初めて触れる平民の暮らし
こぼれ落ちそうなほど目を見開く女の子を怖がらせないように、俺は出来るだけ優しい口調を心がける。
「ごめん、驚かせたね。初めまして、ヨーナ嬢。私はアーウィンと申します。こんなに可愛い女性にお目にかかれて光栄です」
幼い子が喜びそうな大げさな仕草で礼をしてやる。案の定、妹は目を輝かせて姉から離れた。
「わああ! 王子さま!」
どきりとする。まさか本当に王子だとは思っていないだろうが、少し驚いた。優雅な礼は姉の方にも効果があったようで、ふわふわと笑っている。
「お姉さま、転んだところを王子さまに助けてもらったの?」
「そうなの。だから、何かお礼をしようと思ってお連れしたのよ」
ヨーナは俺の周りを飛び跳ねるようにして、好奇心いっぱいの瞳を向けてくる。
(可愛いな)
姉妹そろって素直な気質のようだ。ますます二人だけで暮らしている事を危うく感じる。ロイダは俺と妹を見てほほ笑むと、手早く火を熾してお湯を用意し始めた。お茶を入れてくれるつもりなのだろう。
しきりに俺を観察するヨーナを、俺の方も観察していると、彼女は無邪気な顔でひどい事を言う。
「王子さま、少し臭い」
自覚はあるが少し傷つく。今までの人生で臭いなんて言われた事が無い。
「俺もそう思うんだけど、宿が満員だったんだ。ここには初めて来たから、他に湯を浴びられるような場所も知らなくて。どこか知らない?」
恐らくこう言ったら、お人好しそうなロイダは俺を家に泊めてくれるだろう。今から酒場まで戻るのも面倒だ。ここは清潔で居心地良さそうだし、監視の事といい、この姉妹はなかなか興味深い。
「では、今日お泊りの場所も無いのですか?」
「無い。酒場で夜を明かそうと思ってた」
「もしよろしければ、この家にお泊りになりませんか? 狭い所ですが酒場より体が休まると思います。お湯も沸かしますから湯殿で汗を流して頂けます」
ロイダは俺の思惑通り、迷いなく滞在を勧めてくれる。自分でそうさせたくせに、彼女の無防備さに苛立ちを感じる。
「それは嬉しいな、助かる。ありがとう」
彼女は嬉しそうに笑って、湯殿の準備を始めた。ヨーナは、良かったねえ、臭くなくなるねえと、無邪気に喜んでくれている。夕食について聞かれ、まだだと答えると、ロイダはまた嬉しそうに支度をしてくれる。ヨーナが、背伸びをして一生懸命に姉の手伝いをしている。
子犬のような姉と、もっと小さな妹。船の上でずっと、むさくるしい船員ばかり見ていたのだ。可愛らしい姉妹に俺の心は温かくほぐされていった。お伽噺の中に迷い込んだような、現実離れした世界にすら思える。
「簡単な物で申し訳ありません」
彼女が手早く用意してくれた料理は、お世辞ではなく本当に美味しかった。肉と野菜を煮込んだ物と木の実を混ぜ込んだパンは、高価な食材ではなく、特別な調理をした物でもないだろう。恐らく几帳面なロイダが丁寧に手をかけて作った物だ。
「俺が乗って来た船は、調理人がいないから干し肉と干からびたパンばかりだったんだ。本当に美味しい」
笑顔の二人に見守られて、久しぶりに心から食事を楽しめた。
食事を終えると、湯殿の準備が出来たと案内してくれる。手ぶらの俺に石鹸とタオルも貸してくれる。ヨーナが自慢するところによると、この辺りの平民の家には湯殿はなく、簡単に湯を浴びる設備しかないらしい。
「ヨーナのお家は、お祖父さまが湯殿作ったんですって。ヨーナ会った事ないけど、すごいお祖父さまなの」
「素晴らしいお祖父さんだったんだな」
褒めてやると嬉しそうに笑う。笑顔の多い女の子だ。姉が大切に愛して育てている事が分かる。
「おお!」
思ったよりも広い湯殿の中央に、大きな浴槽がありたっぷりの湯で満たされていた。窓から外を覗くと清流が見える。そこから水を引いて横にある装置でお湯を作っているようだ。
(すごいな、凝っているじゃないか)
「ふわあー」
気持ちいい。船旅で積もった疲労が気持ち良く洗い流され、思わず鼻歌が飛び出す。外からロイダが声を掛けてくれる。
「アーウィンさん、ここにタオルと着替えを置いておきますね。よろしければお使い下さい」
王宮と比べて快適とは言えない。しかし船上の暮らしに比べると天国のようだ。俺は気分良く体を清めると、ロイダが用意してくれたタオルで身体を拭き着替えに手を通した。
(こんな感じか?)
