別れの覚悟

 部屋の中に残されてから、どのくらい経っただろうか。一度、食事が与えられた。お手洗いに行きたくなって部屋の扉を少し開けると、着替えを手伝ってくれた使用人が連れて行ってくれた。何を尋ねても一言も答えてくれない。彼女は辛そうに唇をかみ、優しく労わるように腕を取って案内してくれる。


 食事に手を付ける気になれず、窓も無い部屋で足元を見つめて過ごした。


 耳にした情報を整理してみる。


(グリゴールという人の妾として勤めると言っていた)


 それは、足だけ見たあの男性の事だろうか。刺繍を独占したいのなら、私をここに置かなくても良いではないか。報酬を素直に受け取らなかったから、言う事を聞かないと思われたのだろうか。


『人が思い通りに動かない事を不愉快に思う人間がいる』


 アーウィン様の言葉を思い出した。権力で思い通りにして溜飲を下げるつもりだろうか。


 しかも妾と言った。どんなに身分の高い人が相手であっても誉れとは思えない。見知らぬ人をどうやって愛すればいいのだろう。


(違うわ。きっと私からの愛なんて必要ないのよ。毛色の変わった玩具を一つ手に入れた、せいぜいそんなところでしょう)


 ここは私の想像を超えた世界だ。ヨーナを巻き込んではいけない。さっきの使用人は私がヨーナと一緒に過ごせるように進言すると言っていた。ヨーナの事を持ち出したのは失敗だった。


 仕立て屋夫婦は帰してもらえたのだから、この先も今まで通り暮らせるのだろう。だとしたら、ご夫婦にヨーナを預かってもらいたい。


(ずっと娘のように可愛がってくれたから、お願いしたら、きっとヨーナを悪いようにはしないはず)


 アーウィン様は立派な大人だから心配ない。突然の事に驚くとは思うけれど、これを機会にご自分の国に帰るかもしれない。でも、少しくらいは寂しいと思ってくれるだろうか。


 今日の夜は、二人が好きな肉に野菜を詰めて焼く料理を作る予定だった。美味しいと喜んでくれる笑顔を見て一日の話を聞き、三人で枕を並べる幸せな日は、きっともう戻らない。永遠に続かないとは分かっていたけど、こんなにあっけなく失われる物だったとは。


 二人に会いたくてたまらない気持ちを心から追い出す。


 扉が開いて初老の使用人が姿を現した。


「刺繍の道具を取りに行く許可が出ました」


 それだけを言うと私を外に連れ出した。今から馬車で家に向かい、その場で刺繍道具をまとめてヨーナを連れ、またここに戻るように言われた。荷物をまとめる間、馬車は外で待つので逃げないようにと釘を刺された。


 初老の使用人は馬車には乗らず、中には怖い顔をした若い使用人がいた。私の上から下まで眺めまわす視線は、とても不快だった。


 どのくらい待ってもらえるのか分からない。私は頭を働かせて、この後の行動を考えた。


「長くは待てないから急げ」


 馬車から下りると、若い使用人が早く歩けと私の背中を小突く。痛くて声が出そうになる。彼は家の入口まで付いて来た。緊張しながら扉を開けるとヨーナが勢いよく飛びついて来た。私は使用人の視線からヨーナを隠すように、急いで扉を閉めた。


「お姉さま、遅かったのね! ヨーナ、心配になっちゃった」


 私はヨーナを抱きしめて首筋に顔を埋めた。ヨーナの香りを思い切り吸い込む。泣いてはいけないと思うのに、涙が溢れ出てきてしまった。体の震えも止まらない。


「お姉さま?」


 ヨーナが力いっぱい私を押しのけて顔を覗こうとする。私は袖で涙をぬぐってヨーナの顔を正面から見つめた。


「良く聞いて。困った事が起こってしまって、私は遠くに行かなければならなくなった。いつ帰れるか分からない」


 ヨーナの顔が強張る。私はヨーナの柔らかい両手を握りしめた。小さくて熱くてしっとりしている。ぎゅうっと握りしめる。


「私がいない間、仕立て屋のご夫婦にあなたを預かってもらおうと思う。いい子で言う事を聞いて、私が帰るのを待っててね」

「遠くってどこ?」

「ヨーナが知らない所。ごめんね、どうしても行かなきゃならないの」

「嫌だ、嫌だ! ヨーナも一緒に行く!」

「ごめん、無理なの。ごめん」


 コン、コン、と扉を叩かれる。まだほんの少ししか時間が経っていないのに。私の様子を見てヨーナが怯えたように扉を見る。


「私は支度をしなければならない。ここで大人しくしていてね」


 私は手早く大きなカゴに最低限の刺繍の道具を入れた。実は特別な道具なんて必要ない。どうしても刺繍をさせたいなら、新しい道具くらい用意してくれるだろう。


 次に手紙を書く。一通は仕立て屋夫婦に。ヨーナをお願いしたい事、今までの蓄えの場所と、それをヨーナの為に使って欲しいと記す。それほど多くは無いけれど、港町の家を処分したお金も合わせればヨーナが成人するまで最低限の生活が出来るだろう。仕立て屋夫婦なら、それでヨーナを育ててくれるはずだ。

 

 もう一通はアーウィン様に。今までのお礼と、お別れも言えずに去る事になる失礼を詫びた。給金を貯めておいたことを書き、そして最後にアーウィン様の困り事が解決するように願う気持ちを記した。


 ゴン、ゴン、ゴン。


 扉を叩く音が荒くなった。そろそろ限界だろう。


 私は二通の手紙をヨーナに手渡した。


「お願い、アーウィン様が帰ってきたら手紙を二通渡してくれる? それから、アーウィン様に仕立て屋の所に連れて行ってもらってね。事情は仕立て屋で聞けると伝えてちょうだい」


 ヨーナも緊急事態だと分かったのか、涙でぐしゃぐしゃになった真っ赤な顔で頷いた。


「あなたの事を愛してる。どんなに離れていても、私はあなたの事をずっと想っているから」


 もう一度抱きしめた。この温もりを絶対に忘れない。しがみつくヨーナを離して両方の頬を押さえておでこをくっつけた。


「元気でね」

「お姉さま! お姉さま! 嫌だ、行かないで」


 扉の向こうの人に、ヨーナの姿を見せたくない。泣きわめくヨーナを仕事部屋に入れてから、私は刺繍道具が入ったカゴを手に取った。家の中をぐるりと見回してお別れを言う。


 ゴン、ゴン、ゴン!


「お待たせしました、今、出ます」


 声をかけて扉を開けた。

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