故郷を守る人

 遠くで汽笛が聞こえる。朝一番の船が出航したのだろう。私は眠気を振り払うために、数回ごろごろと転がった。


(あれ?)


 普段ならヨーナにぶつかるはずなのに。寝相の悪いヨーナは、夜中に何度も位置を変えるけれど、体のどこかしらを必ず私にくっつけている。大抵は足だ。


 お手洗にでも行ったのだろうか。眠い目を無理やり開く。


「ひゃあ!」


 誰かがいる。一気に眠気が覚めて飛び起きた。赤毛の長身の男性が仰向けで万歳するように両腕を投げ出して眠り、ヨーナは彼のお腹の上に足を乗せて眠っている。


(そうだ、この人。アーウィン様)


 まだ驚きで心臓がどきどきしている。昨日、暴漢に襲われかけた所を救ってくれた恩人。宿が無いというので、ここに泊まって頂いた。


 長めの赤い髪が枕の上に広がっている。そこに朝日が差し込み、美しく輝いている。顔だちも美しく整っている。ガイデルの屋敷で見た戦士の彫刻が、こんな感じではなかっただろうか。


 とても不思議な空気をまとった人だった。船乗りの服装をしていたけれど、振る舞いからはガイデルや他の貴族の子弟のような上品さを感じた。入浴後の様子からも、人から世話を受ける事が自然な暮らしをしていたように見える。


 私は、ぐっすり眠る二人を起こさないように部屋を出ると、急いで身支度を整えた。私とヨーナだけならともかく、アーウィン様もいるのだから少しはちゃんとした朝食を準備したい。


 私は大きめのカゴを手に庭に出ると丘の上に続く道を上った。そこに広がるこじんまりとした畑で色づいたトマトを収穫する。他にも数種類の野菜を収穫すると丘を更に上った。少し先に大きな石に腰掛けたユーゴさんの姿が見える。


「おはようございます!」

「おはよう、ロイダ」


 ユーゴさんは顔一面を覆う真っ白のひげをもごもごとさせて挨拶してくれる。幼い頃から可愛がってもらっている私は髭の下に笑顔が隠れている事をちゃんと知っている。


 ユーゴさんの後ろの小屋で、鶏がコケコケと鳴く声が聞こえる。


「ユーゴさん、卵を分けて頂けませんか?」

「もちろん、いいとも」


 ユーゴさんは足元に置いたカゴを持ち上げた。中には真っ白な卵がたくさん入っている。私はカゴの中に入れていた、小さなカゴを取り出す。


「三個頂けますか?」

「もっと持って行きなさい」


 ユーゴさんは小さなカゴに何個も入れてくれた。


「ありがとうございます!」


 私は代わりに先ほど収穫した野菜を渡した。

 

「却って悪いね。ロイダが育てる野菜は、お前らしい優しい味がするから好きだよ」

「ふふふ。ユーゴさんから頂く肥料のおかげですよ」


 ユーゴさんは私が小さい頃からずっと、ここで鶏を育てている。すぐ下にある私の家の畑に発酵させた糞を肥料として撒いて、野菜を美味しくしてくれる。収穫した野菜と交換で卵を分けて頂く。この関係が祖父の代から数十年続いているという。


「ロイダの野菜も、もうすぐ食べられなくなるなあ」

「ユーゴさんは、本当にこの町から離れないつもりですか?」

「そのつもりだ」


 ユーゴさんはひげの中に光る目を海に向けた。


「私は生まれてからずっとこの町で育ってきた。今さらこの年齢で他の土地には馴染めない。⋯⋯馴染みたくない」

「私も、本当はここにいたいです」


 祖父母と両親の思い出が詰まった町。ユーゴさんや他の人たちとの思い出、ガイデルや他の友達と遊んだ思い出。新天地への憧れよりも、思い出が詰まったこの土地から離れる寂しさの方が大きい。


「あんたのような若者には、まだ昔を懐かしむ権利なんか無いぞ。ひたすら前に進め。疲れたら立ち止まって休むのもいいだろう。でも、後ろを振り返って懐かしむのは、もっとずっと先まで行ってからにしなさい」


 ユーゴさんの温かく落ち着いた声は、私を落ち着かせる。両親が亡くなった時も祖母が亡くなった時も、温かく落ち着いた声で励ましてくれた。


「ユーゴさんと離れるのも寂しいです」


 つぶやく私に、いつもと同じ調子で答えてくれる。


「私はずっとここにいる。会いたくなったらおいで」


 王都に行ったとしても『故郷』にユーゴさんがいてくれると思うと心強い。戻れる場所があるような気になる。


「はい、ありがとうございます」


 ヨーナが起きる前に戻らなければならない。私はユーゴさんにもう一度お礼を言うと丘を下りた。


 卵を割らないように慎重に歩いていると、家の方から何やら騒がしい音が聞こえる。言い争うような声と剣がぶつかるような金属音。


(まさか、ガイデル? こんな早い時間に?)


 慌てて庭まで下りると、そこではガイデルとアーウィン様が剣を抜いて切り結んでいた。二人が交わしているのは真剣に見える。


「何をなさっているんですか!!」


 大声で叫ぶと、ガイデルが私に視線を向けてから数歩後ろに下がった。ガイデルがこんなに朝早く来るのは珍しい。何があったのか。


「もういい、分かった。勝負はお預けだ」


 ガイデルは、軽く剣を振ると護衛のリベスさんに渡した。リベスさんが自分の腰の鞘に剣を納める。


「ほら、返せよ」


 ガイデルがアーウィン様に声をかけると『はいはい』と投げやりな返事をして、アーウィン様がガイデルに剣を渡した。


「どうして、こんな事に」


 ガイデルは、ひどく不機嫌そうな顔をしている。アーウィン様は、悪戯でも仕掛けるような笑みを浮かべて私に言う。


「君の怖い恋人が、不貞を疑って俺を切り捨てようとしたんだよ」


(恋人! 不貞!)


