第29話 ファーストキス

「……」


 家に着いた後も、月乃はしばらく無言だった。

 山中たちと何かあったことは、すでに俺もなんとなく気づいている。

 あの場に山中と渡辺がいなかった時点で、トラブルは人間関係であることは明白だ。

 問題なのは、そうなってしまったきっかけ。


「……ごめん」


 隣に座る月乃が、消え入りそうな声でそう告げてきた。

 謝罪の意味が分からず、俺は首を傾げる。


「……どうしてお前が謝るんだよ」


「こうやって迷惑かけてるから」


「迷惑なわけないだろ?」


 俺がそう問いかけると、月乃はしばらく迷った後、一つ頷いた。

 月乃がどうしようと、俺はそれを迷惑だとは思わない。

 ここにある絆は、俺が初めて失いたくないと思った絆なんだ。

 それを失わないためなら、いくらでも俺に負担をかけてくれていい。


「……私ね、あんたにすごい感謝してるんだ」


「感謝?」


「健太郎があたしを受け入れてくれたおかげで、今日まで寂しくなかった。ここにいさせてもらえただけで……一緒にいてくれただけで、私は孤独を忘れられた」


「……」


「健太郎は、私の大事な人。なのに……あの二人は、そんな健太郎を貶した」


 俺はハッと息を呑む。

 ようやく、すべてを察することができた。


 山中と渡辺によく思われていないことくらい分かっていた。

 俺がトイレに行くと言って席を立ったあの一瞬に、二人が俺の悪口を言っていてもおかしくない。

 それくらいはもちろん考えていたし、覚悟もしていた。

 その上で、そんなのどうでもよかった。

 俺には月乃たちとの日常があったから――――。

 

 だけどもし、俺の周りにいる人間が、月乃の悪口を言っていただらどう思うだろう。

 自分のことなんていくら言われたって構わない。

 しかしそれが月乃や身近な人間の悪口だったら、俺はそいつを許せないだろう。

 

「二人と、喧嘩したのか?」


「……」


 月乃が頷く。


「二人とも、健太郎の悪口を言ってた。だから私はそれを『最低』って言って、店を飛び出したの。ハルと鬼島もそれに付き合ってくれた」

 

「そういうことだったのか……」


 要は俺のために怒ってくれたわけだ。

 他人事のように聞こえるかもしれないが、正直嬉しい。

 自分のことで怒ってくれる人がいるというのが、こんなにも嬉しいことなのか。

 人付き合いを避けていたこれまでの俺では、絶対に理解できなかった感覚。

 しかし、この話は簡単に解決する話ではない。

 俺は俺のせいで、そこにあった一つの絆を壊した。

 俺がいなければ、一軍メンバーの絆に致命的な亀裂が入ることはなかったのだ。

 思わず拳を強く握ってしまう。

 自分がもっと他人とかかわることができる人間だったら、もっと上手く立ち回れたのに――――。


「……私、もうここから出たくない」


「え?」


 月乃はまるで殻にこもるかのように膝を抱えてしまう。


「健太郎とここでずっと一緒にいたい……たまにハルと鬼島も遊びに来て……毎日アニメ見て、漫画読んで、ゲームして……夜はコンビニに行ってお菓子買って……好きな時に寝て、好きな時に起きるの」


「それは……最高だな」


「でしょ?」


 二人で顔を見合わせて笑う。


「出前とか頼むのもありだな。週末は曜日を忘れないためにピザでも頼むか」


「いいね。でも私、健太郎の作ったご飯も食べたい」


「じゃあネットスーパーで食材買うか。それなら家から出なくても食材調達できるしな」


「冬になったら鍋とかもいいよね。好きな食材入れてさ」


「その時はハルも鬼島も呼ぶか」

 

