私の願い、皆の願い

 私とヨーナがへたり込んだまま、ぼんやりアーウィン様が去った方を眺めていると、老人ががゆっくりと歩いて来た。服装から偉い人だと思われたので慌てて立ち上がり、ヨーナも立たせた。服装の乱れを直してやり、次に私の服の乱れも直す。


 バタバタと慌てる私達の前まで来ると、老人は穏やかな声で『こちらへ』と私達を大勢の人達の方に促した。


(行かなきゃ駄目かな。帰れないかな)


 恐らく偉い人が大勢いるんじゃないだろうか。腰が引けてしまい、ヨーナの手を強く握りしめた。立ちすくむ私を見て、老人は優しく笑う。


「アーウィン殿下がお二人の事を大切にされていると皆が知っています。国を離れている間に殿下を支えたあなた方に感謝しこそすれ、悪い感情を持つ者はおりません。安心してください」


 過分な感謝にいたたまれない気持ちにになる。でも行かないと、この老人を困らせてしまう気がした。仕方なく頷いて後を付いて行った。ヨーナの方がよほど堂々と歩いている。


 多くの人の間を抜けて老人は足を進める。所々に明かりを持った兵が立ち、ぼんやりと人の顔が分かる。皆が興味深そうな視線を私とヨーナに向けているように思えて、慌てて顔を俯けて視線を落とした。小声で話す調子から好奇心は感じるけれど、悪意は感じない。それでも、以前の町で貴人を注視して打ち据えられていた町民を思い出すと震えが止まらない。ヨーナにも顔を伏せるように小声で伝え、足元だけを見て出来る限り表情を消して歩いた。


 老人の足が止まり、私も足を止めた。


「ロイダさん」


 柔らかく声を掛けられて顔を上げると目の前には王妃様がいらっしゃった。口から心臓が飛び出しそうになり、慌てて最も敬意を表す礼をして顔を伏せた。私を見てヨーナも同じように習ったばかりの礼をする。


 王妃様は私に歩み寄ると、何と腰をかがめて私の腕を取った。私は緊張のあまり、また目が回りそうになる。


「王子が無理を言ってごめんなさいね」


 横を見ればエルウィン王子がヨーナの涙でくしゃくしゃの顔を拭いてくれていた。気が動転して拭いてやるのをすっかり忘れていた。慌てたけど、ヨーナは遠慮も無く『殿下、ありがとう』と拭かれている。


「私達でお役に立てる事でしたら、いくらでも」


 私にはもう、この場を走って逃げ去りたい気持ちしか無かった。王妃様は従僕に小声で何かを伝えると、身の置き所の無い気持ちの私の手を引いて人が少ない所に連れて行ってくれた。平民出身の王妃様には私の気持ちが分かるのだろう。エルウィン殿下がヨーナの手を引いて、一緒に連れて来てくれる。


「アーウィン殿下は今、自分自身と闘っています。試練を乗り越えられるよう、ここで一緒に願いましょう」

「はい」


 私は心から願った。アーウィン様が立派な王になる方だと信じているし、彼が自分との闘いに勝つと信じている。


 王都に向かう馬車で、不安がる皆を上手く宥める姿。頼る皆を優しく導く姿。訓練所では多くの師範達から尊敬の念を向けられていた。侯爵家の馬車から助け出してもらった時の、衛兵達すら怯えさせた鋭い一喝。自然と彼らを従わせたあの威圧感。


(アーウィン様、ご自分では平民になりきっていたつもりだった)


 あのガイデルだって、出会ったその日からアーウィン様を対等な立場の人として扱っていた。どんなに隠しても、内からにじみ出る王者の風格は消せなかった。アーウィン様が完璧なのは、幼い頃から厳しい教育と訓練を受けて、それに耐えて期待に応え続けた結果だとも、ガイデルは言っていた。そのアーウィン様が試練を乗り越えられないはずがない。


 たくさんのアーウィン様を心に浮かべる。心から尊敬している。


 しばらくすると、アーウィン様が去った方から、わあっと歓声が上がった。王妃様が勢い良く顔を上げて体をそちらに向ける。すぐに『無事に儀式を終えられました』という大声が上がり、もっと大きな歓声が上がった。


「良かった⋯⋯」


 王妃様が絞り出すような声で言い、私の手を握った。


「ロイダさん、ありがとう。ありがとう」

「わ、私は何も⋯⋯」


 ヨーナもアーウィン様が何かに成功した事は分かるのだろう。嬉しそうな顔をして人混みの方を熱心に見ている。


 王妃様は私の手を引いて人混みの方に向かった。更に騒がしくなったと思ったら『おめでとうございます』と口々にお祝いを言う声が聞こえてくる。


 その声がふっと止み、人々が静かになった。視線の先では、アーウィン様が誰かに跪いている。


(国王陛下かな)


 アーウィン様と同じくらい大柄で、同じように赤い髪の男性が威厳を持った姿で立つ。その前に跪いたアーウィン様の凛とした声が響く。


「王位継承の儀を終えました」

「国の為、民の為に、全てを捧げて励め」

「はっ」


 割れんばかりの拍手が起こった。私も一緒に拍手をした。


 逃げていたというアーウィン様は、しっかり立ち向かって成し遂げた。素晴らしい瞬間に立ち会えた事を嬉しく思う。感動の涙で視界がぼやける。アーウィン様は立ち上がって国王と握手をした。そして、辺りを見渡すと私に目を留めた。


(おめでとうございます!)


 そう思って微笑んだら、アーウィン様が駆け寄って来た。


(?)


 何でこっちに来るんだろう、アーウィン様と共に皆の視線もこちらに向かう。


「ロイダ!」


 駆けて来た勢いのまま、アーウィン様に抱きつかれた。


「ひゃあ!」


 広い胸に顔を押し付けられて周りを見る事は出来ない。それでも、皆が注目しているだろうことは想像出来る。


「あの、ちょっと、あの!」


 背中を引っ張って離そうとしてみたけれど、びくともしない。どうして良いか分からなくて、とにかく背中を一生懸命引っ張ってみる。


「アーウィン様、離してください!」


 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて息が苦しい。恥ずかしさのあまり、頭に血が上ってしまい耳まで熱くて仕方がない。


 少ししてからアーウィン様は腕を緩めてくれた。私は逃れて数歩後ろに下がった。血が上りすぎて目の前がくらくらする。


 アーウィン様はそれを支えるように私の両手を握ると跪いた。


「ロイダ」

「あ、はい」

「君を愛している。結婚してくれ」

「へ?」


 そう言えば、王位継承者になったら妻を選ぶと言っていた。これもこの国への移住の条件の続きなのだろう。


「あ、はい」

「結婚してくれるって事だな」

「はい」

「ほら、ちゃんと言葉にして」


 言葉と言われても、何と言えばいいのか。でも、アーウィン様の強い調子に、思い付いた言葉を言ってみる。


「け、結婚します?」


 これでいいのか不安になりながら言ったけれど、正解だったようだ。周りからまた歓声が上がった。アーウィン様は立ち上がると私をさっきよりも強く抱きしめた。今度は身を屈めて私の耳元で囁く。


「ありがとう、大切にする」


 とても嬉しそうなのは、儀式が成功した喜びなのだろう。私も嬉しいけれど、とにかく皆の注目を浴びているのが嫌で、早くこの場を去りたいと思った。

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