芽生えた気持ち

 数日後に王都への出立を控えた日の朝、ガイデルはいつもよりも早く稽古を切り上げた。


「少しだけ話せるか?」


 ガイデルは丘の方に視線を向けて俺を誘った。台所で朝食の支度をしている音が聞こえる。ロイダには聞かれたくない話なのだろう。俺が頷くと、護衛が心得たようにヨーナを抱き上げて、遊びに誘ってやっていた。


 庭を抜けて丘を少し上り、少し開けた場所で足を止めた。眼下には穏やかな海面が広がり朝日を映している。


「これ、ロイダに頼まれていたものだ」


 手渡された紙は、懐に入れられたまま稽古をしていたせいで端がよれている。


「頼みを聞いてもらって言うのも悪いが、書類の扱いが雑だな」


 俺は仕事に関しては几帳面だと言われる。執務室の机が書類で散らかるのが嫌いだった。正しく分類して整理しておかないと気持ち悪い。


「意外な事を言うな。気にしないかと思った」

「お前、もしかして書類仕事は苦手なのか? 王宮では文官になると言っていたな。武官を目指した方がいいんじゃないか」


 ガイデルはため息をついて、俺もそう思うとぼやいた。ガイデルは、俺をサジイル王国の貴族の息子だと思っているようだ。年齢が近い事もあり、自分と対等な立場として扱ってくれている。


 書類を開くと、俺の身元を証明する内容が書かれていた。


「32歳? 俺、そんな歳に見えるか? まだ20歳だ」

「死人の身元を借りてるんだ。短期間で使えそうな身元を見つけるのに苦労したんだ、我慢しろ」


 港町は人の出入りに寛容で身元の確認は船の単位でしか行わない。しかし、大きな町に出入りするには個人の身元を証明する書類が必要になる。特に王都の出入りは厳しいと聞く。王都に行くと決めた俺の為に、ロイダがガイデルに頼んでくれた。


「ありがとう、助かった」


 不法滞在の片棒を担がせているのだから、心から感謝しなければならない。


「それと、王都での仕事を見つけた。ロイダが借りる家の近くに武術の訓練所がある。そこに師範の口があった。報酬も悪くない。王都ではロイダの稼ぎに頼るのはやめて働け」

「ありがとう。手間をかけて悪かったな」

「ロイダのためだ」


 少し不思議に思う。ロイダとヨーナの安全の為とはいえ、他の男が一緒に暮らす事を不快に思わないのだろうか。ガイデルは仕立て屋夫婦が、俺とロイダの仲を恋人だと誤解している事も知っているらしい。


(俺だったら、かなり不快に思うだろうな)


 不快どころか許せない気がする。同じ部屋で寝ているなんて知ったら、相手の男を叩き切るだろう。改めて自分の行いが非常識だと反省する。止める気はないが。


「訓練所には俺も時間を見つけて通う予定だ。王都でも手合わせ出来るのを楽しみにしている」

「ははん、なるほど。そこで俺をきっかけにしてロイダと会おうという魂胆か」


 からかってみたが、ガイデルは沈鬱な顔をして海を見やった。


「王都ではロイダとは会わないつもりだ。⋯⋯俺の縁談が進んでいる」

「相手が妾を認めないと言っているのか?」


 この国の制度では妾が認められていると聞いた。しかし婚家との力関係や妻の気質によっては妾を持つのが難しい事は想像出来る。


「聞いていない。しかし、結婚は相手の人生を変える事だ。軌道に乗せるまでは全力で向き合おうと思う」

「そうか」

「だからここに居る間に、ロイダの話を固めてしまいたかったんだ。先にロイダの事が決まっていれば、相手にも聞きやすい。だって、決まってもいない妾の事を先に問う訳にはいかないだろう。俺は、ロイダ以外に妾を迎える気は無い」


 ガイデルの性格を考えると、隠して結婚するのは嫌なのだろう。かといって、決まってもいない事で相手を傷つける気にもなれないのだろう。難しい立場だと言う事は想像出来る。


「でもロイダには断られた。あんな卑怯な手まで使ったのに、駄目だった」

「お前、何をしたんだ?」


 卑怯な手とは、聞き流せない。恐らくロイダの誕生日の夜の事だろう。彼女は平気な顔を作っていたが、夜中に一人で泣いていた。隣の部屋で声を殺して泣く彼女に俺は何もしてやれなかった。


「全てを捨てるから俺を受け入れてくれと頼んだ。彼女が、絶対に俺にそんな事をさせないって承知の上で言ったんだ。あれはもう脅迫だ。惨い事をしたと後悔している」


 ガイデルは何かに耐えるように目を固くつむった。『最低だな』言いかけて俺は口を閉じる。彼女の優しさを利用して居座っている点では、俺の行動も大差ない。


「あなたは、国元にそういう人はいないのか。まさか妻子を置いて来ていないだろうな」

「俺には妻子も婚約者もいない。そういう事を気に掛ける余裕なんて無かった。だからロイダがお前を想っているのに断る気持ちも、良く分からない」

「ロイダが俺を想っているか。あなたの目にもそう見えるんだな。⋯⋯だから、余計に諦められない。いっそ嫌われていれば想いを断ち切れるのにな」


 ガイデルは自嘲するように笑う。


「王都では、それなりに人生経験がある仕立て屋でも上手くやれるのか心配だ。ましてやロイダがヨーナを抱えて暮らす事が簡単だとは思えない。だから、あなたが傍にいてくれて良かったと思っている。それに――」


 彼らしくなく、気弱な声でつぶやく。風の音でかき消され、よく耳を澄ませないと聞こえないほどの声。


「ロイダの気持ちが、あなたに向いても、それをあなたが受け入れたとしても、俺は何も言うつもりは無い。言う権利も無い」


 馬鹿正直で真っ直ぐな男だ。手を出すなと言っても不自然ではないのに。俺は、ガイデルの言葉に少し安心する自分にも苛立つ。


「ロイダとは長い付き合いになるが、俺の立場を利用した頼み事をされたのは初めてだ。今までただの一度も無かった」


 俺の身元を詐称する書類。


「それだけ、あなたと一緒にいたいと言うことだ」


 俺にはいつの間にか、ロイダとガイデルが結ばれるのが嫌だと思う気持ちが芽生えている。


(それは、安眠を失うからか、ロイダを大切に思う気持ちに友人以上の感情が入っているのか)


 俺にも分からない。しかし少なくとも、姉妹と暮らしたいという気持ちが王子としての責任感を上回っている事は確かだ。俺は自分に言い聞かせるようにガイデルに伝えた。


「俺は、いつか自国に帰らなければならない。姉妹が危なげなく暮らせるように手助けをするつもりではいるが永遠には無理だ。だから、俺がこの国にいる間にお前が何とかしろ」


 ガイデルの視線が不安げに揺れている。それがたまらなく腹立たしい。


「ロイダへの想いは、そんなに軽いのか? 駆け引きではなく本気で全てを捨てようという気持ちは無いのか? 俺なら――俺が、お前の立場なら――」


 俺がガイデルの立場なら? 軽々しく口に出して良い事ではなかった。彼にも背負う荷物がある。彼の気持ちも背負う物への思いも、彼にしか分からない事だ。


「すまない、言い過ぎた。二人を放り出して国に帰ったりしないと約束する。帰る前にはお前に話す。だから、あの二人の事は心配するな」


 ガイデルは強い痛みをこらえるように拳を握り締め、固く目を閉じた。俺の言葉はガイデルを傷つけてしまった。


「頼んだ」


 絞り出すようなその言葉を、どんな想いで口にしたのか。想像する事はやめた。

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