むねこがる

 気が塞ぐ凪を慰めるためか、あるいは話を逸らすためか。直之進はおもむろに立ちあがり障子戸を開け放った。夜空ではちょうど薄曇りが晴れ、三日月が笑う。

「見よ、月が素晴らしい」

 そのとき直之進の足元、凪の眼前を黒い影が横切った。黒猫だ。泥足で寝所を駆けまわられては堪らないと、直之進がすかさず首根っこを掴む。すると、猫は咥えていた何かを取り落とした。

 ぽろりと畳の上に転がる小さな肌守り。晴れやかな空色の地に細やかな刺繍、そしてべったりと染みついた赤褐色の血。

 刹那、凪の黒々とした目が零れ落ちんばかりに見開かれる。生首だというのに胸が締め付けられるような心地がした。苦しさで呼吸が浅くなる。目の奥が痛み潤む。凪は動揺を誤魔化すように、きつく唇を噛んだ。

 しかし、訊かずにはいられない。

「直之進さま、それは――」

「気にせずともよい。ただの迷い猫よ」

 直之進は凪の言葉を遮ると、「平介! 平介はるか!」と大声で腹心を呼びつけた。ややあって、直之進と同じ年恰好の者が駆けつける。いかにも真面目で実直そうな男だ。

「始末しておけ」

 猫と肌守りを押し付けられた腹心――平介は、凪の姿を目に留めると「そちらは……」と言葉を濁した。その瞳に宿るのは抜け首という怪異に対する怯えではない。辟易、罪責、後悔。凪は彼をジッと見つめ返す。平介の心を、墨色の眼差しが貫く。

 彼らにとって永久とも思われた寸刻は、直之進の一言により終わりを告げる。

「今宵は構わぬ。さっさと下がれ」

 平介は、まるでやましさから逃れるようにその場を後にした。



「もう、此処へ来てはいけないよ」

 屋敷の外へ出た平介は、抱えた黒猫をそっと逃がしてやる。彼の苦悩を知ってか知らずか、猫はニャアとひと声鳴いて暗がりへ消えていった。

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