未来に続く選択肢
思わず手を振り払ってしまった。アーウィン様は精霊ではなく人間の男性だ。当然の事を急に意識してしまった。
(結婚?)
私の聞き間違いだっただろうか。ひどい勘違いだろうか。でも、結婚相手として来てくれと言った。一緒に暮らしていたから身近に感じるけれど、本来は私が気軽に話し掛けられるような立場の方ではない。ガイデルが『一緒になろう』というような意味の結婚ではないはずだ。
考えがまとまらず言葉が出ない私を見て、アーウィン様は少し顔をしかめた。
「心配するな。表面上そう取り繕うという事だ。俺の結婚相手という肩書があれば、国籍を変えやすいし侯爵家と言えども君達に手出し出来ない。俺の国に行った後も、結婚相手なんだから近くで暮らす事も自然に見えるだろう?」
やっぱり。私は一瞬でも本当に結婚するのかと勘違いした事が恥ずかしくなる。
「でも取り繕うにしても、異国の平民と結婚なんて無理がありませんか?」
「前に言った事なかったか? サジイル王国では結婚に身分は関係ない。俺の母が早逝した後、父は後添えを迎えた。その継母は平民出身だけど、皆に受け入れられて愛されている」
少し考えてみる。本当にそんな嘘をついて良いものだろうか。どれほどアーウィ様に迷惑を掛けてしまう事か。
「初めて行く国で、いきなり二人では暮らせないだろう。君とヨーナが俺から離れても大丈夫だと思えるまでは一緒にいよう。急がなくていいから、落ち着くまでは結婚相手として暮らせばいい」
「でも、本物の奥様を選ぶ必要がありますよね。アーウィン様がお困りになりませんか?」
アーウィン様は少しだけ目元を強張らせた。本当は困るのだろう。
「困らない。そんな事は気にしなくていい」
比べるまでもなく、この国で侯爵家に怯えながら逃げ隠れするよりも、サジイル王国に連れて行ってもらう方がヨーナが健やかに暮らせるに決まっている。でも、でも。
「俺は君達の幸せを望んでいるし、離れたくない。一緒に行こう。今度こそ、俺を頼ってくれないか?」
私がすぐにサジイル王国で自立出来れば、お世話になるのは、ほんのわずかな期間で済むだろうか。そのくらいなら、頼って良いだろうか。
「あの、サジイル王国でも私の刺繍は仕事に出来ると思いますか?」
「それは、確実に約束できる。この国とはまた違う布や糸が手に入るだろうから、新しい意匠を考えるといいんじゃないか」
「言葉は、どうでしょう。サジイル語は片言程度ですが、共通語でしたら私もヨーナも読み書き会話、支障なく出来ます」
「それで十分だ。サジイル王国でもほとんどの人が共通語を使える」
「ヨーナが通えるような学校もありますか?」
「ある、安心しろ」
ここでの暮らしと変わらない気がして来た。
「サジイル王国でも、すぐに自立出来る気がしてきました」
私はアーウィン様に向き合って姿勢を正した。
「私とヨーナを、一緒に連れて行って頂けないでしょうか。出来るだけ面倒をお掛けしないよう心掛けます」
「うん、一緒に行こう」
アーウィン様は嬉しそうににっこり笑った。
「明日の朝、仕立て屋に行って彼らにも同じ話をする。彼らも、ここで平穏に店を続けるのは難しいだろうからな。彼らにはそれほど侯爵家も執着しないだろうから、国籍を変える事は容易だろう」
順調に仕事が増えて来たと喜んでいたご夫婦の顔を思い出すと申し訳ないと思う。同時に、一緒にサジイル王国に来てくれたらいいなと身勝手な事も思う。近くで暮らすことが出来れば安心だ。
「明日から王宮に行く事が多くなる。さすがに自国の人間とも話をしなければならない。俺がいない間は、出来るだけ仕立て屋の家で過ごさせてもらうんだ」
「あの、そのまま国に帰ってしまったりしませんよね? さよならも言えないままお別れする事になりませんよね?」
私とヨーナを連れて行く事が許されず、そのまま国に帰ってしまったとしたら。もう二度と会えなくなってしまったら。
「どの口でそんな事を言うんだ。これを自分でも読んでみろ」
アーウィン様が不愉快そうな顔で、テーブルの上に置いたままになっていた私の手紙を指した。お別れも言えずに去る事になる失礼を詫びた気がする。
「もう会えないかもしれないと思った時の、俺の気持ちが分かったか?」
慌てて手紙を回収して折りたたんでポケットに突っ込んだ。アーウィン様は少し表情を和らげる。
「遅くなっても、必ず帰る。俺の家はここだから」
「ありがとうございます」
眠る時、昼間の事を思い出して怖くなった私は、ヨーナの枕をぎゅっと抱きしめた。もしあの時アーウィン様が助けてくれなかったら、私はあの恐ろしい世界に囚われたままだった。
身動きするたびに背中が鈍く痛む。馬車で連れられて行く時に、何度も強く小突かれた背中は、入浴時に確認したら赤くなって熱を持っていた。
(きっと痣になるんだろうな。でも、これだけで済んで良かった)
港町にいる頃には、領主様や周りの貴族達は町民に親切で、余程の無礼を働かない限り無体な真似はしなかった。しかし王都では違った。馬車の通行を妨げた、店に貴人が入って来たのにすぐに退店しなかった、貴人がいるのに入店しようとした、不躾な視線を送った、そんな理由で家畜のように鞭打たれ、暴力を振るわれる人を頻繁に目にした。
侯爵家で暮らす毎日は、どんな生活になっていただろう。背中の痣がかすり傷に思えるくらい、毎日鞭打たれ誰かの気に障ると殴られる日々。
私は腕に抱えるヨーナの枕に顔を埋めた。ぎゅうっと抱きしめると、また背中が痛む。
アーウィン様が身動きをする衣擦れの音が聞こえた。目を開けると、アーウィン様は肘をついて半身を軽く起こしていた。そして、片手を私に差し出す。今日、何度も言ってもらった『手を出して』を思い出し、そっと手を重ねてみる。
アーウィン様は柔らかく笑うと、穏やかに歌を歌ってくれた。聞いた事が無いこの曲はサジイル王国の歌だろう。
(子守歌?)
それほど上手では無いけれど、低く柔らかい声は私の心の恐怖を溶かしてくれる。
(サジイル王国⋯⋯)
アーウィン様は衛兵達が、相手の身分で正義の判断をする事に憤っていた。こういう人が上に立つ国では、町の人々はどんな暮らしをしているのだろう。
包まれた手からも温かさが伝わって来る。
新しい国、新しい生活。海を渡るのに、港町から王都に引っ越しをした時よりも不安は少ない。
(アーウィン様がついていてくれる)
私は怖さを忘れて、いつの間にか眠りに引き込まれた。
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