第5話 雑念
「……」
リビングの外から、シャワーの音が聞こえてくる。
ソファーに腰掛けている俺は、その悩ましい音に頭を抱えていた。
(そりゃ泊まるならシャワーはうちで浴びるよな……)
思わず雪河が泊まることを受け入れてしまった俺だが、冷静になるにつれて胸がやけに高鳴っていることに気づく。
分かる。分かっている。
別に雪河と俺がどうにかなるなんてありえないことだって、ちゃんと分かっているんだ。
それでも、俺だって一応男であるわけで。
このシチュエーションに何も感じないなんてことは不可能だった。
「っ……」
シャワーの音が止まる。
それからしばらくして、雪河がリビングへと戻ってきた。
「シャワーありがと。さっぱりした」
「ああ、それくらい別に――――ぶっ」
戻ってきた雪河の格好を見て、俺は思わず吹き出してしまう。
俺は彼女に着替えとして部屋着用のTシャツと、高校入学と同時に購入を促されたジャージの下を預けた。
ジャージに関してはまだ学校で穿く機会もなかったから、男子の物でも身に着けやすいのではないかと思って渡したのだが……。
「なんで下を穿いてないんだよ⁉」
そう、雪河は何故か渡したはずのジャージを穿いてなかった。
幸い俺の方が背が高いため、オーバーサイズとなったTシャツが股下まで隠してくれている。
しかし、それでも中々きわどい格好だ。
一瞬視界に入ったのは、Tシャツの下から伸びた艶めかしい素足。
本当にたった一瞬の光景だったのに、やたらと目に焼き付いて消えてくれない。
「あ、ごめん。ちょっと腰回りと丈が合わなくてさ」
「ああ、そっか……悪い、配慮が足りなくて」
雪河にとって、確かに俺のジャージは少々大きいかもしれない。
経験不足が露呈したな、これは。
「あれー? もしかして照れてる?」
「おまっ……電車の時の仕返しか、それ」
「さーね。ジャージは返すよ。私は別にこのままでも大丈夫だから」
「雪河が大丈夫でも俺が大丈夫じゃないよ……ちょっと待っててくれ」
確かクローゼットの奥に中学の頃の体操着が残っていた。
つい先日まで使っていた物だし、虫に食われてたりはしないはず。
少しかかって見つけ出した俺は、それを雪河へと渡した。
「これを穿いてくれ。洗濯はしてるから綺麗……だと思う」
「ありがと」
「雪河って……結構慣れてるのか? その、こうやって人の家に泊まるの」
あまりにも堂々としているため、気になったというか、なんというか。
ほぼ無意識のうちに、俺は雪河に向かってそう問いかけていた。
「いや、初めてだけど」
「そうか、やっぱり――――って、初めて⁉」
「うん。私、あんまり友達いなかったから」
そう言いながら、雪河は寂しげにため息をついた。
「中学の途中まで海外にいたから、こっちに友達なんてほとんどいなかったし……別に海外に友達がいたってわけでもなかったし」
「……意外と陰キャなんだな、雪河って」
「ちょっと、陰キャって言わないでよ」
「それは悪かった。じゃあ……控えめな性格?」
「大して意味変わってないよ」
そんな会話をしていたら、自然と俺たちは笑顔になっていた。
久しぶりに、他人と会話がかみ合っている気がする。
別にそれを確かめられるほど、多くの人間と会話しているわけではないのだが――――。
「なんか、家族以外でこんなに誰かと話したの久しぶりかも」
「……そういえば、親は大丈夫なのか? その……俺の家に泊まることになってさ」
「その辺の良し悪しは私の判断に一任されてるから、大丈夫。二人とも自由奔放に仕事してて、あんまり帰ってこないしね」
「どんな仕事だよ、それ」
「パパが風景を撮る写真家で、世界中を飛び回ってるの。ママは基本それの付き添い。だから二人とも月に数回帰ってくるだけで、基本的に家には私一人でいることが多いんだ」
「へぇ……!」
写真家という存在がいるのはもちろん知っていたが、実際にそれを生業にしている人の話を聞いたのは初めてだ。
大きな思い入れはなくとも、珍しい職業の話を聞くと少しワクワクする。
「でも……こんな風に自分の城? って感じの一人暮らしマジ憧れる。私も似たような状況だけど、やっぱ全部自由にはできないし」
そう言いながら、雪河は改めて周囲を見回した。
「ねぇ、永井はいつからこの部屋に住んでるの?」
「中学を卒業する少し前からだから、ちょうど一か月くらいかな」
「本とかは家から持ってきた感じ? 割と年期入ってる感じだし」
「ああ、昔からコツコツ買ってたやつが多いよ。あと家具とかもほとんど貰い物だから、ちょっと古い感じがするのが難点だな……」
「私は味だと思うけどね」
ソファーを撫でた雪河は、楽しそうに笑った。
表情豊かな彼女を見ているのは、正直かなり楽しい。
もっといろんな表情が見てみたい――――こっちが自然とそう思ってしまうような、強い魅力を感じる。
周りの人間はまだ彼女のこういった部分を知らないのだと思うと、少しばかり優越感すら覚えた。
(まあ、今だけだと思うけど……)
俺は多くを望まない。
雪河のことを独り占めしたいなんて思わないし、このまま関係を発展させたいとも考えない。
強い魅力で他人を惹きつける彼女は、もっと多くの人に囲まれるべき存在だ。
いつかは街でスカウトされて、モデルや芸能人になる可能性だってある。
俺が一つ望むとしたら、今日みたいに好きな作品について語り合うことができるような、オタク趣味を共有している友人になること。
生まれて初めて、俺は人と“オタ友”になりたいと願っている。
(そのためにはますますオタク趣味に浸かってもらわないとな)
俺は立ち上がって、本棚から漫画を取り出す。
そのタイトルは、『時をかける宅配便』。
「ほら、今日はこれを読みに来たんだろ?」
「あ、そうだった」
「俺は俺で風呂入ったり適当に過ごしてるから、好きに読んでてくれ。お茶でよければ冷蔵庫に入ってるから、喉が渇いたらご自由に」
「至れり尽くせりだね」
「この家初めての来客ですから」
「うむ、くるしゅーない」
「そこまでお偉いさん扱いしてねーよ」
ソファーで横になった雪河が、ケラケラと笑う。
俺も雪河と同じで、人とここまで会話したのは久しぶりだった。
不覚にもはしゃいでいる自分がいることを恥ずかしく思いつつ、俺は風呂場へと向かう。
あ、そういえば寝床はどうしようか。
うちのベッドはダブルサイズだし、二人寝られないこともないけど――――。
(って、あり得ないあり得ない)
一瞬ラブコメ脳に切り替わった頭を、無理やり正常に戻す。
俺がソファーで寝て、雪河にはベッドで寝てもらえば済む話だ。
かけがえのないオタ友を目指すためには、常に心は清らかでなければならない。
(邪念を殺せ……消えよ煩悩)
頭の中でそんな呪文を何度も繰り返しながら、俺は改めて風呂場に入った。
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