肩書を外す時
よく分からないまま、帰りはホーソンさんという老人と同じ馬車に乗せられて王宮に戻った。この国に来る時の船で挨拶をした気がする。さっき、儀式の時に皆の方に連れて行ってくれたのもこの方だった。
幼い頃からアーウィン様の事を知っているけれど、私の国での暮らしだけ知らないのだと、興味を持って色々と聞いてくれた。家庭教師か何かをされていたのかもしれない。
ヨーナはすっかり懐き、ピクニックの歌を教えていた。ホーソンさんのおかげで、少し気持ちが現実に戻って来た。儀式の場での事は全て夢のように思える。
部屋に戻ると、いつもと同じようにエダさんにお世話になってヨーナと順番に入浴した。今日はアーウィン様は遅くなるだろうと言われて寝台にもぐりこんだ。
(アーウィン様、成功して良かった)
少しは役に立てたらしい事を誇らしく思う。そして、この生活が終わりに近づいた事を寂しく思った。
落ち着いたら町で暮らす事になっている。仕立て屋夫婦の近くに家を借りて、また刺繍をして生計を立てようと思う。エダさんやエルウィン王子の反応を見る限り、この国でも私の刺繍は喜んでもらえるだろう。聞いている物価が正しければ私の蓄えでしばらくは暮らす事も出来る。
(でもアーウィン様とは、これでお別れだ)
港町からここまで一緒にいて頂いたけど、王位継承者としての道を進まれるアーウィン様とはさすがにここで別れることになる。この町で暮らす限り、たまには姿を見る事くらいは出来るかもしれない。
私はごろんと寝返りを打って、ヨーナの向こうの整ったままの毛布を見つめた。夜中にふと目が覚めた時、アーウィン様の赤い髪を見て、どれだけ安心したかを思い出す。この先は私がしっかりとヨーナを守って育てていかなければならない。
(アーウィン様と出会う前に戻っただけじゃない)
家族のように一緒の時間を過ごしたアーウィン様がいない生活を想像すると、両親を、祖母を失った時と同じくらい辛く寂しくなる。
私は眠るヨーナの丸いおでこを撫でた。
(大丈夫、私にはヨーナがいる)
ヨーナを育てているのではなく、私はヨーナに守られているのだと思う。ヨーナがいなかったら私は家族を失った悲しみから立ち上がれなかった。
それでも寂しいと思ってしまう自分が恥ずかしい。私は毛布を頭の上まで引っ張り上げた。私が今まで使っていた物よりも、ずっと肌触りが良くて高級な毛布。でも私は、ごわごわする毛布を掛けて三人で眠った日々を懐かしく思った。
カタンと音がした。アーウィン様が戻って来たのかもしれない。私は起き上がると上着を羽織って寝室の扉を開けた。
「ごめん、起こしちゃったかな」
「おかえりなさい」
ここは家ではないから『おかえりなさい』は変な気がしたけど、習慣で口に出てしまった。でもアーウィン様は優しく笑った。
「ただいま」
いつもと変わらない笑顔。さっきまでお別れの事を考えていたから、この笑顔に冷えて固まりそうだった心が温まる。
「儀式の成功、おめでとうございます」
混乱していたので、ちゃんとお祝いを伝えていなかった。アーウィン様は肩の荷を下ろしたような晴れやかな顔をしている。
「ありがとう。君とヨーナのおかげだ。本当にありがとう」
「歌が役にたちましたか?」
「うん。役に立った。勇気が出た」
「そうですか。お役に立てて嬉しいです」
「もう眠い? 入浴してくるから待っててよ」
「眠れなかったので、平気です。お待ちしてますね」
私はタオルを取りに行き、いつものように浴室近くの窓から外を眺めた。アーウィン様が伝えたのか、部屋の棚にはタオルが数枚と寝巻が常備されるようになった。私は小さな家に住んでいた頃のように、髪を拭くためのタオルを持って待機する。
いつものように、アーウィン様は頭をビシャビシャに濡らしたまま出てきて、私の前に腰掛けた。私はその頭を丁寧に拭く。
(こういう生活ももうすぐ終わり)
そう思うと名残惜しく、いつもよりも丁寧に拭いた。
「はい、終わりましたよ」
声を掛けると寛いだ笑顔で振り返った。
「ご褒美が欲しい」
「え?」
先日のようにぎゅっとして欲しいのだろうか。私が少し腕を広げてみせると、うんうん、と頷いた。先ほどの凛々しさは欠片も感じられない。私はタオルを畳んで浴室に置くと、椅子で待つアーウィン様の前に立ち、まだ湯気が立ちのぼる大きな体を抱きしめた。
