第30話 なんでもない男の子
私にとって永井健太郎という人間は、日常の景色の片隅にいるなんでもない男の子だった。
「……永井健太郎です。趣味は特にありません。部活にも特に入るつもりはありません。一年間、よろしくお願いします」
登校初日。みんなの前で挨拶をした彼は、どこまでも淡白だった。
みんなはそんな彼に見向きもしない。
挨拶に面白みがなかったというだけなのだが、彼自身が触れられたくないオーラを醸し出していたのが一番の原因だったと思う。
私も、この時は彼に対してまったく興味を抱かなかった。
「あなた月乃っていうんだ、めっちゃ綺麗な名前だね」
初日からそう話しかけてくれたのは、桃色髪の派手めな女子だった。
桃木春流――――そう名乗った彼女は、ニコニコと人懐っこい笑みを浮かべながら近づいてくる。
「あ、このピンク髪は地毛じゃないよ? 苗字が桃木だから、覚えてもらいやすいように染めてきただけ」
「別に地毛だとは思ってないよ……」
「そう? じゃあいいや」
あっけらかんと笑っているハルを見て、この時の私も思わず笑顔になったことを覚えている。
それから彼女はよく私と絡んでくれるようになった。
自分から友達を作りにいくことが苦手だった私は、ハルがいてくれたおかげで一人になることはなく、常に人の輪に入っていられた。
対する彼は、入学して一週間が経過した今でも一人でいる。
「ねぇー、近くのカラオケってどこが一番安いの?」
「駅前のビッグマイクじゃね? フリーで入ればだいぶ安かったと思う」
「ふーん……じゃあ今日はそこでいっか」
ハルと鬼島がそんな会話をしている。
入学して早々、私たちは毎日のように遊んでいた。
正直疲れてきているのは否めないけれど、付き合いが悪いと思われたくないから仕方がない。
それにハルや鬼島がいてくれれば退屈はしないし――――。
「えっと、君も行く? 確か永井だったよね、名前」
「……へ?」
その時、急にハルが彼に声をかけた。
きっと断るだろう。
そう思って見守っていると、彼の返答の前にハルがクラス全員で行こうと言い出した。
あれよあれよという間に、クラスメイトたちが集まってくる。
彼が誘い断るタイミングは、こうしてなくなってしまった。
「……ねぇ、永井」
「え?」
「あんたさ、本当は行きたくなかったりしない?」
「……へ?」
「別に、そうじゃないならいいけど……なんかそんな気がしただけ」
私は初めて彼に話しかけた。
彼の表情は、明らかに行きたくなさそうだった。
多分彼は私と同じように人間関係が苦手なタイプ。
自分の意見を主張したり、誘いを断るのが苦手なのは、その雰囲気から明らかである。
だからこそ、私はそれを理解できた。
しかし、私の予想に反して、彼は首を横に振る。
「……大丈夫、嫌ではないから」
それまで行きたくなさそうにしていた彼の表情が、少しだけ変化していた。
彼は彼なりに勇気を出そうとしているのかもしれない。
そう思った私は、それ以上気を使うことをやめた。
「そう? ならいいけど」
私はハルたちについて、教室を出る。
彼が私の助けを必要としなかった時点で、これ以上絡む必要はなくなった。
きっとこの先、彼と私がクラスメイト以上の関係になることはないだろう。
この時の私は、間違いなくそう思っていた。
事情が変わったのは、向かった先のカラオケで、彼が『あの曲』を歌った時。
その曲は、私が好きなアニメの劇中歌。
アニメ自体がかなりマイナーであるせいで、この曲を知っている人は本当に珍しい。
私はここで彼を生粋のオタクであると決めつけた。
それからすぐ、彼はカラオケを出て行ってしまった。
用があるなんて嘘。
私も似たような理由で遊びの途中で抜けたことがあるから、すぐに分かる。
「ごめん、私も帰るね」
「え、月乃⁉︎」
お金を置いて、私は彼を追う。
案の定、彼はのんびり駅のホームを歩いていた。
