故郷への帰還
波の向こうに懐かしい陸地が見えて来た。離れていたのは半年と少しだが、もう何年も前のように思える。
港町で育ったのにロイダとヨーナは大型船に乗るのは初めてだと言って、ずっと甲板から景色を眺めている。サジイル王国に近付くにつれて気温は上がってきたが、まだ震える程に寒い。二人が毛布をぐるぐるに巻き付けた姿は丸々太った子犬のようだ。
可愛いけれど、海に転げ落ちそうで気になって仕方ない。
二人を怖がらせたくないから、ホーソンには簡単な紹介だけ許して、近寄らないように言い付けた。ホーソンは船に乗ってからの数日、ずっと遠くから二人を観察している。
「殿下は今までどんな女性をご紹介しても、興味を持たれませんでした。その殿下のお心をここまで掴まれたとは、非常に興味深い」
「王宮でやっていけると思うか?」
ホーソンは少し考えるそぶりを見せた。
「期待する内容にもよりますが。先の王妃様のように政治において殿下を助ける事は難しいでしょう。今の王妃様のように民の気持ちに寄り添い助ける福祉にはお力を発揮されると思います。しかし――」
「何だ」
「観察力や芸術面に秀でた力を感じます。我が国の芸術や産業などにおいて、今までにない視点をもたらすかもしれませんね」
「なるほどな」
「私にはロイダ嬢が良い王妃になる姿が思い浮かびます。しかし! その前に、ロイダ嬢のお心をしっかり掴んで下さい。全てはそれからです」
「そうなんだよなあ」
ガイデルに別れを告げ、互いに別の道を進む事にしたと言っていた。だからと言って今すぐ俺の方を向いてくれるとは思えない。親兄弟のような関係で落ち着いてしまっている今、どうやってそれを変えられるのか皆目分からない。
「経験者にお尋ねになるんですな」
父か。国が近づくにつれて俺の心は重くなっていた。王子としての無責任極まりない行為を確実に叱責されるはずだ。分かっていても気が重い。
(ホーソンの時のように、儀式を受けると先手を打とうか)
いや、父には通じないだろう。
◇
「お久しぶりです、父上」
緊張しながら、久しぶりに訪れた父の私室の様子を目で探る。何も変わらない。父が好む薬草茶の香りが漂っている。俺はこのお茶が苦くて嫌いだが、今日はそれを懐かしく感じ、妙に美味しく感じた。
「久しぶりじゃないだろう」
意外にも、怒りでも不愉快な顔でもなく優しい顔を向けてくれた。
「お前の行動については、ホーソンからきつい叱責を受けたのだろう? ならば、もう私から言う事は無い。お前にはお前の考えがあったと信じている」
「ありがとうございます」
俺は父の信頼に足る行動を取っていただろうか。思い返す事は叱責を受けるよりも辛かった。
改めて経緯を話した。
「平民として生活をして何を見た」
人の扱いの軽さ、権力者の傍若無人な振る舞い、戦を長く続ける事の影響を伝えた。
「権力者の民への影響力の強さは異常にも思えましたが、戦乱が長く続いている事に原因があると推測しています。個々を尊重する前に国が生き延びなければならない。民に上意に従うのが当然との感覚を巧みに刷り込んでいるように思えます」
父の顔が険しくなる。
「しかし学校教育で、そういう思想指導は無いようでした。家庭で代々受け継がれる思想のようです」
「我が国とは、民の心持ちから違うようだな。敵国として戦をするなら、恐ろしい相手ではある」
父は沈鬱な顔をして、少し考えにふけった。
「すまない、続けてくれ」
「悪い手本として我が国を見直したくなる事も多く見ましたが、良い面も見ました」
「ほう、どんな事だ」
「あの国は資源が少なく土壌と気候に恵まれず、農作物の豊かさも望めません。代わりに産業と商業が発達しています。どちらにも、民の創意工夫が凝らされていました。恵まれないからこそ、知恵と工夫で乗り切る逞しさがありました。それが発展に繋がっているのでしょう」