「アーウィン様、物語に出て来る王子様みたいで素敵でした」
言ってから変だと思う。
「違いますね、アーウィン様は本当の王子様だから、物語の方が真似をしていますね」
想像の世界なのだから真似という事でもないのか。考え込むと、アーウィン様が私の肩のあたりでもごもごと不満そうに言う。
「考え事するなよ。ご褒美なんだから、俺の事を考えてちゃんと労ってくれよ」
「すみません、えっと。とにかく素敵でした。アーウィン様が己の葛藤を乗り越えて進む姿を見て心が震えました」
「ありがとう――」
その後の言葉は、くぐもっていて良く聞こえなかった。
「何ておっしゃいましたか?」
「ん? ありがとうって言っただけだ」
「そうですか?」
私はヨーナにするみたいに、起きな背中を何度も撫でた。
◇
しかしその後も、流されるままに生活を続けてしまった。
サジイル王国の礼儀や言葉、歴史を学び、たまに町に見学に行く。アーウィン様が少し遠くまで連れて行ってくれる事もある。ヨーナには、学問の家庭教師も付くようになった。今は学校に入るには時期が悪いらしい。それまで、この国の教育方針に合った勉強を教えて頂く。
エルウィン殿下は、相変わらず頻繁にヨーナの所に遊びに来て、二人で子犬のように転げ回って遊んでいる。たまに、殿下の遊び友達の輪にヨーナを誘ってくれる事もある。庭師が丁寧に整えた芝生の上を、ころころと転げる姿に、芝を傷めるのではと青くなって止めようとする私を、エダさんが大丈夫と笑って制する。
エルウィン殿下は海の刺繍のシャツが気に入ったようで、アーウィン様が言っていた通りマントの刺繍を頼まれた。
「兄上と同じ炎の刺繍がいいです!」
アーウィン様そっくりの赤く輝く瞳で期待されると、ついつい張りきってしまう。遅くまで刺繍をしてしまい、アーウィン様に『早く寝なよ』と呆れられてしまう事も多い。
王妃様には折に触れ気に掛けて頂き、頻繁にお茶にも招待して頂いている。初めは緊張して固まってしまっていたけれど、最近は少しだけ慣れて話が出来るようになってきた。一度、突然国王陛下が姿を現した時には、驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになった。ぎこちなく礼をする私に何度も『ありがとう』というお言葉を頂いた。
お礼の理由がか分からなくて、ただひたすら恐縮して畏まる事しか出来なかった。国王陛下も王妃様も、私が町でアーウィン様のお世話をしていたと思っているみたいだけど、お世話になっていたのは私の方だ。
王宮では緊張する事が多いけれど、楽しい交流もある。定期的に、王妃様と数人の女の子達に刺繍を教える事になった。侍女や貴族のご令嬢が入り混じっての場では、身分を忘れて過ごすようにとの王妃様の命で、皆が私を友人のように扱ってくれる。港町の友人と離れて久しかった私は、心からその時間を楽しんでいる。
しかし、当然このままではいけない。どうやら婚儀の支度が進んでいるようなのだ。突然やってきた人が『一番大切なドレスは親しい仕立て屋の方にお願いするとは思いますけど』と私の採寸をして好みの色や花を聞く。聞く限りでは婚儀に関連したドレスの事に思える。
(そろそろ、本当は結婚しませんと伝えなければならないのでは?)
この国に移住して、アーウィン様の近くで過ごす為に『結婚相手』の肩書が必要だった。ヨーナと二人で暮らせる目途がついたら、ここを出る事になっている。ここは居心地が良く、アーウィン様と離れたくないばかりに、つい甘えて長居をしてしまった。
寒い季節はあっという間に終わり、もう温かくなり始めている。この国に来てから、もう三か月近く経ってしまった。仕立て屋夫婦のお店も落ち着いたと聞くし、いいかげん独り立ちする時期だろう。
「アーウィン様に、ちゃんとお話ししよう」
ヨーナにも伝えた。ひどく不満そうで、伝えた日は沈み込んだ顔をしていたけれど、町で暮らすようになって仕立て屋夫婦とも頻繁に会えるようになれば変わるだろう。
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