そしてベンチに座った後、ボソリとあのセリフを口にする。
「
そのセリフが聞こえてきた時、私は思わず彼に話しかけていた。
好きな作品を語り合ったことで、私たちはすぐに仲良くなった。
放課後は彼の家に行って漫画を読んで、一緒にアニメを見て、夜コンビニで買い物したりして。
まるで同棲でもしているかのような関係性に、ずっとドキドキしっぱなしだった。
それもこれも、すべては彼が安心を与えてくれたから――――。
男の子に見られると、いつも恐怖で体がぞわぞわした。
詰め寄られると強張ってしまって、まともに喋れなくなってしまう。
だけど、彼と話している時はそれがなかった。
彼から向けられる視線は、まったく嫌じゃない。
彼の飾らない言葉は、怖がることなく聞いていられる。
それが私にとってどれだけ嬉しいことだったか、きっと彼は気づいていないだろう。
いつしか彼から向けられる視線は、嫌じゃないどころかドキドキするようになってしまった。
彼と会う前には、普段から短くしているスカートをさらに短くすることもあった。
まあ、彼は足よりも胸派だったみたいだけど。
自分が彼を好きなんだと自覚したのは、イベントスタッフのバイトで絡まれていたところを助けてくれた時。
他人と関わることが苦手な彼が、私のために強気な態度を見せている。
彼にとって、私という存在が特別なものになった気がした。
「だってあんな奴と雪河が付き合ってるとかありえないじゃんか。いくらなんでも隠キャじゃ釣り合わねぇだろ」
ファミレスに勉強しに行った日のこと。
山中がその言葉を口にした時、私は一瞬にして嫌悪感と激しい怒りを覚えた。
ろくに彼のことを知らない人が、何故悪く言えるのだろう。
怒りで頭がぐしゃぐしゃになる。
気づけば、私はソファーから勢いよく立ち上がっていた。
「健太郎の何を知ってるの? 内気な人を隠キャなんて言ってバカにして……あんたたちみたいな人が一番嫌い」
人にこんな厳しい言葉を吐いたのは、生まれて初めてだった。
私は、彼のことが好き。
だけどまさか、彼のことを悪く言われただけで、こんなにも怒りを覚えるとは思っていなかった。
かつてない感情に振り回され、思わず目頭に涙が浮かぶ。
もうここにいたくない。
私は席を立って、ファミレスを出た。
感情に振り回されるなんて、自分が恥ずかしい。
怒りや悔しさ、情けなさで、今どこに立っているのかも分からなくなる。
「――――月乃!」
彼の声で呼び止められた時、私はようやく正気を取り戻した。
振り返れば、血相を変えた彼がそこにいる。
追いかけてきてくれたことが嬉しくて、こんな姿を見せてしまったことが申し訳なくて。
手を握られて彼の家まで帰っている間、私は何も言えず、黙っていることしかできなかった。
彼の家に移動した後、私はことの顛末をすべて話した。
何故ファミレスから出て行ったのか。
山中とユカとの喧嘩のこと、そしてその原因。
私がすべてを話している間、彼はそれを黙って聞いてくれた。
「健太郎とここでずっと一緒にいたい……たまにハルと鬼島も遊びに来て……毎日アニメ見て、漫画読んで、ゲームして……夜はコンビニに行ってお菓子買って……好きな時に寝て、好きな時に起きるの」
まるで子供のわがままのような願い。
しかし彼は、そんな願いに同調してくれた。
やっぱりここにいると安心する。
彼の隣にずっといたい。
そう思えば思うほど、胸がきゅーっとして泣きそうになる。
私は心の底から、彼――――永井健太郎のことが好き。
「……一生、お前を支える。だから、俺と付き合ってほしい」
だから彼の気持ちをぶつけられた時、天にも昇る喜びが駆け抜けた。
これからはずっと側にいる。
その決意の表れとして、私は彼の唇を奪った。
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