貴族の世界

 侯爵夫人に報酬をお返しした数日後、急ぎと言われていた刺繍を仕立て屋に持って行った私は、突然訪ねて来た侯爵夫人の使いという人に、無理やり馬車に乗せられてしまった。仕立て屋夫婦も一緒だ。


「奥様が、あなた方に報酬とは別の形でお礼をしたいと仰せです」


 馬車の中で仕立て屋のご主人が使者に色々と尋ねても、それ以上の事は答えてもらえない。普段着のままでで侯爵夫人の前に出ていいものかと、奥さんは何度も身支度に戻らせて欲しいと伝えたけれど『そのままで結構です』としか答えてもらえない。


 王都の道は混雑している。馬車は何度も止まりながら、ゆっくり時間を掛けて侯爵家に到着した。混乱して頭が回らなくなった私は、歩いた方が早い距離を馬車に乗るなんて不思議だと、ぼんやり考えていた。


 恐らく使用人用だと思われる門をくぐり、雑多な荷物が積まれた入り口から中に引き込まれ、薄暗い廊下を何度も折れ曲がり、やがて小さな部屋に通された。またすぐに、私と奥さんは別の部屋に連れて行かれて使用人から着替えを手渡された。


「これを着るんですか?」


 奥さんも混乱しているようで、服を持ったまま立ち尽くす。使用人は私達に気の毒そうな視線を向けて宥めるように言う。


「私達も何も知らされていなくて、お二人に身支度をさせるようにとしか聞いていないのです。抵抗しても無駄だと思います。さあ、お叱りを受ける前に着替えてしまいましょう」


 私達は訳がわからないまま渡された衣服に着替える。こんな上質な服は、今まで刺繍で扱った事はあっても、自分で袖を通すのは初めだ。使用人に髪型を整えてもらい、お化粧までされた。奥さんはお金持ちの奥様のように見える。


「ロイダ、お金持ちのお嬢さんみたいだよ」


 戻った私達を見て、ご主人は目を丸くした。そういうご主人も、お金持ちの紳士のようだ。


 三人で笑うと少しだけ気持ちが落ち着いた。しかし急かされるようにまた屋敷の中をどこかに連れて行かれる。ご主人が侯爵夫人の洋服の採寸をした時には予めきちんとした服装で訪れたから、こんな風に着替えたりしなかったらしい。


「何でまた、こんなに急にねえ」


 奥さんがため息をついている。私は広すぎる屋敷に驚いている。美術館よりもずっと広いのではないだろうか。階段を上り何度も廊下を折れ曲がるうちに、廊下の装飾が美しくなってきた。使用人の裏の世界から、主人達の表の世界に出たのだろう。やがて凝った装飾が施された大きな扉の前で使用人は足を止めた。


「少しお待ちください」


 そのまま待たされる。少しと言ったけれど、暇を持て余して座り込みたくなるくらい待たされた。辺りは静かで話をする事すら憚られる。私達はぼんやりと立っていた。


(わあ、天井に絵が描いてある)


 美術館にあったような絵が廊下の天井にずっと続いている。美しいけれど、暮らすには落ち着かなそうだ。


 ガチャリと重い音が響いてゆっくりと扉が開いた。私達は緊張して背筋を伸ばした。


「お待たせしました」


 先ほどとは違う初老の使用人が中から現れて扉を大きく開き、私達を部屋の中に促す。柔らかい絨毯に足を取られそうになり、豪華な調度に圧倒される。私はご主人と隣に並ぶ奥さんの後ろに隠れるようにして二人の後に続いた。