「なるほどな。⋯⋯恵まれないからこそか」
「我が国でも、産業や商業に力を注ぎたいと考える者もいるでしょう。しかし、やらずとも困らない状況では励む気にもなりにくい。そういう者が、励めば甲斐があるような補助をしてやりたい」
「面白いな。試してみろ」
他にもこの半年の所感や、試したい事、後で調べたい事を日々書き散らした帳面が数冊ある。政治の中枢を担う者や学者と、改めて内容を検討する事になった。
「意外と王子らしい事もしていたんじゃないか」
父は機嫌よく笑った。
「町で仕事をして暮らしてみてどうだった。自らの働きで給金をもらう経験は私には無い。給金の範囲で生活を成り立たせるというのは難しい事か」
俺や父が育った環境では、そう体験できる事では無い。
「ロイダの刺繍で得る報酬は、あの年代の女性が一人で稼ぐ額としては比較的高額で、平民家庭の平均的な月額収入と同程度でした。それで三人分の衣食住を賄う事に不便は感じませんでした。家計はロイダが全て管理していましたが、蓄えに手を付けるような状況では無かったと聞いています」
ロイダは、そういう状況になっても言わない気がする。本当に大丈夫だったのか少し心配になって来た。
「ちょっと待て。お前も仕事をして給金を得ていたんじゃないのか。ロイダ嬢の稼ぎで生活をしていたのか!」
俺は恥ずかしくなった。顔が熱くなっているのが分かる。
「俺は給金の大半をロイダに渡しましたが、彼女が使いませんでした。俺が国に帰る時には旅費が必要だろうと俺に言わずに蓄えていました」
その事は後で問い詰めたけれど、悪びれもせずに『驚きましたか?』と笑っていた。その後も何度言っても使おうとしなかった。
「旅費が必要無いなら、国で待つ方にこの国のお土産でも買ったらいかがですか?」
そう言ってふわふわと笑う。こういう所は本当に頑固だ。
彼女の笑顔を思い出し、つられて微笑んでいると父が心底呆れたような顔をした。
「お前にはもったいない女性だな⋯⋯」
父はため息をついたが、少し嬉しそうな顔をする。
「雰囲気がずいぶん柔らかくなったな。顔色も良く以前よりも健康そうに見える。夜は眠れるようになったのか」
「はい、毎晩深く眠ることが出来ます」
「それも、ロイダ嬢のおかげか?」
「はい、そうです」
父は感情の読み取りにくい何とも微妙な表情をした。
「ホーソンから、お前の一方的な好意だと聞いている。本当か」
ホーソンの経験者に聞けという言葉が頭をよぎる。父にこんな相談をするなんて。恥を忍んで口に出した。
「親兄弟のような好意は持ってもらえているはずです。しかし、そこからどうやって、結婚相手として気持ちを向けてもらえばいいか分かりません」
恥ずかしくて穴に潜りたい気分だが、何としても彼女の心を俺に向けたい。顔が熱くて仕方ないが、恥をかく事くらい耐えるべきだ。
「ホーソンらしくない妙な冗談ではないかと思ったが」
父は少し驚いた顔をした後に、真面目な顔になった。
「俺が試みた事を教えてやろう」
多くの助言をもらう事が出来た。すぐに実行出来る事も多くある。恥をかいた以上の収穫に満足した。
中でも父が言った言葉の一つは、大切に心に留めた。
ロイダとヨーナを助けた事は何度もあるが、それ以上に俺は二人に守られていると感じる事が多いと伝えた。
「そういう関係を『支え合っている』と言うんだ。ロイダ嬢はお前の支えになっている事を分かっているのか? 自立心が強いならなおさら、支えられているだけだと気後れしていないか?」
その事を伝えられなかった為に、継母は父の元から身を引いて去ったと父は言った。これは、とても大事な助言だろう。
父はロイダに会いたがったが、絶対に怖がるはずだ。継母とロイダを引き合わせて、その様子をこっそり見る事で妥協してもらった。
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