新しい生活

「おば様、こんにちは!」


 私がヨーナの手を引いて仕立て屋の扉をくぐると、カウンターの奥で生地を断っていた奥さんが、私の声に振り返って笑顔をくれる。


「こんにちは、ロイダ! ちょっとだけ待っててね」


 私は頼まれていた品をカゴから出してカウンターに置いた。薄手の艶やかな布に、半透明の糸で細かい刺繍を入れている。天窓から差し込む光が当たると、布も刺繍も透き通って空気に溶けてしまいそうだ。


 ジャキジャキと布を断つ音が響く。目を閉じると港町を思い出して懐かしくなる。鋏がたてる音、布から漂う染料の少し尖った香り。でも潮の香りは感じられない。ここは父のお店でも、港町のお店でもない。


「お待たせ。思った以上に多くの注文を頂いて、誰か人を雇おうかと思うほど大忙しよ。ありがたい事だわ」

「おじ様とおば様の腕は素晴らしいですから。王都でも認められて嬉しいです」

「ロイダの刺繍も好評だよ。ここは珍しい布も糸も手に入りやすいから表現出来る事が増えたのかね」


 この刺繍に使った半透明の糸は、港町では滅多に手に入らなかった。珍しい色の糸も王都では比較的容易に手に入る。仕立て屋夫婦の服も私の刺繍も港町にいた時よりも高値で売れるから、珍しい素材を気負う事なく購入する事が出来るようになった。


「ヨーナ、この刺繍がとても好きなの。お姉さまの刺繍、前よりもずっと美しくなったと思うの!」


 奥さんが布を広げて日にかざして、うっとりとした口調で言う。


「ヨーナが言う通り、この刺繍は特に美しいね」


 故郷の海を思わせる薄い水色の布に、濃淡ある青を縫い込んだ。羽織ると海をまとったような気分に浸れるだろう。


「アーウィン様に美術館に連れて行って頂いて、たくさんの絵画を見ました。刺繍の参考になるだろうっておっしゃったのですが、その通りでした。表現したい図案が頭の中から溢れそうです」

「ロイダの刺繍は、身分が高い方の間でも評判になり始めているようだよ。奥方様のドレスにも、ずいぶん刺繍をしたでしょう。社交の場で注目を浴びているって、うちの人が喜んでたよ」


 港町に居た頃から領主の奥方様は私の刺繍を好み、仕立て屋が誂えたドレスには必ず刺繍を依頼して頂いた。王都の目の肥えた方達にも認めてもらえたと思うと舞い上がってしまう。


「お姉さま、すごいのね!」


 新しい注文をもらい、私とヨーナは足取り軽く家に向かった。先日納めた刺繍がお客様に好評で追加の心付けを頂けたから懐も温かい。市場に寄ってヨーナが好きな果物とアーウィン様が好きな魚を買った。


「この魚も美味しいよ。おまけしてやるから、持ってけよ!」

「ひゃあ!」


 魚屋さんの若者は親切だけど、どんと押し付けられるように渡されると驚いてしまう。


「ああ、ごめん。あんた綺麗だから気合入るんだよな。絶対また来てくれよ? 他の魚屋に行くなよ?」

「ど、どうも、ありがとうございます」


 いつも港町育ちの私達ですら馴染みが無いような美味しい魚を勧めてくれる。王都には国中の物が集まっていて、こういう時に世界は広いと感じる。


「ただいま」

「たっだいまー」


 誰もいない家の窓を開けて空気を入れ換える。寒いので手早く済ませて空気を温めたい。ヨーナに部屋の片づけを頼んで、私は夕食の支度に取り掛かった。疲れてお戻りになるアーウィン様を温かい部屋にお迎えしたい。


「ヨーナ、アーウィン様の入浴の支度をお願いね」

「はあい!」


 王都に移ってから三か月が経つ。手探りではあったけれど落ち着いた暮らしが出来るようになった。王都は広くて人口も多い。港町から一緒に越して来た住人とは、ほとんど顔を合わせていない。家賃も驚くほど高くて今の家は以前に比べると狭い。浴槽にたっぷりのお湯を沸かすような贅沢な設備はなく、湯を頭の上から浴びる事しか出来ない。