「コーヒーとか紅茶とかも、インスタントじゃなくて自分で一から淹れてみたいな……なんだっけ、コーヒーミル? とか買ってさ」


「ああ、ちょうど気になってたんだよな、そういうの。でもなんかハードル高い感じがしたっていうか」


「分かる。でも手作りのお菓子と自分たちで淹れたコーヒーがあったら最高じゃない?」


「それは最高。間違いない」


 それから俺たちは、思い描ける限りの理想を交互に話し続けた。

 しかし、俺たちは理解している。

 そんな生活が叶うはずがないと。


「全部……叶ったらいいなぁ」


 月乃の目が、わずかに潤む。

 夢物語であることは間違いない。

 それでも、月乃はそれを本気で望んでいる。

 なら、俺にできることは――――。


「叶えればいいだろ」


「え……?」


「一気に全部は無理でも、一つずつなら叶うかもしれない。やりたいなら全部やればいいんだよ」


 俺は月乃と目を合わせ、その手を掴んだ。

 自分の言葉が、少しでも彼女の心に届くように。


「俺が付き合う。いくらでも、なんにでも付き合うよ。引きこもりも、夜のコンビニも、全部付き合う」


「……!」


「この先また人間関係で疲れたり、嫌な思いをした時は、俺が支える。ずっとずっと支えていく。別にそれが一生になったってかまわな――――」


 俺が何を口走ろうとしていたのか、ここでようやく気付く。

 そしてじんわりと冷や汗をかきながら、俺はパクパクと口を開閉した。


「一生、何?」


「あ、いや……その」


 顔が熱い。

 違う、そういう話をしようとしていたわけじゃない。

 俺はあくまで月乃を励まそうとしていただけ。

 決して自分の想いを伝えようとしていたわけでは……。


「……ちゃんと言って? 健太郎」


「っ!」


 月乃のねだるような潤んだ目に、思わず怯む。

 しかし自分から繋いだはずの手は、いつの間にか月乃の方からも握り返されていた。

 これでは離れることもできない。


「……」


 俺はふと、強張っていた体から力を抜いた。

 焦るんじゃなくて、よく考えろ。

 月乃が苦しそうにしている時、どう思った?

 側にいたい、そう思ったはずだ。

 そして同時に、このポジションを誰にも取られたくないとも――――。


(だったら、答えは一つなんじゃないのか)

 

 俺は再び月乃の目を見つめ直した。

 彼女の透き通るような青い目も、こちらに真っ直ぐ向いている。

 

「……一生、お前を支える。だから、俺と付き合ってほしい」


 すべての勇気を振り絞って、その言葉を月乃にぶつける。

 心臓が早鐘を打ち、今にもどこかの血管が焼き切れてしまいそうだ。

 覚悟を決めたはずなのに、手足に変な力が入る。


 しばしの沈黙。

 やがて月乃は、言葉ではなく、瞳から涙を溢れさせた。


「月乃……⁉ だ、大丈夫――――」


「大丈夫……大丈夫だから」


 焦る俺をよそに、月乃は自身で涙を拭う。

 そして眩しくも儚い笑みを浮かべた彼女は、俺の手をさらに力を込めて握った。


「嫌なことがあったら、慰めてくれる?」


「……ああ」


「面白い漫画があったら、すぐに教えてくれる?」


「当り前だ」


「面白いアニメがあったら、一緒に見てくれる?」


「もちろん」


「どんな時でも……ずっと一緒にいてくれる?」


 最後の問いかけに対し、俺は力強く頷く。


「ああ……俺は月乃と、ずっと一緒にいる」


 俺はその言葉を、月乃と、そして自分に言い聞かせるように告げた。

 

「……嘘だったら、殴る」


「ああ、俺が嘘つくような時があったら、いくらでも殴ってくれ」


「分かった……それなら、いいよ」


「え?」


「私も、健太郎の彼女になりたい」


 気づけば、俺は月乃に唇を奪われていた。

 驚きのあまり、思わず目を見開く。

 眼前には、緊張で顔をこわばらせている、どこまでも綺麗な彼女の顔があった。

 触れ合った唇は温かく、そして柔らかい。


「……ちょっと失敗しちゃった」


 唇を離した月乃が、照れくさそうに口元を押さえる。

 勢いが良すぎたためか、確かに少しばかり歯が当たった気がした。

 しかし、俺にはそんなことを気にしている余裕なんてありゃしない。

 

「ねぇ、なんか言ってよ……一応、パパ以外の人とキスするの初めてだったんだし」


「月乃の……ファーストキス」


「ちょっ……! 言い方キモイ!」


「うおっ⁉」


 ソファーの上で突き飛ばされ、俺たちはじゃれ合う。

 お互いがそれを照れ隠しだと気づいていた。

 だからこそ、野暮なことは言わない。

 

(まさか……彼女ができるなんてな)


 彼女どころか、ずっと友達すら作れずにいた俺。

 そんな俺に、こんな奇跡があっていいのだろうか?


(いや、違う――――)


 奇跡という儚いきっかけを想うからこそ、不安になる。

 それなら俺が努力することで、奇跡でなくすればいい。

 自分でつかみ取った現実なのだと実感できれば、きっとこんな不安などどこかへ吹き飛ぶ。


 月乃の側にいるためなら、なんだってやろう。 

 共にいるという約束を、一生果たし続けるために。

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