王宮では侍女に全て任せていた。自分で身体を拭いたり服を広げて手を通したりしない。さすがに服の着方は知っているけれど、正しく着れているか心もとない。
少しだけ不安に思いながら出ると、ヨーナが悲鳴をあげた。
「きゃあ、王子様、びっしょびしょ!」
頭を拭いたはずだが水が滴っている。服が濡れて不快だ。ヨーナの悲鳴に慌てて奥から出て来たロイダが目を大きく見開いて、浴室の近くの戸棚を開く。
「タオルでよく拭いて下さい!」
もう一枚、タオルを渡された。頭の拭き方が足りないらしい。タオルを頭に乗せて拭いてみるが、一向に水の滴りは無くならない。ロイダは困った顔をすると、俺を椅子に座らせて髪を拭き始めた。
(なんと。これは、快適だな)
侍女よりも手つきが柔らかくて気持ち良い。急ぐ様子もなく丁寧に、優しくタオルで水分を拭い取っていく。侍女達は乱暴という訳ではないが、急いで仕事を終わらせようとして機械的な動きをする。こんな風に、大切な物を扱うような触れられ方をしたことがない。
「終わりましたよ」
柔らかい声と共に、ぽんと両肩に優しく手を乗せられて、我に返った。
「ありがとう。気持ちいいな」
ロイダは恥ずかしそうに笑った後に、またお茶を入れてくれた。彼女達が入浴を済ませている間に確認したところ、この家はそれほど部屋数が多くなかった。台所と食堂を兼ねたこの部屋と、厠と浴室がある部屋、そのほかに二部屋あるようだ。恐らくどちらかを寝室として借りる事になると思っていた。
しかし、この家には寝室が一部屋しかないようだった。ロイダはそこを俺に使わせ、自分と妹は別の部屋の床に寝るつもりらしい。
(参ったな)
そこまでは考えが及ばなかった。客用の部屋が数えきれないほどある王宮ではない。この規模の平民の家に、多くの寝室が無い事は考えれば分かったはずだ。船で寝泊まりしていたくらいだから、俺は床でもいいと思ったが、恐らくロイダに言っても譲らないだろう。
部屋を覗いたところ寝台はかなり大きく、三人で並んで寝ても十分に余裕がありそうだ。見知らぬ男と一緒に横になるのは抵抗があるかとは思ったが、試しに提案してみる。
「家主を追い出す気はないよ。もし君達が嫌じゃなければ、これだけ大きい寝台だから一緒に眠ろう」
「でも、そんな事をしたらご迷惑でしょう。ヨーナは寝相がいいとは言えませんし、アーウィン様の眠りをお邪魔してしまいますから」
取り繕って言っている様子ではない。自分が不快かどうかではなく、俺が迷惑に思わないか心配している。何てお人好しなんだ。押し問答は面倒なので、三人で眠ると決めて行動に移った。
ロイダに抱かれて隣の部屋に行こうとするヨーナに『おいで』と手を伸ばしてみると、素直に手を伸ばして抱きついて来る。弟のエルウィンと背丈は変わらないのに、柔らかくて軽い。弟はもう恥ずかしがって抱き上げられてくれない。小さな温もりが懐かしい。
「ねえ、俺も君たちと一緒に眠っていいか?」
顔を覗き込んで聞いてみる。
「王子さま、いい匂いになったから一緒に寝る!」
にっこり笑って首にしがみついてきた。心がふんわり温まる。
「ほら、お姫様がこう言うんだからさ」
「ありがとうございます」
ロイダが申し訳無さそうな顔をして隣の部屋に寝具を取りに行く間に、寝台にヨーナを寝かせてやった。俺の寝具をかけてやり、横に寝そべり天井を眺める。
(この二人、もう少し他人を警戒した方がいいだろうな。今までよく無事に暮らして来たものだ)
今日会ったばかりの俺が、これほど心配になるくらいだ。他に、ロイダとヨーナの事を心配している人間がいてもおかしくない。恐らく、外の監視はその人間が寄越したものだろう。
(踏み込んで俺の身元を質さないと言う事は、彼女達の生活に口出しはしない方針だろうか)
もしくは口出し出来ない立場なのか。俺の訪問は、恐らくその人物の耳に入る。
面白いじゃないか。この先どうするか何も決めていなかった。すぐに、自国に帰るのもつまらない。もう少し、この可愛らしい姉妹を観察するのも楽しそうだ。
横からすうすうと規則正しい寝息がきこえる。隣の部屋から、ロイダが何かをする物音が聞こえる。
初めて来た場所なのに、ここは居心地が良くしっくり来る。王宮の自室にいるよりもくつろげる不思議な感覚だ。
考えているうちに、俺は眠りに引き込まれた。
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