 あまりに思いがけない言葉に唖然としてガイデルを見ると、彼は少し赤くなった。


「失礼な事を言うな! ロイダと俺は恋人同士ではないし、君とロイダの間に何かあるなんて疑ったりしない」

「だって家から出て来た俺を見て、血相を変えて身元を問い質したじゃないか」


 アーウィンさんは手首に結んでいた紐をほどくと、髪を束ねてぎこちない手つきで結んだ。ガイデルは気まずそうに私の顔を見た。


「突然、君の家から見知らぬ男が出て来たんだ。不審な人物だと思った」


 昨日の経緯を知らなければ当然の心配だろう。


「ごめんなさい、心配してくれたのよね。この方はアーウィン様。昨日の晩、町で困っていた所を助けて頂いた恩人なの」


 私はアーウィン様に向かう。


「アーウィン様、この方はガイデル様です。ここの次期領主です」

「困っていた所って?」


 ガイデルの厳しい声に私の心臓が跳ね上がる。あれほど注意するように言われていたのに油断して危険な目にあった。


「大した事じゃないのよ」

「ロイダ」


 声に有無を言わせぬ強い圧力を感じる。


「えっと⋯⋯」


 目をそらす私から、ガイデルは何としても聞き出すつもりらしい。


「ロイダ」

「⋯⋯」


 必死で誤魔化し方を考える。目を上げると、彼の美しい青い瞳に捕まってしまった。


「何があったか言うんだ」


 私は抗う事を止めて素直に白状する事にする。


「実は⋯⋯」


 話すうちに、不機嫌そうだったガイデルの顔が、ますます強張っていく。ちらりとアーウィン様の方を見ると面白がるような顔で私達を見ている。話し終わるとガイデルは大きく息をついた。


「無事で、良かった」

「あんなに心配して忠告してくれていたのに、ごめんなさい。これからは、もっと気を付けます」

「そうしてくれ。聞いていて背筋が凍った」


 ガイデルはアーウィン様の方に向き直ると頭を下げた。次期領主ともあろう人が、身元も知れない人に頭を下げるなんて。私の方が緊張してしまう。


「友人の危機を救ってくれた恩人に失礼な態度を取って申し訳なかった。感謝している」

「友人? ふうん、友人なんだ。まあいいや。大した事はしていないし、酒場で過ごさずに快適な一晩を過ごす事も出来た。君に感謝されるような事じゃないな」


 アーウィン様は軽い調子で笑っている。ガイデルは、少しだけ不愉快そうな顔をしたけど、すぐに私に向き直った。


「ロイダ、ここはもう安全とは言えない。王都に出発するまでの間、ヨーナと一緒にうちの屋敷に来て欲しい」

「え!」


 平民の娘が、領主の屋敷に気軽にお世話になる訳にはいかない。まさか、先日の妾の話の続きのつもりなのだろうか。いずれにせよ、受けられない話だ。何と言って断るか頭の中で言葉を選ぶ。


(えーっと、えっと。何て言おう)


 思いつかない。でもガイデルは私の答えを聞くまで待つつもりに見える。鼓動が早くなって来た。


(えっと、えっと⋯⋯)


「それなら、俺がここにいるよ。しばらく住むから心配いらないよ」

「「え!」」


 アーウィン様は冗談を言った様子では無かった。ガイデルが驚いたように目を見開いている。リベスさんもポカンとした顔をしている。


「あの、しばらくって。今日も明日もお泊りになるという事ですか?」

「俺はもう船を下りたんだ。暮らす場所と仕事を探してたから、ちょうど良かった。護衛代わりにここに置いてよ」


 一晩限りの事ならともかく、ここで暮らすつもりとは。


「私とヨーナは二週間後に、ここを引き払って違う土地に移るつもりです。なので、えっと⋯⋯」

「二週間ででいいよ。その後は別の場所に行くことにする」


 どうしたらいいだろう。ガイデルの顔をみると眉を寄せて口を引き結んでいる。断れと言っている顔だ。


(でも断ったら、ガイデルの申し出を断りにくくなっちゃう)


 アーウィン様を見ると、にっこり微笑んだ。


「恩人が困ってるんだから、助けてくれるだろう? 置いてくれるよな?」

「――はい」

「ロイダ!」


 ガイデルの眉が吊り上がっている。怖いけれど仕方ない。


「お姉さま、おはよう!」


 そこに、ヨーナが寝巻のまま飛び出して来て私にしがみついた。そのまま飛び跳ねるようにガイデルにしがみついた。そして、同じようにアーウィン様にもしがみついた。


「おはようございます、王子さま」

「おはよう、お姫さま」


 ヨーナが満足そうに笑った。その様子を見て、ガイデルは諦めたようにため息をついた。


「町の警備を、もっと増やした方が良さそうだな」


 ガイデルはリベスさんに目で合図をした。


「ロイダ、いくら恩人でも見知らぬ人間なんだ。気を付けろよ」


 ガイデルは私の頭を軽くなでるとリベスさんを促して立ち去った。

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