意図しなかった出奔

 波の音がやけに大きく感じる、日差しが眩しい。ガアガアと耳慣れない鳥の鳴き声もする。


(日差し?)


 強烈な光が入り、切り裂かれたように目が痛む。起き上がろうとして、体全体がひどく痛む事に気が付いた。身動きも取れない。慌てて辺りに視線を走らせて、ひどく狭い所に横たわっている事が分かった。


(何が起こった?!)


 何とか身を起こして立ち上がる。背中と腕、腿に打ち付けたような痛みは感じるが、骨や筋などを傷めた感じではない。ひどい喉の渇きと空腹を感じる。足元に揺れを感じ、自分が挟まっていた樽に手を突いて辺りを見回した。強い潮風が髪を嬲る。


「海じゃないか!」


 俺は海を進む船上にいた。


 続いて、船に忍び込んで子供じみた振る舞いをしていた事を思い出す。恐らく俺は、帆柱から落ちて気を失っていたのだろう。どのくらい時間が経ったのか、陸地は影も形も見えない。焦らなければならないはずなのに、見渡す限りの水平線に心が踊り胸いっぱいに潮風を吸い込んだ。


「久しぶりに深く眠れたな」


 積もった睡眠不足が解消されて、体は不快だが頭の中はすっきりしている。広い海と空を体全体で感じ取ろうと思い切り伸びをした。


「だ、誰だ!」


 鋭い声に目を向けると、怯えた顔の船員が俺に対峙していた。腰を落とし掃除道具を構え、俺の動き如何ではすぐに攻撃をするつもりである事が分かる。


「そうか、俺は密航者になるな」


 面白い。面白過ぎる。俺は笑い出したいのを我慢して船員に船長の所に案内するよう告げた。



 俺は丸二日も気を失っていたらしい。使わない場所に積まれた樽の隙間に落ちていた俺に気付かないまま、船は荷物を積んで次の目的地に出航してしまっていた。俺の身元を知った船長は気の毒なくらいに狼狽し、自分と部下の命乞いを始めた。


 この船は俺の国の船ではなく、海を挟んだ外国籍の船だった。俺の国に貿易で訪れた帰りだという。船長にしてみれば、全く意図しなかった事ではあるが外国の王子を誘拐したと言われても仕方のない状況に陥っている。命乞いをしたくもなるだろう。


「完全に私の落ち度だ。迷惑をかけて申し訳ない。あなた方に責任が掛からないように全力を尽くすから安心して欲しい」


 何度も言うと、やっと落ち着いたのか船長は、船を俺の国に戻すと言い始めた。


(戻りたくない、外国に行ってしまおうか)


 幸いにも次の目的地は交流が深い国だ。言葉は不自由なく使えるし文化も理解している。せっかくだから自由に過ごしたいという誘惑は大きかった。王太子である俺が外国を訪問する時には大仰に扱われ常に人目に晒される。こんな機会は二度と訪れないだろう。


 泣きそうな船長を説得し、俺はこのまま予定通りの目的地に連れて行ってもらう事にした。


「あなた方は誰も乗せていない。私を見た事も無い。いいですね」


 身に付けていた腕輪を口止め料として与えた。宝石がついているそれは、船長と船員達が一年かけて稼ぐよりも高額で売れるはずだ。船長は震える手で受け取り、絶対に誰にも口外しない、部下にも口外させないと誓った。


 俺はついでに、体格が合いそうな船員から着替えを手に入れた。少し臭うが、この姿なら港で降りても自然と町に溶け込めるだろう。


(少しばかり、休暇を頂くとしようか)


 俺は爽快な気分で海風を楽しんだ。



 十日ほどの船旅を経て降り立った港町は、思ったよりも寂れた顔を見せていた。


 乗って来た船は、俺とわずかな荷を下ろすと、すぐに次の港に向けて出港した。通常であれば陸で数日骨休めをするらしいが、とにかく俺と離れたかったらしい。一部の不満そうにする船員を恐ろしい形相で急かして、船長は挨拶もそこそに出航して行った。


 船が到着した時に傾き始めていた太陽は、ぶらぶらと辺りを散策するうちに、あっという間に隠れて暗闇を連れて来た。曇り空から薄く月明かりが見えるが、何とか足元が見える程度だ。


「早く、宿を探さないとな」


 眠れたのは気を失っていた時だけで、翌日からは自室にいる時と変わらず眠れなかった。船室は狭く圧迫感があり、甲板に出ると揺れと波の飛沫が不安をあおり、船酔いこそしなかったものの旅は快適と言い難かった。


「おまけに、俺はひどく臭うな」


 船上で水は貴重だ。船長は俺に気を遣い、身だしなみを整える為に桶に水を入れてくれたが、それでは体を簡単に拭くのがせいぜいだ。十日も経つうちに体の汚れを感じるようになった。