 怖くて視線を上げられないけれど、奥の長椅子に座っている人や、更にその奥に立っている人など何人かいる事が分かる。恐らくこの家の方々だろう。


 やがて長椅子の人々から少し離れた所で二人が足を止めて丁寧に礼をした。私もそれに倣い、頭を下げたまま声が掛かるのを待つ。


「よく来ました。顔を上げなさい」


 冷たく厳しい声の指示で、少し顔を上げてみる。貴人を見つめるような無作法な真似をしてはならない。私はご主人の背中を見つめた。


「私の衣装に刺繍をしたのは後ろの娘ね。前に出なさい」


 ひっと悲鳴が出そうになるのを堪えて礼の姿勢から体を起こし、ぎこちなく歩いて奥さんの隣に並んだ。


「もっと前に」


 助けを求めるように仕立て屋夫婦を見ると、二人は青い顔をして小さく頷いた。私は一歩前に出た。


「もっと!」


 苛立ったような声に腰が抜けそうだ。私は足の震えをこらえて、今度は二歩前に出た。満足したように、恐らく侯爵夫人だと思われる女性は鼻で笑うような息をもらした。


「見たところ、ごく普通の町娘ね。とてもあれだけの刺繍を作り上げる芸術的な素養があるようには見えないわ」


 褒められているのか貶されているのか分からないけれど、刺繍は気に入ったという事だろう。私は頭を深く下げた。怖いので視線は上げず、足元の絨毯を見つめている。


「グリゴール、どうする?」


 夫人が近くの誰かに声をかけた。その人は立ち上がると、私の前まで歩いて来た。目に入った足元から推測するに若い男性のようだ。


「もっと顔を上げるんだ」


 男性が私に言う。私は視線は絨毯に向けたまま、顔が見えるように体を起こした。無遠慮な視線を向けられている事が分かる。恐怖が顔に出ないよう表情を消し、怖くて震える手を握り締める。


「へえ、悪く無いね。僕がもらうよ」

「そう? じゃあ決まりね」


 夫人は私達に向かい『もう結構よ』と言い放った。私達は使用人に促されて、また何度も何度も廊下を折れ曲がり、階段を下って使用人の世界に戻った。


 元の衣服を返されて着替えを済ませて、仕立て屋夫婦と三人だけになると、私は腰が抜けたように床に座り込んだ。


「何だったんでしょうねえ」

「さあ、さっぱり分からんな。お礼って話だったけど、何も言わなかったよなあ」


 ご夫婦も首をひねっている。とにかく家に帰りたい、私達には馬車なんて必要ないから扉を出て帰ってしまおうかと話していると、侯爵夫人の部屋に招き入れてくれた年配の使用人が入って来た。私は慌てて立ち上がる。


「ご足労頂きまして、ありがとうございました。こちらのお二人はお帰り頂いて結構です。お手間を取らせたお礼は後程お受け取り下さい」

「え! 私は帰れないのですか!」


 思わず大声を出してしまう。使用人は仕立て屋夫婦に『こちらの二人』と言った。まるで私は帰ってはならないようだ。


 使用人は無表情のまま私に向かう。


「お嬢様には、こちらに残って頂きます。あなたは、グリゴール様の妾としてお勤め頂く名誉を授かりました」

「何だって!」


 仕立て屋のご主人が使用人に詰め寄った。私は言葉の意味が上手く飲み込めずにぼんやりとしてしまう。


(妾として勤める? 名誉を授かる?)


「これ以降は奥様のご指示以外で刺繍をする事を禁じます。加えてあなたには、グリゴール様の妾というこの上もない名誉な立場が与えられました。こちらも、しっかり励む事です。全て卓越した刺繍の腕に対する評価によるものです。身に余る幸運を深く感謝するように」


 奥様の為だけに刺繍をしなさいと言われた事は理解した。その先が理解出来ない。仕立て屋の旦那さんの顔を見ると顔色が真っ白になっている。奥さんは座り込んでしまった。


「そんな、何て無茶を言うんだ。この子には決まった相手がいる。幼い妹もいる。こんな事は許されない」


(ヨーナ!)


 私も力が抜けて、奥さんの隣に座り込んでしまう。仕立て屋夫婦はしきりに使用人に何かを言ったけれど、入って来た他の使用人に無理やり引きずり出されてしまい、私と年配の使用人だけが残された。


「私は、帰れないのですか」


 私はまた同じ質問を繰り返す。使用人は少しだけ痛ましそうな顔をして答えた。


「はい、お帰し出来ません」

「家には幼い妹がいます。私は帰らなければなりません」

「奥様のご命令ですから」

「お願いです、他の誰にも刺繍をしないと誓います。これからは、奥様の為だけに刺繍をします。だから家に帰して下さい」

「なりません。妹さんの事は安心して下さい。こちらで一緒に過ごせるように進言致します」

「せめて、今日は家に戻して頂けませんか? あの子に何も言って来ていません。今頃きっと学校から帰って私がいなくて心細くなっています。私には両親がいません。あの子には私だけなんです、お願いです」


 必死にすがりつく私をみて、多少は哀れに思ってくれたのだろう。大きく息をついたものの、使用人は厳しい顔で帰せないと繰り返す。


「そうよ、刺繍の道具! 祖母から受け継いだ愛用の道具が無いと、私は刺繍が出来ません。せめてそれを取りに戻らせて頂けませんか?」


 使用人はやっと考えるようなそぶりを見せて、『確認して参ります』と部屋を出て行った。

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