昨日のシャンパンタワーを知っていて、そう言ったのか? 誰だ、喋ったのはシンジか? 

「お姫さまから“クリスタル”をいただきましたぁ!」、マコトの声が響いた。

 それっとばかりに、あちこちから手拍子とシャンパン・コールの大合唱が始まった。クリスタルとはシャンパンの中でも最高級のグレードに入る酒で、“ヘネシー・リシャール”のことだ。市場価格とホストクラブとの価格差は激しいが、クリスタルの店内価格は100万円から200万円だろうか。この酒を飲むときはバカラのクリスタルグラスを使う。メイン・ホストにとっては名誉で至福の時間だ。 

 運ばれたクリスタルを楽しむ俺の横でシンジは小さくなっていた。

 突然、携帯が鳴って席を外した淳子は、血の気が引いた真っ青の顔で戻った。

「悪い、ゴメンね。急用が出来て帰らなくちゃならないの。龍志くん、車が拾えるとこまでお願いね」

 

 タクシー乗場に近づいたが、ノッポなだけの鉛筆ビルの隙間に淳子を引っ張り込み、震えている女を抱きしめた。何か大変なことが起こったらしい。

「何があったか知らないが、淳子さん、君なら頑張れる、やれると思う。ほら、涙を拭こう」

 俺は抱きしめたままディープキスを続けた。

「そうね、やらなくっちゃね。龍志くん、今日は楽しかったわ」

 タクシーで消え去る女に、俺は小さく手を振った。後を追ったシンジが暗がりで見つめていた。


 閉店後の清掃タイム中、シンジは俺を気にして幾度も視線を泳がした。客と食事の約束があるホスト以外は、閉店後は全員で掃除し、その後はミーティング・タイムだ。多分、他のホストクラブもそうだろう。ミーティングが終わり、お疲れコールで帰ろうとする俺にシンジがすり寄った。

「用か? 話がありそうな顔だな。とにかく店を出よう」

 街道に沿った24時間営業のファミレスに入った。

「腹減ってないか、何でも食っていい、メシ奢るぞ」

 シンジは俯いたまま、消え入りそうな声で、

「龍志さん、すみませんでした……」

「話があるならはっきり言え、君は金を稼ぐいっぱしのホストだ。どうしたんだ?」

「あんなことをした僕を殴ってください。僕は、僕は……」


「もういい、最後まで言うな! 淳子さんは僕の本指名だ。僕の客を寝取ろうとどうしようと君の勝手だが、選ぶのは客だけだ。覚えとけよ! 先輩の本指名を取ったら喧嘩だけじゃ済まないぞ、見せしめで袋叩きに遭うぞ。鼻っぱしらを折られて2度とホストは出来ない顔になる、そういう世界だ」

「すみませんでした。信じてくれますか、僕が誘ったんじゃないです。ケイタイもらって……」

「どっちが誘おうがそんなことはどうでもいい。そして“枕営業”はするな! 自分を安く売るな! あの女はガキから男になりかける体が欲しかっただけだ。君の本指名にはならない、1回の関係で終わると断言する。君には君の世界があるだろう、そこで勝負しろ。もう一度言う、枕営業は続かない! ついでに言うが“初回枕”もするな! 意味がわかるか? 初めての来店客を上客にしようと期待して抱くな。それっきり来ないか、しつこく付きまとわれるだけだ。わかったか!」

 シンジは項垂れて聴いていた。

(本指名=その客を接客する専属の担当ホストで、ホストが辞めた場合や他店に移動しない限りこの関係は続く。他のホストが本指名を奪う、手を出すことはタブーである)

 

 シンジは19歳か、いいなあ、羨ましく思えた。俺は19のとき何やってたんだ? バイトはしたが親のスネをかじって、ろくろく勉強せずに女の子を追いかけたが、次の一歩が踏み出せなかった。あの頃は女を抱きたくてやりたくて仕方がなかった。あれが青春か? ロクでもない青春だった。思い出したくないものはたくさんあるが、思い出したいものはカケラもない。そして俺の青春は終わった。

 何だ? もう夜明けか、フザケンナ! 俺は眠ってないんだ! ぶつける場所がない自分を持て余した。


 ダラダラした眠りの狭間で、東京の街をあてもなく彷徨った日々を夢に見た。親父がカタイ職場だと喜んだ信用金庫を1年で辞め、理由すら告げずに新潟を飛び出した。そのうち親からの電話が煩わしくて携帯番号を変えた。小さな会社ならどこかに就職できるだろうと考えた俺は甘かった。書きかけの履歴書は現住所と保証人の欄が空白のままだ。こんな俺が働ける場所と云えば、建設現場かオミズの世界だと知った。居酒屋やファミレスのバイトは全部断られた。所持金は毎日減って行き、目的もなく夜の新宿を歩き回った。


 ある夜、俺は誰かに話しかけられた。間違いだろうと思ったが立ち止まった。

「お兄さん、アタシを買ってよ。3千円でいいよ」

 驚いてその女の顔を見た。田舎に置き去りにした妹と同じくらいだ。20歳かそこらの子が3千円で自分を売るのか? 呆れてマジ見したら、流行りの化粧をしているが手足にアザがあり、傍に大きなバッグが転がっていた。

「僕は援交するほど金はない、悪いが違う相手を見つけろ」

 それから幾日過ぎたのか、はっきりとは思い出せない。急に降り始めた雨に戸惑い、駅に逃げ込もうとした俺に、

「お兄さん、この前のお兄さん、やっぱりアタシを買ってよ。なんにも食べてないんだ」

 涙を溜めた目で見つめられた。これは男を引っ掛けるためのセリフか? 雨はいちだんと激しくなった。女のバッグを持って、手を引っ張って駆け出した。

「ダメ、もう走れない」

 座り込もうとした女を抱えて、俺は駅に走った。

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