 早く宿に落ち着いて体を清め、揺れの無い場所で手足を伸ばしたい。これだけ疲れていれば、眠れるかもしれない。


 人の流れを追って町と思しき場所にたどり着いたが、どうも賑わいが無い。この港はそれなりの流通があり町も栄えていたと記憶しているが、誤っていただろうか。腑に落ちない思いで通行人に尋ねて訪れた宿は既に満員だった。


「兄さん悪いな。今はもう、うちしか宿が無いんだ。この季節なら一晩くらい外で過ごしても風邪ひくことはないさ」


 お詫びにともらった果実を手で弄びながら、どうしたものかと通りをぼんやりと眺めた。薄暗い通りには人影がほとんど無く、道端には酔っ払いや、獲物を狙うような目つきの悪い男が座り込んでいる。治安が悪そうだ。


 酒場で一晩過ごそうかと思った時、目の端を鮮やかな色がかすめた。惹かれて目をやると薄闇の路地に不似合いな花園を見つけた。


(違う⋯⋯服か!)


 華奢な女性の歩みに合わせて、ふわふわとワンピースの裾がゆれている。そこには鮮やか花が咲き乱れていて、今にも香しい風が届きそうだ。物騒なこの場から浮いている彼女が惹いたのは俺の目だけではない。柄の悪い男達の目も惹いてしまっている。


(危なっかしいな)


 目つきの悪い男が腰を上げ彼女の後を追い始めた。嘗め回すように眺めるその姿からは、悪い想像しか浮かばない。


 見知らぬ女の事など捨て置けばいいという思いと、彼女の美しい佇まいを汚したくないという思いがせめぎ合う。


(ええい、面倒な)


 舌打ちをして、俺は女性を追う男の後をつけた。そっと腰に手をやって、服の下に隠した長剣を確認する。


 女性は自らに迫る危険に全く気が付いていない様子で、どんどん人気が無い方向に歩いて行く。小さなかごを手に、急いでいるのか脇目も振らずに小走りで進む。


 町の明かりがどんどん少なくなる。元は店だっただろう空き家がやけに多い。少し大きな建物の前で男が動いた。走り寄ると、後ろから女性の口元を腕で抑えて抱え込み、人気のない建物の陰に引きずり込もうとする。


「――!」


 女性がくぐもった悲鳴を上げるが、男の腕に阻まれてほとんど音が響いていない。腕を外そうと抵抗しているが、それも空しく引きずられて行く。


「くそっ! 本当に面倒な!」


 俺は足を早めて声を掛けた。


「おい、待て!」


追いつきざまに男の腕を掴む。


「諍い事は面倒だ。さっさと、その女性を離して立ち去れ!」


 しかし振り返った男は手を緩めるどころか、ますます女性を締め上げて下卑た笑みを顔に貼り付けた。女性は息が苦しいのか、真っ赤な顔をして必死で腕をはずそうと身をよじっている。


「何だよ、兄さん。あんたもこの女を狙ってたのか? じゃあ、一緒に楽しもうじゃないか」 


 虫けらのような男に嫌悪で身の毛がよだつ。俺は考える間もなく、思い切り男の顔を殴りつけた。蛙が潰されたような声を上げて、男がべしゃりと地面に崩れる。


 一緒に投げ出された女性が、うつ伏せの状態でわずかに身を起こして、大きく呼吸をしている。咳き込む彼女に手を貸して立たせ、呼吸を助けるように背を撫でてやる。大きな瞳からぽろぽろと涙こぼして必死に呼吸を整える女性は、まだ少女と言っていいような年頃だった。


「大丈夫か?」


 何度も咳き込む女性の涙を拭ってやりたいが、生憎とハンカチのような上品な物は船に置いて来てしまった。薄汚れた服の裾で拭うわけにもいかず、ただ優しく背を撫でてやる事しか出来ない。


 少し呼吸が落ち着いた女性は、よろよろと足元に転がるかごを拾い上げ、中からハンカチを取り出して涙をぬぐった。


「あ、あの」


 声を出そうとして激しく咳き込む。慌てて支えてやり、背を撫でてやると俺に詫びるような視線を向けた。ひどく震えている。


「落ち着け、大丈夫だから」


 地面に仰向けに転がった男が、体をよじって身を起こそうとしている。女性が怯えるように後ずさりしようとして、体に力が入らないのか転びそうになる。一人で立っていられない様子なので、抱き上げてやった。


(どうしたものか)


 男を完全に沈黙させたとして、この様子では一人で帰れないだろう。仕方ない。彼女が向かっていた方向に歩き始めた。


「あの男が起き上がる前に行くぞ。安心出来る所まで送ってやる」


 彼女は一瞬抵抗しようと体に力を入れたが、起き上がりそうな男に視線を向けると、大人しくなった。


「あの、ありがとうございます」


 震える声の儚さに、踏みにじろうとした男を益々腹立たしく感じる。


(もう2,3発、殴りつけてやれば良かったか)


「ご迷惑を、お掛けして申し訳ありません」


 震えながら涙声で詫びる女性は、花畑に埋もれた子犬のようだった。

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