(でも、浴室すら無い家も多いって奥さんが言ってた。もし、もっと私の刺繍の仕事が多くなったら、浴槽がある家に移れるのかな)


 贅沢を言えばきりが無いけれど、刺繍の仕事は順調で物価が高い王都でも暮らしに困っていない。


 アーウィン様は、ガイデルの紹介で武術の訓練所で師範をしている。一緒に働く師範仲間は心根の優しい方が多いそうで、アーウィン様が自分達よりも腕が立つとを素直に認めて教えを請う人も多いそうだ。


「子供に教えるのは初めてだけど、思った以上に楽しいよ」


 訓練所の師範という仕事は性に合っていると、毎朝、楽しそうに出掛ける。アーウィン様は給金の大半を私に渡してくれるけど、実はそれには手を付けていない。国にお戻りになる時の旅費に出来るようこっそり蓄えている。


 ヨーナは学校に行き始めた。前の町では人が減り始めた頃に学校が閉鎖され、しばらく学習が止まっていたけれど、アーウィン様が来てヨーナに教えてくれるようになってからは、学校で教わるよりも先に進んでいたようだ。港町育ちで、大陸の共通語などの外国語には通じている事もあり、勉強では他の子よりも頭一つ抜き出でているらしい。


 ヨーナには甘いアーウィン様だったけど、勉強だけは別だ。夕食後に時間を作り、嫌がるヨーナに予習と復習をさせている。聞けば、アーウィン様は子供の頃に泣くほど勉強させられたそうだ。厳しい家に育ったらしい。


「ただいま!」

「おかえりなさいませ」

「おかえりなさい、アーウィンさま!」


 部屋が温まり、夕食の支度が整った頃にアーウィン様が戻った。いつも、戻るとすぐに入浴して汗をさっぱり流す。ヨーナが、整えておいたタオルや衣服を手渡した。


「お、ありがとう」


 今でもアーウィン様の髪を拭くのは私の役目だ。嬉しそうに寛いだ様子を見るのは私の楽しみにもなっている。たまにヨーナが邪魔をしたり、アーウィン様の膝によじ登って甘えたりしている。


 私達の暮らしは順調だ。でも、一つだけ私の心を重くする事がある。


(ガイデルに会いたいな)


 ガイデルが住む屋敷とこの家の距離は歩いて数分の距離だ。それでも、王都に移住してから彼の顔を見たのは片手で数えられるくらいだろう。貴族が軽々しく町を歩かないここでは、自由な外出が難しいと言っていた。


 寂しくなった夜には、台所の窓からガイデルの屋敷の方角を眺める。家が立ち並ぶここでは庭に出ても隣家の壁しか見えない。町が明るくて月も星も輝きが小さく感じる。海が懐かしい。


 会う時間が減ったら、自然とガイデルと私の間も冷えると思い、それを望んでいたはずなのに苦しくて仕方ない。


 私は大きく息をついて明かりを消した。月明かりを頼りに寝室に入る。真っ暗になる事を怖がるヨーナの為に、窓には覆いをしていない。差し込む隣家の窓明かりに照らされた二人の寝顔を眺める。


「二人とも、大好き」


 小さくつぶやく。引っ越しを機にアーウィン様には個別の寝室を用意しようとしたけれど、一緒でいいと言ってくれた。ヨーナがアーウィン様と一緒の方が安心すると我儘を言うので、ありがたかった。寝台を三個くっつけて、港町の家に居た時と同じように一緒に眠っている。


 アーウィン様の薄闇でも美しく光る赤い髪を眺めた。私はすっかりアーウィン様が一緒にいてくれる事に慣れてしまっている。家出をしたと言うアーウィン様は、いつか自分の居場所に帰ってしまうだろう。ガイデルに続いて、アーウィン様も私達の生活からいなくなったら。


 私は嫌な考えを振り払って寝台にもぐりこむと、ヨーナの丸いおでこに手を乗せて、温もりを感じる。

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